帰郷
ニューヨークの雑踏を眺めていた承太郎は、目の前の女の発言に面食らった。その性格上、冷静な表情は崩さなかったが。
「結婚だと? 」
「先週、籍を入れたばかりなの」
承太郎の前でポーションミルク入りのコーヒーをスプーンで掻き混ぜながら、女は耳の下で切りそろえられた髪を揺らして答える。
「……そんなに信じられないの? 私が誰かと一緒になるなんて」
「いや、突然だったもんで驚いただけだ」
脈絡なく告げられたことも原因しているのは、あながち間違いではない。互いの研究や、ヒトデの論文に関する議論めいた会話の直後に、プライベートの、それも重要な部類に入る報告を聞き、頭のスイッチを切り替えるのが遅くなったと言う方がより正しいだろう。
「おめでとう」
「……ありがとう」
12年前、砂漠の国で絶望していた彼女。その姿は、鮮明に承太郎の脳裏に焼き付いていた。薄幸な印象の強かった彼女は、今、とても幸福そうに微笑んでいる。承太郎は純粋に彼女と、その相手を祝福した。
彼女の中にある、あの男への特別な感情に承太郎はすぐに気が付いた。ジョセフとの勝負の前に彼女が見せた切実な願い。あの男が彼女の中でどれだけ大きな存在だったかは計り知れない。
今の彼女の報告を聞き、12年という時の長さを感じた。それが、想い人の死を嘆き乗り越え新たな道を歩み始めるのに長いのか短いのか、承太郎には分からなかったが。
「……何も、遠慮することはなくてよ」
「何がだ」
「私の結婚相手について。知りたくて仕方がないって、顔に書いてある」
「……正直に言うと、財団の研究所に就職したと聞いた時以上の衝撃だな。相手もLASか? 」
「ボストンよ」
「ちと骨の折れる引っ越しだな。研究も続けるんだろう? 」
「今の上司が取り組んでいる研究を引き継ぐから、どっちみち引っ越さなきゃならなかったの。タイミング的にも、今が一番ちょうど良いんじゃないかって、彼が」
「ずいぶんとあっさりしているな」
「ふふ。お互い、現実に関してはドライな質みたい。……今も悪い夢を見ることはあるけれど、彼となら平気」
彼女は、穏やかに微笑んだ。左手の薬指で、指輪が日を受けて光る。
「実は、彼とここで待ち合わせしているの」
「……ここで、か?」
「そうね。もうすぐ来るんじゃあないかしら」
「俺を呼び出したのはそれが狙いか」
もう一度、ふふ、と少女のような笑い声をあげる彼女。承太郎は、おそらく妻の尻に敷かれることになるであろう結婚相手を不憫に思った。
「あのね、承太郎。彼、仕事が大好きで……私、式の打ち合わせがちっとも進められなくて困っているの」
意味ありげな言葉に、承太郎は眉間に皺を寄せて訝しげな顔をする。
「だから、承太郎がバシっと言ってくれたら『効く』んじゃあないかと思って……あ」
承太郎が神妙にカップを置いた、その時。彼女の瞳から、寂しさはもう失せていた。承太郎の背後にいる誰かを見て、頬を緩ませている。誰がいるかだなんて、聞くまでもない。
席を立ち、柔らかな香りを漂わせて承太郎の脇をすり抜ける。その後を追うように振り返った承太郎の目に飛び込んで来たのは、その胸に飛び込んだ彼女を受け止めた男の驚いた顔だった。承太郎を見て、憎らしげに顔を青くしている。しかし、その手は彼女の背を抱いたままだ。彼女が胸にすり寄ると、今度は顔を赤くした。
「もう来ないものと思ったじゃない。今日は、e-スポーツの練習はよかったの?」
「なッ! テッ、テメーあんな脅しをかけておいて何を……ッ!」
言い返そうとして、ジッと見ていた承太郎に気が付いた彼は、目を丸くしてワナワナと震えだす。真っ赤だった顔が、今度は蒼白になっていた。
「どうしたの」
「……ン、ンン……ッ、ほ、他でもない、フィアンセの、呼び出しですからね……ッ、こ、来ないわけにはいかないでしょう、こんな都心に呼び出すとは、何か、あったかと……! 」
「ふふ、ありがとう。さあ、早く帰って、式について話し合いましょうね」
貴重な青春時代を混沌とした渦の中で過ごした女の「あんな脅し」が可愛いものでないことは、容易に想像がつく。承太郎はいつもの口癖を呟き、視線を落とした。そして、低いため息をこぼし、うっすらと微笑む。
彼らの頭上を、柔らかなビル風が軽やかに通り過ぎた。
風を待つ人【完】
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