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信用

「じゃあね、また明日」
「うん、気をつけてね」
 クラスメイトが笑顔で手を振ってくれる。私も笑顔を心がけて手を振り返した。彼女は本当に良い人だ。毎日ランチに誘ってくれるし、笑いかけてくれる。クラスもぎすぎすした雰囲気はない。人種。国籍。母語。生い立ち。好みの異性のタイプ。それぞれが違うという、当たり前の事実を当たり前に受け入れてくれる場所は、居心地が良い。
 ふつう、15歳と言えば波瀾万丈な日常を送るのだろうけれど、私の毎日は安定している。学校生活は平和だし、親と険悪な雰囲気にもならない。
 いや、なれない。
 父は、私や母を仕事の都合であちらこちらへ連れ回すことに引け目を感じているらしい。昨年の冬、カイロ支社への転勤が決まってからというもの、父は私にあれこれと気を遣っている。私は、中学の居心地は悪くなかったけれど、暗黙の了解ですべてが動いていく場所で流されて生きていくのはちょっぴり面倒だったので、父の決定に対して必要以上に抵抗を示したわけではない。しかし、父はいまだに申し訳なさを全面に押し出して私に接してくる。引っ越しや転校に関して、私はいっさい苦言を呈したことはないのに。要するに、父は私を信用していないのだ。カイロの生活も2ヶ月目。私は、父にどんな態度を取るべきか、いまだに測りかねている。

 家に居場所がないわけではない。
 でも、少しだけ、違う場所にも行ってみたい。
 DIOと出会ったのは、まさにそんな欲望をはっきりと自覚した時で、これが転機というものか、と感動さえしたものだ。別に、DIOじゃなくても良かった。スポーツクラブ、カフェでのアルバイト、なんなら賭博場だったとしても、あの時の私ならついて行ったかもしれない。
 家や学校とはかけ離れた場所に、とにかく行ってみたかったから。


***


 学校の課題が出ない。火曜日は特別な予習がいらない授業だけ。だから、私は月曜日を選んだ。
 DIOはいつでも来て良いと言ったけれど、いつ来るか分からない人を、大人が積極的に優先するとは思えない。父を見ていれば大体分かる。DIOを一般的な社会人と同じ枠内で考えるのは、少しずれているかもしれないけれど。
 それに、私を玄関まで迎えに来て部屋に案内するのもDIOではない。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 テーブルに置かれたカップから、湯気が螺旋のように立ち上がっている。カップのアラベスク模様をまじまじと見ていると、執事がフィルターを流しに捨てながら言った。
「熱いのは苦手でしたか」
 特に怒っている様子ではなかったので、私は幾何学的な文様を指でなぞりながら答える。
「いえ……綺麗だな、と思って。見てただけです」
「そうですか」
 執事を見ると、穏やかに微笑んで私を見ていた。DIOと四六時中同じ屋根の下だなんて、よく笑っていられるな。
「……そんなに緊張なさらないでください。何もしませんよ」
「……すみません。別に、そういうわけじゃ」
「分かりますよ。あなたは今、とても不安がっている……。どうして今日はDIO様のお部屋ではなく、キッチンへ連れて来られたのか?いつもなら、もう帰れたはずの時間なのに、と不審に思っている。」
 すす、と近寄ってきた執事は、テーブルに手をついて私の顔を覗き込むように腰をかがめた。初めての距離に、ギクリと身じろいでしまう。
 不思議な紫色の瞳は、今にも催眠術にかかってしまいそうなほど、怪しく、美しく光っている。彫りの深い顔と清潔そうな香り。
「私の言葉を信じる気などないでしょう?」
「え、いや。そんなことないですけど」
「本当ですか?」
「あッ!」
 執事の顔がぶれて見える。
 いや、違う。
 あれは、彼の……。
「おや、あなたも見えるのでしたねえ。そう言えば」
 執事よりも頭一つ分高い頭身。人型をしているが、表情はまったくなく、硬い質感に見えるロボットのような姿。
 執事のスタンドが、私に向かって人差し指を向けた。無表情で無機質な“それ”と優しく笑っている執事が恐ろしくてたまらない。
 攻撃される?もしかして、執事の合図で指先からレーザービームでも出るのだろうか?あり得る。この外見なら、それくらいできそうだ。
 怖い。
「ちょっと、待って……ッ」
 逃げ出したい。

 その時、不思議なことが起こった。
 耳元で鳥の羽音のような、勢いのある音がしたかと思うと、目の前の執事が吹っ飛んだ。テーブルもひっくり返り、陶器の割れる音が響き渡った。

「えっ」
 半透明の黒い腕が、自分の腕に重なっているのが見えた。指先に繋がった黒い布がはためき、私の視界を覆っている。
「フフ……それがあなたのスタンド……見かけによらず、攻撃的だ」
 黒くしなやかな肢体。金色の葉と茎が、人間で言う顔をびっしりと覆い尽くしている。それに更に被さっているレース模様らしき柄のヴェールの端は、両手の中指に繋がっていた。
 執事のスタンドよりも更に表情のわからない“彼女”だけれど、不思議と怖くはない。まったく平気というわけでもないけれど。
 ティーカップの破片や埃を払いながら、執事が立ち上がる。スタンドは出したままだ。
「あなたのような大人しい人が、なぜスタンド能力に目覚めたのか心底理解不能でしたが……意外と喧嘩っ早い性格のようだ」
「……私に、変なことしようとしたからでしょう」
「失敬な。ただスタンドを出しただけじゃあないですか」
 咎める視線を送ると、執事はぴくりと眉間に皺を寄せて、こちらを睨んだ。
 スタンドが、息が耳にかかるくらい密着しているのに、執事は何とも思っていないようだ。私なんて、今こうして“彼女”が私を庇うように前にいるだけで後ずさりしてしまうのに。
「さっき、何もしないって!何かするつもりじゃあないですか?それとも、もう何かしたんですか?」
「叫ばないでください。私のスタンドは、あなたに危害は加えない」
 てのひらを向けて降参のポーズを取ってはいるものの、どうにも嘘くさい。丁寧過ぎる態度がそう見せるのだろうか。例えDIOに命令されたとしても、こんな胡散臭い人を信用するのは難しい。いや、無理だ。DIOを信頼しているかと聞かれても、ウンとは言えないけれど。
「DIO様は、あなたがスタンドを使うのを期待していらっしゃいます」
「おしゃべりする時に、これを出して話せばいいってことですか?」
「適した機会に、適した人物と、適した目的のために」
 誰かの箴言だろうか。
「いずれ、分かるでしょう。いつ、誰といる時にスタンドを何に使うのが良いか」
「……馴れ合わなくてもいいって言ったの、執事さんじゃあないですか」
 自分の声が、負け惜しみのように虚しく響くのが分かった。
「……ですから、同士としての義務を忠実に果たしてほしいと言っているんです。DIO様には多くの部下がいます。癪ですが、彼らと手を組まねばならないこともある」
 執事の言うことは理解できる。グループワークと同じ考え方だろう。相性の良い人と組み、役割分担をした方が作業は早く終わる。
「……大変ですね」
 呟くと、執事は、何とも言えない顔をした。不本意だ、とでも言いたげな表情。
「ええ、現に今、聞き分けのない高校生の相手をしなくてはならないのですから」
 明らかな嫌味だったけれど、私は別のものに意識を奪われていた。
「ごめんなさい……っ」
「謝らずとも。そうするよう、DIO様から仰せつかって……」
「でも。血、出ていますし。あの、これを」
 身だしなみとして常備しているポケットティッシュを差し出す。ぽかんと口を開けた執事が、は?と間抜けな呟きを漏らした。ティッシュでは駄目なのかもしれない。傷口に張り付いたまま乾いたら、消毒する時に支障がでるかも。アワアワとする私に、執事は言う。
「……大丈夫ですかね。本当に」
「すみません。絆創膏は今持ってないんです」
「マジで言ってるのか、このガキ……」


 “彼女”は、いつのまにか消えていた。
 小学生の時と違うのは、必要以上に目の前にいる人を傷つけなかったところくらい。
 もう、出てこないでほしい。“彼女”が出てくると、悪いことばかりが起こるから。
 しかし、そうも言っていられなかった。執事の言う、「適した目的」を果たす時は刻一刻と迫っていたのだ。

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