相性

 クローゼットから服を二着取り出して、鏡の前でにらめっこ。そんな乙女のような行動を、まさか私が取っているとは。妙に気恥ずかしくて滑稽だ。
「どこか出かけるの?」
 洗濯物を部屋へ持ってきた母が、緩慢にハンガーを片付けながら尋ねる。私は、その様子にちらりと目をやり、鏡に映る赤い刺繍にまた視線を戻した。
「……友達と、お茶しに行くの。行ってみたいカフェがあるから」
 前半だけ、嘘だった。
「今から?」
 つうっ、と冷や汗が伝う感覚。口の中がカラカラになったような気がする。
「じゃあこれ、洗濯終わったから持っていって」
 軽い返事と共に足下にスカーフが置かれた。カイロに来る前に立ち寄った街の露店で、母と一緒に選んだものだ。
「もう3時だし、帰り気をつけてね」
「うん」
 お決まりの文句を言う母の顔を見られなくて、ブラウスの皺やスカートの丈を確認するのに気を取られているのを装う。サンダルはいつものを履いていこう。人混みで踏まれたりして、新しいのを汚したくない。
 もう片方の服を体に当てていると、もっと明るい色にしたら?と口出しされる。
「そうだ。ねえ、お父さんがね、来週の土曜日、食事に行かないかって」
「三人で?」
「そう。こっちに来てから、みんなで出かけたことなかったじゃない?」
 丁寧に父のスラックスを畳む母は、柔らかな表情を浮かべている。日本にいた頃と同じような光景に、緊張が緩んでいくのが分かった。
「なるべく空けておいてね。お父さん、色々と、また気にしてるから」
「分かった」
 これからする事に対する不安を頭からなぎ払うように返事をした。出来るだけ、何でもないような口調を心がけながら。


***


 DIOの館に程近いハーン・ハリーリを、「目印」を探しながら歩く。私は、DIOに組まされた相棒を捜して、この迷路のような市場をきょろきょろしながら進んでいた。

「その男は路地裏にいるはずだ。骨董屋と青い旗を出している店の隙間を見てみるがいい」

 はい、と返事はしたけれど、果たしてそんなことが可能だろうかとモヤモヤした。何しろ、エジプトへ引っ越して来てからというもの、一人で学校と家とDIOの屋敷以外の場所に来るのは初めてだったから。
 話を終えて廊下に出た途端、冷たい陶器の人形のような顔をした執事に、また嫌味を言われた。

「迷子にならないようにしてください。誰も迎えに行きませんよ」

 一本道の商店街なので道に迷いはしないけれど、プレッシャーに押しつぶされそうだ。
 私は、賑やかな喧噪の中へ一歩足踏み込んだ途端に口を一文字に結び、こくりと喉を鳴らした。
 ハーン・ハリーリは幾つもの店が軒を連ねており、様々な人が行き交い、芋を洗うようである。地元民はもちろん、外国の人もたくさんいた。時々、日本人観光客の姿も目にした。
加えて、売られている品の多様さである。一店舗あたりの敷地は決して広いとは言えないけれど、並べられた品の数々が自己主張している。色とりどりの繊細なガラス細工。高く積み上げられた銅褐色の鍋や壺。エジプト神話の登場人物らしき絵が描かれた大きな皿。そして、水煙草の細長い筒がこれでもかと並べられている。
 鮮やかな色彩の中にいると、白いブラウスがやけに目立つような気がして落ち着かない。あちこちで焚かれているお香や砂や水煙草や食べ物の匂いに、頭がクラクラして酔いそうになる。この中からたった一人の人間を探し出すなんて。いや、砂の中からゴマ一粒を探し出すよりは可能かもしれない……相当骨が折れることに違いはないけれど。
 行き交う人々の熱気に額に汗が滲み出る頃になって、ようやく「これかな」という目印を見つけた。
 すり切れた、青い三角形の旗が水煙草の煙にゆらゆらとはためいている。その先に見える路地は薄暗い。出来れば行きたくない。でも、上司の指示には出来る限り従わなくてはいけない。スカートの太腿の辺りをぎゅうっ、と握りしめていたことに気づき、ハア、と肩で大きく深呼吸した。
 私は、木箱を担いだ逞しい腕の下をくぐり抜け、そうっと細い道に入り込む。なぜだか、こんなところに居るのを、誰かに見られたくないと感じていた。
「わ、っ!」
 ビシャッ。
 いきなり水たまりに足を突っ込んだ。しかも泥水。新しいサンダルにしなくてよかった。
 目の前には、先ほどのバザールの治安を5倍ほど悪くしたような景色が広がっていた。明らかにホームレスと分かる、すり切れたり汚れたりして、元の形状が分からない布を身に纏う人々。そんな老若男女がたくさん。ショックだった。知らない世界だ。そして、来ちゃいけない場所だと思った。みんながぎらついた目をしている。何もされていないのに、酷く傷つけられたような気分になる。
 早口のアラビア語でまくしたてられ、腕をものすごく強い力で掴まれた。
「……あっ?!えっ、やだ何?!」
 私に縋るように何かを訴えているのは、おばあさんのホームレスだった。体も小さくて弱々しいのに、目だけはらんらんと輝いていた。振り払おうと手首をひねるも、それでも離してくれない。私が一歩二歩と足を進めても、膝で引きずられるようになっても、ずっとついてくる。
――――お金が欲しいんだ。
 でも、今日に限って財布は家に置いてきた。人混みでスリに遭うのが怖かったから。どうしよう!
「………っ、あげます……!」
 とっさに、サンダルを片方脱いで、おばあさんに押しつけた。そして、腕が緩んだ隙に右も脱いで手に持ち、小走りで逃げ出す。…………片っぽだけだと、走りにくいと思ったので。
おばあさんが追いかけてくると思ったので、ひたすら後ろを振り返らずに走る。手が震えていることに気付いたけれど、頭が真っ白になって、どこを走っているのか分からなくなって、涙が滲んだ。全部、DIOのせいだ。執事の嫌味すら懐かしく思えるほどに追い詰められた、その瞬間だった。角を曲がろうとして、誰かにぶつかった。
「待て」
 再び腕を掴まれて、今度こそパニックを起こしそうになる。
「――――えっ……」
「……また会ったな」
 私を捕まえているのは、あの盲目の佳人だった。

 頭がくらくらした。


***


 ンドゥール。それが、彼の名だった。私と同じく、数年前にDIOと出会い、仕えているという。
 私があんまり震えているので、路地裏からメインストリートに移動することになった。驚いたのは、目が不自由なのに、彼が楽々と人混みをすり抜けて誰にもぶつからずに歩いて行くこと。いくら杖があるとはいえ神業だ。私はといえば、彼の背中についていくのでいっぱいいっぱいだった。
「どうしてあんなところに?」
 ゆっくり歩きながらンドゥールさんが質問した。
「DIO様に、あそこで人と会うように言われたんです。その人と一緒に任務について欲しいと言われて……」 
「……なるほど。それが俺か」
 ンドゥールさんはフムと頷いた。それが顔に似合わず貫禄のある年配者のようで、ピンピンに張っていた気持ちが少し緩んだ。
「任務という程ではないが、お前のような協力者がいればやりやすいな」
「普段は、何をしているんですか?」
「今は情報収集だな」
「情報収集?」
「DIO様の身を脅かす輩を見つけ出すのにな」
 なんと、物騒な。
「じゃあ、それらしい人を見つけたらDIO様に報告すればいいんですね」
「いや、お前はまず俺に知らせてくれ。最終報告はその後でいい」
「はい」
「しかし」
 ンドゥールさんは、何がおかしいのか、くすりと笑った。私は、ジッと瞼を見ていたのがばれたのかと、慌てて耳元に揺れるピアスに視線をずらす。
「他の部下とは何人か顔を合わせたが、お前のようなタイプは初めてだ」
「そうなんですか?私、他の人とはまだ会ったことがないです」
 私は、またこの人と声を交わすことができたのが嬉しかった。恐怖なんて、すっかり飛んで行ってしまっていた。
 見えないフリは得意なのだ。
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