順応
「あの、ちょっとお聞きしたいのですが」
声をかけられた男性が振り返り、私の姿を確認して不思議そうな表情を浮かべる。私は困ったように首を傾げながら、彼に近づき微笑んでみせた。幸い、私は自分が周囲からどのような印象を受けるのかを日本にいた頃から熟知していたので、相手の警戒心を解くのはさほど難しいことではない。
案の定、彼はどうしたんだい?と優しげに尋ねてくる。身なりもよく、危害を加えてはこないだろう。ここの判断が第一段階の決め手と言って良い。始めたばかりの頃は、人選を間違えてしまい、ンドゥールさんがいなければ危なかったこともあった。最近は慣れてきたと思いたい。
男性を人通りの少ないところまで連れ出したら、あとはンドゥールさんのお仕事。DIOの仲間になるよう、誘いをかけているという。私がその場に居合わせたことはない。
私が得意なのは世間話で、勧誘はさっぱりだ。人をその気にさせる甘言を吐くことにおいてはDIOの右に出る者はいないだろう。思春期で反抗期の私も思わず従いたくなってしまうもの。
こっちに来てから鍛えられたちょっぴりの英語と、クールな執事との世間話の経験がこんなところで役に立つとは。ほんと、DIOさまさまだ。
ンドゥールさんはおしゃべりではないけれど、無口ではなかった。ひとたび二人で会話してみると、こちらの言葉を遮らずに聞いてくれるところに、ますます安心感を抱いた。「年上の男性」という未知の存在を前に緊張する私が、落ち着いて話せるくらいには。
まあ、DIOは別として。あの人はどこか普通じゃない。
***
「なかなか見つかりませんね。DIO様に協力してくれる人」
「……あの方の目にかなう者はそうそういないだろうな」
残念だとため息をつく私に、ンドゥールさんはそんな事を言った。彼が言うと、説得力がある。DIOを尊敬し崇めている真剣さは、私とは比べものにはならない。ンドゥールさんは二度目に会った時、半年ほど前からDIOに仕えていると教えてくれた。
任務を終えた後、閉店した店の軒下に二人で腰掛けて休憩する。私は、その時間が、とても好きになっていた。
「DIO様に頻繁にお会いできるとは、お前は幸福だな」
「えっ……そんな大したことじゃあないですよ。実際に役に立てているか分からないし……」
脚を組み直すンドゥールさんの上着の裾が、私のスカートに触れる。どこを見たらよいのかわからなくなり、今朝塗ったばかりの爪先を撫でてみる。
「DIO様は、私にもスタンドを使ってほしいみたいですけれど……それが、いつなのかはまだわからなくて……」
ンドゥールさんは執事と違い、私のスタンド能力について知ろうとすることはなかった。そして、私もそれに習い、必要以上の追及を避けた。彼について、いま、詳しく知ってしまうのはいけないと、漠然と思っていた。素性についても同じく。この人が、他にどんなコミュニティーを持っているのかも聞けない。
「今は使うな、ということだろうか」
「そう聞こえますよね」
「館に通っているのなら、いずれDIO様から命令が下るのではないか?役に立ちたいという気持ちを、あの方なら分かってくださるはずだ」
ンドゥールさんはいつでも冷静だ。再会からひと月余りが経ったけれど、どんな治安の悪い場所にいても、彼と一緒にいて不安を感じたことなどない。
ただ、何かを期待しているような気持ちになってしまう。
DIOと対面している時の甘美な安らぎや、執事と世間話をする時の、変に構えてしまうソワソワした感じとは、まるで違う。
ンドゥールさんの一挙一動は、常に、私の未熟な精神をゆさぶる。嘘であれ真実であれ、私に向けられた発言は忘れてしまいたくないと思わせるし、周囲の景色が見えない状態とはどんな感覚なのだろう、と想像力を働かせてしまうこともある。
要するに、私は、この人に嫌われたくないな、と思っているのだ。
見て貰わなくても構わない。ただ、私が見ていたいだけで。それを許してほしいだけなのだ。
「そろそろ、解散するか」
「えっ?……そうですね。……だいぶ、経ちましたし」
ンドゥールさんが杖をついて立ち上がったので、私も慌てて腰を上げた。
「先ほどから、あちらが騒がしい。広場の外を迂回して帰ったほうが賢明だろう」
「……はい。ありがとうございました」
「ではな」
ンドゥールさんは、迷路の町の中へ消えていった。
私は、その背中を、ずっと見ていられたらいいのに、と思った。
***
「……どういう風の吹き回しですかね」
「……ごめんなさい、いま、忙しいですか……?」
最後に執事の顔を見てからひと月と少し。
久しぶりに会った彼は、以前よりも顔が青白く頬もこけているように見えた。神経質そうな表情がさらにひきつっている。
ンドゥールさんと別れても、いつも帰る時間までは1、2時間ほどあった。フラリと寄っても支障はないだろうと踏んだのだけれど、タイミングが悪かったらしい。
それでも、執事はドアを開けていつも通りに私を招き入れてくれる。
「用事もなくここに寄りつく人でしたっけ、あなた」
相変わらずチクチクと攻撃するのに、飲み物を入れてくれるのは執事の性なのだろうか。出してくれたアイスチャイはやけにスパイスの香りが強い。残すのは失礼だと思ったので、ちびちびと口に入れる。
「……最近、親と気まずくて」
私の舌とは相性の悪い薄茶色のミルクが半分ほど減ってから、そうこぼした。
「何か後ろめたいことがあるからではないですか」
チャイを入れるのに使った道具を片付けながら、執事はフンと鼻を鳴らして蔑むように言う。
彼は私の前では度々そんな顔をした。私は、自分が価値がないと思われているようで、それがとても嫌だった。
「何かを隠しているからそうなるのです。倫理に反する行為に及んだ後は家族に顔向けができないできないでしょうからね」
「別に、悪い事しているわけじゃあないです」
訳知り顔で言い切る執事に反論した。
だけど、内心どきりとした。
母に誘われた食事を、直前になって行けなくなったと断ったのは記憶に新しい。
理由はただひとつ。
ンドゥールさんと再び任務に就くようにと、DIOが言ったから。
執事が黙っているのを良い事に、続けてこう言った。
「あと、……最近、門限まで時間潰してから帰っているんですけど、もうだいぶ行き尽くしてしまって」
「消去法ですか」
「用もないのに来たら駄目かなとは思ったんですけど……」
「DIO様も、もうお休みになったところなんですがね」
ハア、とため息をつく執事は、本当に具合が悪そうに見える。彼も心配だけれど、もう一つ気になることが。
「寝るの、早くないですか?もしかして、DIO様も体調が悪いとか」
「それについては教えられません」
ばっさりと切られる。そんない強く否定しなくてもいいではないか。
「あなたが気にする範囲ではありません……とにかく、お部屋には近づかないでください」
「……分かりました」
気まずい沈黙だ。
何か、話題、話題……ダメだ。勝手に押しかけて、しかも相手側は不都合で、怒っているのか呆れているのかは知らないけれど、とにかく良い空気ではない。
カップを両手で包み、肘のあたりを見つめる。
執事の離れていく気配がする。いよいよ情けない気持ちになってきて、自分が悪いのに泣きそうになる。
「……どうぞ」
「えっ」
やっぱり帰りますと言おうとしたら、頭上で執事の声がした。顔を上げると、執事がお菓子の入ったカゴを差し出していた。そして、私の斜め向かいという、何とも微妙な位置に腰掛ける。頬杖をつき、いつものぱりっとした雰囲気を無理に纏ったような厳しい表情で。
なにこの状況。お説教でも始まるのかと思いきや、執事は自分の分もカップに注いで一口飲んだ。
「居てもいいんですか……?」
「気が済んだら、なるべく早く帰ってくださいよ」
「具合、大丈夫なんですか?」
「体調不良ではないので……ホラ」
「あ、ありがとうございます……」
結局、ぽつりぽつりと会話をした。当たり障りのない事を。主に私の学校の事と、執事の趣味の事。テレビゲームが好きらしい。意外だ。ウソかもしれないけど。
そして、やや大きめのティーポットが空になる頃にお別れを言って屋敷を出た。
博物館の屋根の上に、白く光る星を見つけた。
いつもよりもほんの少しだけ、気分が軽かった。