予兆





***




 最近、この屋敷に来ると、やたら人とすれ違う。ほとんどが男の人だ。でも、一度だけ、赤い服を着た女の人を見たことがある。顔に傷のある、髪の長い男。若くて綺麗な顔の人。他にも、たくさん。
 彼らとは徹底的に視線を合わせないようにしていた。DIOに雇われた人達だからだ。きっと、人並み外れた輩に違いない。まともな感性を持ち合わせているはずがないと思ったから。
 今日もたくさん集まっているらしく、どこからか騒がしい声が聞こえる。
 DIO以外の面倒な人には誰にも会いたくない。出来るだけ早足で廊下を移動し、キッチンへ入ると、食器の片付けをする執事がいた。私を見て目をしばたく。その顔を見て、ほっとするようになったのはいつの頃からだろうか。
「何をそんなに焦っているのですか」
「いえ、ちょっと……あれ、おひとり、ですか?」
「あいつらがきちんとできるのは標的の後始末ぐらいなもんでしょうよ」
 気に入らないと言わんばかりに、フン、と鼻を鳴らす執事から皿を受け取る。開きっぱなしになっていた戸棚に重ねてしまい込み、執事に質問する。
「今日も飲み会やっているんですね」
「二日とあげずに食い散らかしています。挙げ句、羽目を外して帰って行く。逃げ足だけは速いヤツらです」
 やっぱり、相容れそうにない人達のようだ。
「大変ですね」
「あなたも一度、参加してみてはどうです」
「まだ、お酒は飲めないので……」
「ばれやしません」
 日本でも使える常套句を口にすると、執事は意地悪そうな顔でそそのかしてきた。屋敷に通い始めた頃の私なら、こんな顔をされたらすぐさま心を閉ざしていただろう。そもそも、当時の執事も私をからかったりはしなかったから、意味のない推測かもしれない。
 2年も経つのに、この屋敷にはまだ入ったことのない部屋がたくさんある。私がよく利用するのは、このキッチン、トイレ、図書室、後はDIOの部屋。シャワールームもあるらしいけれど、人の家で裸になるのは抵抗があるので利用したことはなかった。
「執事さんは?お酒、飲めるんじゃあないですか?」
「私以外の誰が部屋の掃除をするのですか」
 執事がつっけんどんにものを喋るのを初めて聞いた時はびっくりしたものだ。丁寧なのにどこか不安にさせるような言い方は、今は私ではなく、「ヤツら」に対して使われている。
「たくさん人を集めて、何をするつもりなんでしょうかね、DIO様」
「……さあ、私は何も聞いていませんが」
 執事が、背後の戸棚のガラス戸を拭きながら答える。
「今日は何の用事です?月曜日は昨日ですが」
「スタンドについて話したいと。できれば今日だと頼まれたんです」
 真っ白な背中と、髪を上げているので晒されたうなじ。中性的な後ろ姿は、屋敷で顔を合わせる他の男性達に比べて私を安心させる。私は、執事にある程度の親しみを感じ始めていた。親にも誰にも話していない彼の事を話してもいいかもしれない、と思うくらいには。
 私をもっとも翻弄する男性とは、先週、例のハーン・ハリーリで会ったきりだ。
 ンドゥールさんはもっと別の種類の何かだと思う。大きな歩幅やふとした仕草の荒々しさ、そして、睫毛の長い、褐色の瞼。触れたくても触れられない。神々しささえ感じる人。
 初めて出会ってから1年。私は、彼の好きな色さえ知らない。
「ずっとここにいるのに、DIO様は教えてくれないんですか?」
 あの男、DIOに、私はいつまで経っても馴れずにいる。
「今は話すべきではないと、思っていらっしゃるのでしょう。それとも何ですか、私が信頼されていないとでも?」
 振り返った執事は、まるで2年前とは別人のような顔をして私を見た。冗談なんか言う人ではないような人かと思っていたのに。
 それとも、私が変わったのだろうか。変わったのだろうな。サンダルもヒール付きだし、いまでは手際よく爪先に色を施すこともできる。でもそれは、学校のクラスメイトも皆夢中になっている事だ。私自身が変化した、というよりは年相応の道を進んでいるだけなのだろう。そして、それは個人の成長とは別物なのだろう。
「そろそろ、DIO様の元へ行った方がよろしいのでは?」
「行きますよ。そうだ、執事さん」
 思案気に呼びかけた私に、執事が怪訝な顔をする。
「……エンヤ、っていう人に会ったことありますか?」
「ええ、ありますが」
「どんな人ですか?」
 食い気味に尋ねると、執事は淡々と答えた。
「占い師だそうですよ。まあ、胡散臭い婆さんですがね。何を言われても動じないことですよ。占いなど、所詮は人間が考え出した都合の良い思想にすぎない」
「占いは、別にいいんです。エンヤさんの、性格とか、雰囲気とか……話しやすいのかな、とか気になってるんです」
 執事は紫色の瞳を細めた。
「DIO様よりは、話しやすいのではないですか」
 人によりますがね、とどうでも良さそうに執事が答える。
 最初にお兄さんの存在を仄めかした日から思っていたけれど、この執事、基本的に人間に対する興味が薄すぎるのではないか。だから、スタンドも無機質なロボットのような見かけをしているのだろうか。テレビゲームの話は目を輝かせて、こちらが辟易するのも意に介さないくせに。
「……あなたも、人を恐れる性分でしたね。忘れていました」
「DIO様のことは、今でも怖いと思ってますけど」
「そういう意味じゃあない」
 執事はそう吐き出すと、話は終わりとばかりに作業を再開し出す。
「……早く行かなければ」
「……はい。行ってきます」
 この人とは、どこまで付き合えばよいのだろう。
 前方からやってきた、黒髪の妙齢の男性と極力目を合わせないようにすれ違い、私はDIOの部屋を目指した。


***


 果たして、エンヤとは占い師のお婆さんであった。私の半分ほどの背丈しかないのに、ジトリとした強い視線は適確に私を気に入らないと主張している。そんな視線で頭のてっぺんから爪先までを観察されるのは、控えめに言っても気分が悪い。端から期待はしていなかったけれど、DIOは、面白そうに眺めるだけで、咎めようともしない。
「小娘、スタンドを出してみよ」
 開口一番、しわがれ声で高圧的に言われた。目をしばたかせる私に、老婆は苛立った様子で「早く出さんか」と急かした。
 出せと言われても、日常生活で使う機会などあるわけもなく、感覚を思い出すのも一苦労だ。
 「彼女」の黒い姿を思い浮かべる。その姿は、私の苦い記憶と直結する。
 できれば思い出したくもないものだけれど、DIOがいる以上、やらないわけにはいかない。赤く美しい瞳は、老女の背後から私をねっとりと絡め取るように纏わり付いてくる。冷たく、しかし執拗に。
 漆黒のヴェールをなびかせる「彼女」を見たエンヤお婆さんは、鼻を鳴らして呟いた。
「人型の遠隔操作型スタンド……とおっしゃいましたな、DIO様。この娘にはもったいないほどの能力ですじゃ。DIO様のお役に立てるかどうかは五分五分というところ。早めに『芽』を植え付けて、ジョースター達をかく乱させては……」
「ほう……このDIOの見込んだ力が、弱小すぎるというのか、エンヤ婆?」
「そ、それは違いますDIO様!ただ、こんな小娘が使いこなせるものでは……」
「ならば、使えるようにするだけよ。『芽』はそれからでもよい」
 何やら訳のわからない会話の後で、DIOは見る者すべてを魅了する、とろけるような微笑みを向けた。危険な兆候だ。この表情を見せられて、今まで拒否できた経験がない。
「娘、一枚引いてみよ」
「え?」
「早くせんか!」
 年を取ると、こうも人は怒りっぽくなるのだろうか。
 言われるままに三枚差し出されたうちの真ん中のカードを引くと、見る間もなくひったくられる。
 エンヤ婆さんは、カードをスッと裏返し、ニタリ、とほくそ笑んだ。
 カードは、エジプト神話の歴史書で見たことのある絵が描かれていた。女の人の絵だ。
「ヌト女神……男にしがみつく女の名じゃ」
 ククク、と笑う老婆。
 DIOは言った。
「これからは、スタンドをそう呼ぶがいい。このDIOのため、すぐに役立てるように。分かるね?」
 やたら満足げに同意を求めてくる彼に、背筋が冷たくなる。頭では分かっている。彼が、まともな人ではないことを。いや、もしかしたら、ヒトですらないのかもしれない。なら、彼は「何」なのだ?
「はい……DIO様」
 息を詰まらせそうになりながら、何とか呟くように、口にした。 黒い「彼女」、もといヌト女神のヴェール越しに、白い顔を見つめながら。
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