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外道

 その日も、ンドゥールさんと街を歩き、執事とお茶を飲んだ。
 いつもの帰宅時間を2時間は過ぎていた。玄関で私を出迎えたのはお説教ではなく、笑い声に近い泣き声だった。


「こんな時間まで、何をしていたの」


 今まで、両親に対して表だった反抗を示したことはなかった。二人の前では自然と穏やかに笑顔を浮かべることができたし、気も遣えたし、迷惑をかけたりもしなかった。
「どこかに寄るなら、電話してちょうだい。それが無理なら、遅くならないようにして」
 私の肩を震える体で抱きしめながら、母は、滅多に出さないヒステリックな声を上げて私を非難した。
 理不尽だとは思わない。カイロへ引っ越して来てから家族の中でいちばんストレスをため込んでいるのは母なのだから。
 余計な心配事を増やさないためにも、私は早く帰って来て部屋にこもるべきだった。そう、例えこちらが気まずくても。
「……ごめんなさい」
 DIOの事を母に話すつもりはない。
 いくら人格者であろうと、一日中日の当たらないお屋敷に潜伏している、おそらく無職の男性だ。大勢の、異様な人間を集めて何やら企んでいること以外の情報がひとつもない。世間一般から見て、まともな分類にははいらない男であることは明白だから。
 青ざめ、眉を険しく寄せ、肩で息をしている母を見て、何か上手い事を言えるはずもない。
 「後ろめたい事はしていないよ」なんてもってのほかだ。そんなの、心配をかける行為をしていると認めることになってしまう。


 わたしは、悪いことはしていない。
 ただ、助けてくれた人に恩を返しているだけ。


「……危ない目に遭っていたわけじゃあないの?」
「遭ってないよ」
「怪しい人と会っていたわけでも?」
「……そんな人がいる場所には行かないよ」
 どういうわけか、脳裏に思い出されたのは執事の事だった。
 怪しい人間に仕えているのはどちらも同じなのに、ンドゥールさんと会った事より、執事とお茶を飲んだことの方が禁忌を犯しているような錯覚がした。その理由は明解だった。
 DIOも、執事も、腹の内では何を思い何を否定しているのか分からない。
 そういう意味では、父もDIOと同類かもしれなかった。カイロへ来て以来、まともに顔を合わせて会話したことがあっただろうか。
その点、ンドゥールさんはきっぱりしている。DIOを崇め、身を捧げていると、私ははっきりとこの耳で聞いた。彼は、私の知る館の人間のうち、いちばん信用できる人間だ。
 彼に、会いたい。さっき会ってきたばかりなのに。DIOがンドゥールさんをだしにして、私を協力させようとしていたとしても。彼がいなければ、私はンドゥールさんに会えなかったのだから。
 縋るように私を抱きしめる母には申し訳ないけれど、今は、彼に夢中になる時間が欲しかった。
 そのためには、バケモノだろうが人間じゃあなかろうが、DIOが必要だったのだ。


***


 ンドゥールさんとの初仕事の日以来、執事と私は茶飲み仲間に落ち着いていた。趣味やお菓子の話をしながら彼の入れるお茶を楽しむ時間は、とても楽しい。屋敷で目にする他の部下達とウマが合わないらしいところも、私の気に入った。
 もちろん、ンドゥールさんと一緒に、街を歩くのも素敵だ。私は彼に対して、今まで同級生の男の子には抱いたことのない感情を抱いていると、認めざるをえなかった。彼は、完璧だ。DIOの熱心な信奉者ということに、目を瞑りさえすれば……いや、見ないフリをしなくとも、彼ならば、私を一生夢中にさせてくれる。
 私の十代最後の青春は、灼熱の陽炎のようにゆらゆらと、でも確かに輝いてそこに存在していたと言える。


***


「ヌト女神、とおっしゃいましたか。あなたのスタンドは」
 ダージリンを瓶に詰め替えながら、執事がぽつりと言った。
「エジプト神話の大空の神様らしいですね」
「おや、ご存じでしたか」
 小馬鹿にしたように、わざとらしく目を見開く執事を無視する。鼻で笑われる気配がした。
「大地の神で、兄のゲブと離れたくなくて、お仕置きを受けたのですよね」
「そうですね。何事にも、程度があるということです」
「前も聞いたような気がします、それ」
「そうですか?まあ、あながち間違ってはいませんね」
 しれっとした顔で執事は言い放ち、布巾を私に差し出した。ずらりと並ぶ瓶を拭きながら、私は言った。
「お兄さんに恋するなんて、ありえるんですかねえ?経験あります?」
「あるわけがないでしょう……何を言うんだ」
 仕返しのつもりだったのだけれど、執事はこめかみをピクピクさせただけだった。まあでも、と何でもない風に口を開く。
「神話を例に、忠告をひとつ申し上げるとすれば」
 瓶の蓋をきゅ、と閉める音。

「叶わぬ恋と分かったなら、なかったことにしてしまうことですね」

「……経験談ですか、それ」
「まさか」
 執事は即答した。私に背を向けているので、表情はうかがえない。
「……神話から教訓を得るとすれば、という話ですよ。……そんなもの、自分にとっては何の利益にもならないじゃあないですか。ただ想っているだけで幸せ、なんて都合の良い思い込みだ。いずれ、貴方にも分かりますよ」
 思い込み。ンドゥールさんと一緒にいる時、私はとびっきりのご褒美を味わっているような気持ちになる。それは、果たして幻なのか。
「相手を想う気持ちは無駄ってことですか」
「だって、見返りがないのですよ。相手から愛してもらえないのにこちらだけ捧げたって、なんの得がある?」
「…………」
 執事の演説には妙な説得力があった。博識な彼のことだから、裁判の本でそういう判例でもみたのかもしれない。痴情のもつれ、とか、その類の。
「あのっ」
「もういいでしょう、そんな事例は今は私達には関係がない。それよりも、来週は集まる時間が変わります。忘れないでくださいね」
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