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ナマエ
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長めのアイライン、涙袋は存在感が強くなりすぎない程度に錬成して、強い女の概念カラーのレッドをそっと瞼に乗せぼかす。ノーズシャドウもしっかり入れて平坦な顔に凹凸を作っていく。睫毛はしっかりとビューラーで上を向かせてからマスカラをダマにならないように塗る。髪型は今日のメイクに合わせていい感じに。前髪は流した方が大人っぽく見えるだろう。
毎日施す派手すぎずすっぴんに見えないようなナチュラルメイクはすっかり飽きてしまった。そして今日は休日、自分の好きなメイクを好きなように出来るご褒美の日だ。ブラウンを重ねるだけの平日と違って休日はどんな色を使おうと問題ない。色相環で真逆に位置する色を重ねてもいい日なのだ。
出来上がった今日の私を鏡越しに見つめる。我ながらいい出来だ。服は黒一択、露出はそこそこ多めで。タートルネックのニットに脚が大胆に見えるスリットの入ったタイトスカートの組み合わせが最高に似合いそう。少し外は肌寒かったのでコーデュロイのシャツを一枚羽織ろう。脳内で思い描いた姿を形にするべくクローゼットからこの日にしか着ない服達を引っ張り出す。そうだ、網タイツか薄手のストッキング合わせたらもっといいかもしれない。それかガーターもアリ。
私が好きなファッションは所謂クールビューティなものだ。少し危ない雰囲気を纏う怖そうでセクシーなお姉さんだったりしっかりとパンツスーツを着こなす綺麗なお姉さんとか。低身長で童顔な素の私とは正反対だからこそ憧れる。でも、せめて姿だけは真似してみたくて、休日にその夢を毎回叶えているのだ。最早コスプレと言っても遜色ないレベルだろう。浮き足立つ気持ちを抑えながら、黒のハイカットブーツを足に街へ繰り出した。
▽
ウキウキ気分で買い物を終え、カフェで買ったカフェラテ片手に帰路に着く。温かさが体の芯から沁みて疲れが癒されていく。歩きながら熱々のカフェラテを飲めるほど舌は強く無いので止まっては飲み、を繰り返していた。四回目に立ち止まった時だっただろうか、後ろから声をかけられ反射的に振り向く。男性の声だった。その一言だけで下心を読み取ったというのに、なぜ振り向いてしまったのだろうか。数秒前の自分をしっかりと呪う。正直怖いが今の私は最高に強い女なのだ。はっきり物を言えるはず。勿論穏便にすませる努力はするけども、相手の出方次第で一発脛に蹴りでも入れて走って逃げるくらいの気持ちでいよう。震えそうになる声を必死に抑え男性を睨みつける。
「はい、なんでしょう」
「ははっ、ンな警戒すんなって。単にいい女が居るから声かけただけだよ」
「そうですか。すみません、急いでるんで」
「え〜、そんな襲われ待ちの格好してんのに?」
気持ちが悪い。生理的に無理。
吐き気を誘うような男の言葉に思わず後退る。怖い、どういう思考回路してるの。
これは私がしたくてしている服装であって断じて男性を誘おうとして着ている訳ではない。百歩譲ってそのつもりで私が着ていたとしても、すれ違っただけの男を誘うわけないだろうが。
その間も男は「脚すっげぇエロいな」だとか「この透け感堪んねぇ」と言葉を重ねる。
「あの、この服装は私が好きでしてるのであって、男性を誘うつもりなんか欠けらも無くて……」
「え〜、でも実は違うんでしょ?」
語尾にハートが付きそうなほど気持ちの悪い猫撫で声を発しながら、しっかり逃がさないよう私の肩に回そうとするその手を反射的に叩き落とした。その弾みに手に持っていたコーヒーの雨が私に降り注ぐ。パシン、と乾いた音に驚き、歪んだ男の表情が段々と怒りに染まっていく。
「おいテメェ…女のくせに生意気な……!」
先ほど叩き落とした手が握られ振り下ろされる。殴られる。思わずぎゅっと目を瞑ったが一向に痛みは感じない。
「はぁい、そこまでぇ」
違う男の声に思わず顔を上げる。私を庇うように遮る男性は片手でナンパ野郎の手を捻りあげていた。数十センチ上の光景をぽかんと見上げるしかできない。
「俺さぁ、今すっげぇ気分悪くてねぇ。とりあえずアンタのこと殴ってもいい?」
軽い口調でとんでもないことを言い出した男性に悪質ナンパ野郎がひっと情けない声を上げた。結局は自分より弱そうな相手にしか強く出れないそこら辺の雑魚、そんな雑魚に敵わない自分はそれ以下ではあるが。“なんで”と問われた男性が言葉を続ける。
「え〜、だってアンタはこの子が“自分を誘ってる”って思ったんでしょ?俺にはァ、アンタが”俺に殴られたがってる”ようにしか見えないんだもん」
アンタが言ってたのこういうことでしょ?
背中しか見えないが素敵な笑顔で言い放っていることだろう。悪質野郎の表情を見て察するにきっと。ぱっと手を離した男性は「分かったらさっさと帰ってねぇ」とまた軽やかに言い放つと片手をひらりと振って男は産まれたての子鹿のような足取りで逃げ帰っていった。戻ってこないのをしっかりと二人して確認した後、男性がこちらを振り返る。
「怪我してない?」
「あっ、はっ、はい。触れられてないので特に怪我は……それよりも助けてくださってありがとうございました」
のんびりとした口調とは似合わないレザーのジャケットが辺りを照らし出した街灯に照らされ怪しさを増している。それが何だか怖くて、顔を上げられなかった。
服に染みたコーヒーが段々と体の熱を奪っていく。真っ黒な服で良かった。シミになっても目立たず済むだろう。男性は私の様子に気がついたのか困ったように唸る。
「うーん、とりあえず服濡れちゃったよね。俺今から馴染みのバー行くんだけどさぁ。丁度女の子の仲間も居るしそこでとりあえず服乾かしたら?」
確かに、家まではまだ距離がある。このまま帰れば風邪を引く──可能性はあまり高くは無いが、この男性との関係を少しでも長く繋ぎ止めておきたくて。その優しい言葉をこくりと頷いて肯定する。
「んじゃ、行こっか」
背を向ける前にいつの間にか脱いでいた彼のジャケットを私の肩にかけ前を歩く。あまりにもスマートな対応にきゅん、と心臓が跳ねる。顔が紅くなってる気がするし、メイクだって崩れ始めているだろう。こんな情けない姿なのがとても悔やまれた。
▼
異人町名物の輩に絡まれてから早数分。一歩前を歩くお兄さん──何となくオニーサンと呼ぶ方がしっくりくる男性。拳をチラつかせてスマートに解決してくれたが、物騒な物言いを思い出し今さらながら不安を覚える。もし怖い人だったらどうしよう。ぼったくりバーだったらどうしよう。次から次へと不安が具体的な輪郭をはっきりと濃くしながら浮かび上がってくる。普段ならその時点で逃げ出そうと画策するが、今は“トキメキ”とかいう脳内麻薬が効いていてただぼんやりと彼の話に相槌を打つことしか出来なかった。
「おねーさんはここら辺の人?」
「はい、職場が神内駅の方で」
「なぁんだ、知っててここら辺一人で歩いてたの。危ないじゃん」
「早く帰りたくて……つい、近道だったので」
もー、なんて可愛らしい返答。愛嬌がある、なんてついさっき暴論で解決しようとしていた人間に当てはまるのか分からないが、厳つめの成人男性から発される言葉とは思えない。案外中身は緩い人なのかもしれないな、とぼんやり推測する。馬鹿正直に住んでいる場所を答えるのではなく、職場を答えたのはギリギリ残った防犯意識だった。今日は休日なので関係はないけれど、近道したくて通ったのは事実だし嘘はついていないから良心は痛まない。良心が痛む予感がした時点でだいぶ手遅れな気がしたがそこには目を瞑った。
長身で程よく筋肉がついて細身なシルエットが規則正しく揺れる。綺麗だなと純粋に思った。見惚れているとそんな彼が突然こちらを振り向いた。びっくりして大袈裟なくらい肩を跳ねさせてしまったけど、彼は「さっきのこともあったし怖いよね、ごめんね」と申し訳なさそうに笑った。
「い、いえ!違いますっ!お兄さんが怖かったとかじゃなくて、その、寧ろさっきのことは忘れてたくらいで」
「あら、もう忘れてたの?」
「あ、いいいや、それも違くて、」
「あははっ」
あわあわと困る私、笑う彼。困らせているのに彼は楽しそうだ。揶揄われているようで恥ずかしい、だけど嫌じゃない。顔が熱くなっていて、どきどきと好感度が上がる音がする。
「振り返ると思ってなかったからびっくりしただけ、とか?」
「ぁ、は、はい!その通りです!」
首が取れちゃいそうなくらい激しく頷くと「んふ、」と彼が笑いを堪えようとした努力が伺える声を零した。あぁもう、本当にカッコイイな。こちらが返事に困ってるから助け舟を出してくれたのとか、彼の笑い方だとか。好意に気がついたせいで、小さな仕草すら私にはきらきら輝いて見える。彼の足取りが少し遅くなったのはきっと気のせいだ。
それから何を話したのかちゃんと覚えていないせいもあって、あっという間にオニーサン行きつけのバーに着いた。彼が扉を開けて「おまたせぇ」とのんびりとした挨拶を一つ。後ろから着いていこうとしたら手でお先にどうぞと促されたので、「お邪魔します」と言いながら足を踏み入れる。たった一言に二人きりじゃ無くなる残念な気持ちやら、緊張から開放された安堵感やらの雑念が乗ってしまった気がして、それが彼にだけはバレてないことを願った。
「趙〜!待ってたぜ!」
「やっと来た。その子が電話で言ってた子ね」
もじゃもじゃ頭の男性が真っ先にこちらに気が付き声をかけ、その横に座っていた綺麗なショートカットのお姉さんがタオルと洋服を片手に駆け寄ってくる。高いヒールを履いているのを感じさせない歩みが美しくて、第一印象が素敵なお姉さんに決まった。
「さっちゃん、アリガトね。とりあえず任せてもいい?」
「勿論。……じゃあ、とりあえず二階行こっか」
私の背中をとん、と彼が押してくれてそのままさっちゃんと呼ばれた女性に連れられて階段を上がる。災難だったわね、と労いの言葉を投げかけつつ先に部屋に入った彼女はカーテンを閉めてから持っていた荷物を私に差し出す。
「とりあえずこれがタオルで……洋服、一応用意はあるんだけどサイズ合わなそうだからもう少し別の探してくるね」
「何から何まですみません……」
「気にしないで。それと、こういう時は“ありがとう”って言うものよ」
「!!あ、ありがとうございます」
「ふふ、いーえ。じゃあ少し待っててね」
綺麗な笑顔を浮かべたお姉さんが下の階へと姿を消した。一人になってようやく一息つける。コミュニケーション能力が高いわけでもない私にとってここまで緊張の連続だった。服を脱ごうと思い肩に手をかけると借りていた上着を肩にかけていたままだったことを思い出す。オニーサンの着ていたライダースジャケットだと意識してしまうと落ち着きを取り戻していた心臓がまた暴れだした。先程まで感じなかった煙草の香りがしてきて余計におかしくなりそうで、慌てて脱いで畳に座る。借りてた上着が濡れたら良くないから慌てただけ、と自分に対して言い訳をしてからそっと隣に置いた。
お借りしたタオルを一枚広げてその上に濡れてしまったシャツとニットを置く。濡れていたのは上着とニットまでで下着やスカートは濡れてなかったのは幸いだ。そのままタオルに包まる。はーぁ、と長い溜め息が零れた。今となってはオニーサンと関わるきっかけを作ったあの気色悪い男と遭遇したのも、プラスに転じるくらいには気分は良い。当然だが男自体を許すことは無いし、二度と遭遇したくないが。
「ねえ、ちょっと派手なのしか無かったんだけど……大丈夫かな」
「!!あっ、はい、暖かい服で帰れるだけで十分なので大丈夫です」
「ホント?良かった」
どうぞ、と戻ってきたお姉さんに渡された服は派手な柄モノのシャツだった。普段なら絶対着ない柄でちょっと緊張する。タオルを置いてシャツに腕を通すとやはりかなり大きい。でも着てみるとレディースのオーバーサイズくらいの着丈で案外違和感は無かった。ボタンを下から留めていると私を見つめていたお姉さんが口を開く。
「私、紗栄子っていうの。あなたは?」
「紗栄子さん、だからさっちゃんか……私はナマエです」
「ふふ、そういうこと。ナマエちゃんね、よろしく」
紗栄子さん、と名乗った女性はふんわり笑った。こちらもよろしくお願いします、と頭を下げる。そんな穏やかな挨拶をした後、突然紗栄子さんが距離を詰めて囁く。下の階からは賑やかな笑い声が聞こえてくる。
「ねぇ、ナマエちゃんと一緒に来た彼奴何か変なことしなかった?」
「えっ、いやいや、何も無かったですし、とっても優しかったですよ」
「なら、良かった。彼奴優しいけど、ちょっと怖いところあるから心配で」
そう言われて助けてくれた時を思い出す。確かにアレを真正面で受け止めるのは怖い。見た目通り、と言ったら失礼だが相応の強さを感じたのは確かだ。ここに来るまでの事を思い出すとまた顔が熱くなってきた。ひとまず怖がってない私に安心したのか彼女は私の隣で足を伸ばす。着替え終わるまで待ってくれるようだ。
ボタンを全て留め終わり、お待たせしましたと声をかけ立ち上がる。床に散らばった服をまとめていると彼女がぼんやりと口を開いた。
「こういうのも合うかなって思ったんだけど、やっぱり似合ってるね」
「あ……そう、ですね。元の服が黒ばっかりだったので、派手な色でもしっかりまとまりますね」
「だね。じゃあ降りようか」
ビニール袋を片手に持っていた彼女は私の手から濡れた服を回収し詰めていく。じゃあ私はとりあえず───と視線で持っていくものを探すとあのライダースジャケットが目に留まった。あれ、貸してもらったのは私だし私が返すべきだろうな。両手で拾い上げ、じっと目に焼き付けそのまま腕にかける。紗栄子さんがまとめてくれた服を受け取ろうとしたが、階段を降りるのに荷物が多かったら危ないでしょうと断られたので大人しく今は引き下がった。
階段を降りると先程と変わらない彼ともじゃもじゃ頭の男性が二人で飲んでいた。ピアノの方にはイケメンの男の人とおじさん、メガネの人も居る。女性は紗栄子さんともう一人、窓際でパソコンと睨めっこしている方がいた。着替えが終わった私に気がついた彼が、ひらりと左手を挙げたので吸い寄せられるように近付く。そんな彼の目が何かに驚いたように大きく見開かれたが、直ぐになんて事ない普通の表情に戻った。
「え、似合ってるじゃ〜ん。サイズ合わないかと思ってたのに、ゆったりしてる感じで可愛いね」
「!あ、ありがとう、ございます……」
顔が一気に熱くなる。嬉しい、照れる。サラッと可愛いと言うあたり女の子の扱いに慣れててモテる人なんだろうな。お近付きになりたい気持ちと私じゃ釣り合わないだろうという気持ちが半々でまぜこぜになる。まあでも、今は気持ちに素直になって恋する乙女をしよう。
後から一緒に降りてきた紗栄子さんが私の両肩をぽんと叩く。
「そりゃあ私のコーディネートですから。ね、ナマエちゃん」
「さすがさっちゃん、いい子にはお酒奢ってあげる」
「やったー!あ、ナマエちゃんも飲もうよ」
「わ、私もいいんですか……?」
紗栄子さんが彼の隣に座るように私を促す。少し迷ったが彼が「おいで」って優しく椅子を叩いて誘う。そんなん、断れる訳ないじゃん。じゃあお邪魔します、と呟いてから紗栄子さんと彼の間に座った。元々お酒は弱いからバーは数回しか来たことがないせいもあって余計に新鮮だ。
「マスター、一番高いウイスキーちょうだい」
「遠慮ないねぇ」
「今更アンタに遠慮とかするの逆に気持ち悪くない?」
「それもそっか」
けらけらと両隣の二人が笑い出す。マスターがカウンターに滑らせてくれたメニューを眺める。お酒自体詳しくないから書いてある名前からどんなお酒か想像すらつかない。紗栄子さんが頼んだのはこのお酒だろうと値段を見て推測した。……いや、これはボトルでの値段だった。結局何も分からない。うーん、と唸っていると彼がどんなのがいいかと私に問いかけた。素直にお酒は弱いことと出来ればフルーツ系のお酒が飲みたいことを伝えると「じゃあこの苺のなんてどうかな」と提案されたので二つ返事でそれに決めた。
「ところで、ナマエちゃん」
「はっ、はい」
「あは、そんな緊張しなくても大丈夫だよ。」
彼が飲んでいたグラスの縁をくるりとなぞる。初めて名前を呼ばれた。自己紹介したっけ、あ、紗栄子さんが呼んでるから分かるか。彼の柔らかい話し方の裏には何かミステリアスな雰囲気を感じて、ドキドキしてしまう。
「趙天佑」
「……え?」
「俺の名前、趙天佑っていうの」
「ちょう、てんゆーさん」
「はぁい、てんゆーさんでーす」
穏やかな笑顔を浮かべながら私の顔を覗き込む。フルネームで呼んだのに、しれっと名前呼びの方をピックアップするあたり本当に狡い人だ。きゅんとしたのを悟られたく無いのだが、どう返せばいいか分からなくて顔を赤くすることしか出来ない。抱えていたジャケットを無意識にぎゅっと抱き締め───ジャケット?
腕の中に視線を落とすと先程借りた彼のライダースジャケットが。返すために持っていたのにすっかり忘れて私の一部としてここに鎮座していたようだ。慌てて椅子を回転させてジャケットを両手で彼に差し出す。恥ずかしさで消えてしまいたい。彼を直視できないのと紗栄子さんに助けを求めたくて視線を彷徨わせたが、ご馳走してもらったウイスキー片手にもじゃもじゃさんと楽しく談笑していてこちらには全く気が付きそうに無い。
「す、すみません!持ってたの忘れてて、」
「あ、やっぱり?大切そうに抱えてるなぁって見てた」
「いっ、言ってくださいよ!」
ごめんごめん、と彼は悪びれる様子なく受け取りジャケットに腕を通す。その間私は何も言えなくて無言の時間に苦しさを覚え始めた頃、ことりとカウンターにグラスが置かれた。マスターに感謝を述べ、手を伸ばす。
「じゃあ、乾杯しよっか」
「は、はい」
「かんぱーい」
「かんぱい」
おずおずと両手でグラスを差し出すとまた楽しそうに彼は目を細めてグラスを鳴らした。一口恐る恐る口にするとそのまま苺を食べているみたいに爽やかな味がして、思わず美味しいと呟いた。彼は口にあったようで何より、と自分のグラスを傾ける。緊張していたせいもあって乾いた喉に美味しいお酒は罪だ。アルコールも弱めで飲みやすい。半分ほど飲んでコースターにグラスを預ける。
「初めて飲んだんですが、とっても美味しいですね」
「でしょ。俺も苺食べたい時良く飲むんだぁ」
何それ可愛い。可愛すぎるでしょと詰め寄りたいレベルでギャップにときめいた。思考レベルの低下が酔いが回ってきてることを実感させる。ねえねえ、とカウンターを指で数回叩くと彼は自身の腕をぎゅっと抱き締めた。私が頭にハテナを浮かべていると、
「ジャケット、あったかくて抱き締められてるみたい」
「なっぅ、」
投げられた爆弾によく分からない言葉を思わず発した。私の顔が赤いらしくて、趙さんは「苺飲んだら苺みたいになっちゃったねぇ」なんて酷なことを言い出す。あちらが私をどう思っているかは分からないが、私が彼を好意的に見ていることは確実にバレている。上手い返しが出来るいい女でありたかったとこれほどまで後悔したことは無かった。
「あは、ナマエちゃんってかっこよくて照れ屋さんなの可愛いね」
こんなこと言われて会話を続けられるニンゲンはいるのかと疑問に思う。少なくとも私は何も言えなくて、グラスを無駄になぞることしか出来なかった。そんな私を意図的に無視して追撃を続ける。
「俺もさ、最初ナマエちゃん見た時カッコイイ素敵な女の子がいるなって思ってたんだよね」
「そしたらそんな見惚れてた子が厄介な奴に絡まれてて、助けなきゃって」
「でもさ、助けなんて要らないくらいその子は強くて。俺、すごいきゅんとしちゃったんだ」
「好きなものを貶された時、怒れる子ってすごく素敵だと思わない?」
「あのナンパ男はすっごく腹立つけどさ、君の素敵なところを知れるきっかけが出来たから次会ったら見逃してあげてもいいくらいには許せちゃうよね」
一目惚れした瞬間をこと細かく説明されて、顔から火が出そうなほど熱い。大して酔ってないはずなのに、こんな蜂蜜漬けの言葉を吐いている。こっちだってまだろくに酔えてないのに。さっさと酔ってしまいたくて、まだ半分も飲んでいない酒を一気に飲み干す。急性アルコール中毒だとかの危険はあるかもしれないけど、もうそうなって意識を失えるならそれでいい。直視出来なくて頭を抱えるようにカウンターに伏せた。
「あーもう、弱いって言ってたのに一気飲みしちゃダメだって」
「……あんなこと言われて素面でいれません」
「えー、なんか気に障ること言っちゃった?」
「それは、ちがいます。むしろ嬉しい」
じゃあなんで、と問われたもののその声は全部見透かした上で私の反応を楽しんでいるのがわかるから悔しい。所謂駆け引きと言う奴。私は遊ばれてるとか疑うことも出来ないくらいギリギリなのに、大人の余裕というものの差を感じる。
「今日はこれくらいで勘弁してあげよっかな」
「……今日はって、次もあるんですか」
「それは君次第。……また、俺とこうやってお話してくれる?」
あんだけ甘い言葉を吐いて私の反応を楽しんでいた彼が不安そうにしているのが放っておけなくて慌てて顔を上げた。久方ぶりに彼の顔をまともに見た気がする。さっきまで自信たっぷりに口説いてたって言うのに。今の彼は子犬がお強請りしてるみたいに甘えた瞳で私を見つめている。
「その……メイクが崩れてない時なら、ぜひ」
次会う時は自信を持って一番綺麗で可愛いと言える姿がいい。そんな意味を込めた返事に彼はサングラスの奥の優しい目を細めて笑うのだった。
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