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理想

 得体のしれない、他の人には見えていない“それ”を意識せずに日常を送ることは、たやすいことではなかった。しかし、思考は矛盾する。

 周りと違う自分を認めて欲しいと。
「自分には見えないけど、そこにいるんだね」と一言、言って欲しいと。
 私の、いちばんの望み。

 そして同時に、醜悪な自己顕示欲の固まりのような自分を許せなかったのだ。
 ましてや、特定の相手に自分を見てほしいなんて。


 ***


 いつ来ても、真夏の書庫のように静まりかえっている屋敷である。映画で見た英国貴族の家みたいに部屋数が多い。週に1度、数時間の滞在では限度があるものの、もう1年も通っているのに、入ったことのない部屋はたくさんあった。このミュージックホールなんて、いつ使うのだろう。誰かピアノを弾くのが好きな人でもいるのだろうか。
 DIO。そして、慇懃無礼な執事。屋敷で会ったことがあるのは、この二人だけだった。
 執事は、ノッカーを鳴らすと、いつもドアを開けてくれる。私は相変わらず、彼が苦手だ。いつも礼儀正しくまさに想像通りの執事なのだけど、型にはまりすぎているところが胡散臭くて近づき難かった。DIOの部下だということも関係しているのは言わずもがなだ。親切な態度の裏では何を考えているのやら。テーブルマナーも掃除も接客も何でもできる彼以外に使用人はいないようだ。

 だから、屋敷で他に人を見たのはこの時が初めてだった。

「誰かいるのか?」

 変な質問だと思った。彼は階段の方から曲がってきたばかりで、私は突き当たりのキッチンから出てきたところだった。間に部屋はない。つまり、彼には私の姿は丸見えなのだ。
 そこまで思ったところで、私は自分の失態に気が付いた。彼は、杖を突いていた。日本で見たことのあるものとは形状が異なるけれど、彼の持つ杖は障害者用のそれに違いなかった。
「あのっ……、お手伝いはいりますか?」
 張り上げたつもりだったけれど、絞り出したような声しか出なかった。大声を出すのに慣れていないのと、初対面の視覚障害者に声をかけたのと、おそらく両方だ。
 声をかけてから気が付いたことだけれど、もっと近寄ってから話しかければよかった。彼は、杖をコツコツと鳴らしながら、迷いもせずに私の方へやって来た。
 思ったよりも、だいぶ背が高い。私の鼻先が、ちょうど彼ののど仏の位置だ。執事よりは2,3センチ低いだろうか。このあたりの出身なのか、肌は焙煎されたアメリカン・コーヒーのように美しく輝いている。同じ色の瞼はひっそりと閉じられて、その手には、年期の入っている逞しい杖が握られていた。
「気遣いは有り難いが、大丈夫だ。この館にも慣れてきたところだからな」
 低い声と隠れた瞳が、全身にぴりぴりとした緊張をもたらした。
 DIOと向かい合っている時や、執事と廊下を歩いている時とは別のものだ。
「……あなたも、DIO、様に仕えているのですか?」
 この館に部外者がいるわけもないので愚問だったのだけれど、そうだ、と彼は頷いた。シンプルな人だ、と思った。
「……スタンド使いか」
 確信をするように訪ねられて、ひやりとする。
「あ、あなたに攻撃するつもりはありません」
 ぴしゃりと警戒した声で言う。すると、彼は凛々しい両眉をあげて唇を歪めた。
「誰彼構わず襲うほど、俺は飢えてはいないつもりだが」
 寡黙そうに見えた彼が、ククク、と喉を鳴らして笑っている。
 途端に私は恥ずかしくなってしまってうつむいた。はき慣れたサンダルがやけに古くさく見えて、きゅっと爪先を丸める。なんだか、とんでもない醜態をさらしているような気がしてならない。今すぐにでも立ち去りたい。いや、立ち去っても良いのだ。私には口実がある。
「DIO様に呼ばれているので……、すみません、失礼します……」
「そうか。邪魔をしたな」
「いえ、……じゃあ」
 入り口まで早足で向かう。彼とすれ違う瞬間、砂埃のような乾いた匂いがした。
 廊下を小走りで抜け、階段の中程まで昇ったところで、ミュージックホールの扉を振り返る。コツ、コツ、と鈍い響きがしばらく聞こえ、また聞こえなくなってゆく。

 なぜか、少し残念な気持ちになる。頭がきゅうきゅう痛かった。

 右手の指先を口に当て、軽く深呼吸を繰り返していると、すっかり聴き慣れた声が耳に届いた。
「いつもの時間に来ないと思ったら、こんなところにいましたか」
 この館で、私に話しかけるのは執事だけだ。階段の踊り場で壁に背を預けている私を、上から見下ろしている。しかめ面で降りてくる姿を見ても、今は取り繕う気にもなれない。
「……何か、トラブルでも?」
 視線をさ迷わせる私を不審に思ったようだ。
「いえ、な、何でもないです」
「……DIO様がおまちかねですよ」
「はい……」
 執事は、しばしの間目を細めていたけれど、結局何も追及しなかった。
 

 名前を聞き忘れた、と気が付いたのは、DIOの部屋のドアを前にした時のことだった。
 彼の声が、頭の中で反響していたからだ。波のように




***


「その男の名は何と言う?」
 久しぶりに顔を見せたDIOは艶のある猫撫で声で訪ねる。私はタイムリーな質問にどぎまぎしてしまった。
「真面目な君がいちばんに惚れ込んだ男だ……気になるな?」
 今日のテーマは「恋愛」だった。女子高生の好きな話題だと食いついたのであれば、彼にしては思慮の浅い行為である。親しい友達にしか打ち明けないデリケートな話題だと、知らないのだろうか。16歳の高校生の初恋に興味津々な妙齢の男。下手をすれば訴訟案件だ。まあ、彼になら話しても良い気になってしまうのだから恐ろしい。
「覚えてないですね」
「ほう」
「少しかっこいいなと思っただけで……結局一度も話さないまま卒業しましたよ」
「フン、その程度の男にうつつを抜かさなくて正解だ」
 大昔の他人の恋愛事情にうつつを抜かすのもだいぶ問題だとは言わない方が良いだろうな。
「君には、堂々と名前を呼べる男がふさわしいだろうね」
 DIO様みたいな人ですか?と茶化してみたら、どんな反応をするのかな。そんな勇気はないけれど。
「君に頼みたいことがある」
 DIOは薄笑いを浮かべて言った。
 良い事ではないような気がする。
「私の部下と共に任務に就くのだ。少々危険だが、君の命を脅かす真似はしないだろう」
 DIOからの頼み事は、これで二つ目だ。
 赤い瞳に射抜かれる。
「行ってくれるね」
 思わず従ってしまいたくなる声。この人について行けば、安心すると思わせる、この雰囲気。
 私は、DIOの醸し出すこの不思議で甘い誘惑に逆らう術を持っていない。
「……はい。わかりました」
 DIOはきっと、それすらも見抜いているに違いない。自分に逆らえる人はいないことを、この人は知っている。それが幸か不幸かは、私に判断する術はないけれど。
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