上々
DIO様の館は、以前ほど賑やかではなくなった。二日とあげずに繰り返されていた宴会はいつの間にかなくなり、廊下にまで響いていた喧噪も、怒鳴り声も、奇抜な髪型の男も、赤い服の女も、まるごと消え失せてしまった。物音ひとつしないのに、DIO様が館のどこかで息を潜めているのは確実だった。姿をまったく見せないけれど、彼が自分を狙う輩めがけて存在感を発揮しているのは、なぜかはっきりと感じるのだった。
そして、私は大して用もないのにそんな醜悪な空気の漂う館に毎日通っていた。学校と家とこの館。世界でこの三つしか居場所がないとしたら、一番私という人間を理解しているのは、この不気味な館だろうと判断したからだった。父や母とは、いまや深夜にちらりと顔を合わせる程度の付き合いだから。
館のドアの前に立つと、私の前髪のひと房を、風が悪戯っぽく舞上げる。
「彼女」は常に私の前に姿を現わすようになり、ふよふよとヴェールを漂わせながら視界に入ってきた。顔色を伺うように、いつも右斜め後ろからリズミカルに頭を振り振り、纏わり付く。まるで頭を撫でて欲しくて脚に尻尾を絡ませる猫みたい。あんなに鬱陶しかったというのに、今では彼女だけが何でもわかり合える相手のような気さえしていた。
かつて心を開きかけていた執事は、初めて出会った頃のように、キッチンに籠もることが多くなった。ただし、青白い顔はさらに表情を失くし、筋ひとつ動かさない。でもそれは、溢れ出してしまいそうな感情を堪えているように見えた。こぼしてしまえば命を失うと思っているかのようだった。
今だって、椅子一つ隔てた距離にいるのにも関わらず、会話のひとつもない。前みたいに私をからかってくれたっていいのに、と思いはすれど、上手く応える自信がないことは私が一番よく分かっていた。
「最近、良いカフェを見つけたんですよ。ここから割と近いんですけど」
「…………」
「よかったら今度、行きませんか?常連のひとも優しいし、飲み物も美味しいんですよ」
「……残念ながら、DIO様がお忙しいようなので遠慮します」
「そうですか……そうですよね」
別に、本気で執事とデートしようとしたわけではない。だから、執事の答えは想定内だったのに、萎れかけの心がさらにカラカラになっていくような気がしてしかたがない。
執事の気を引くみたいにして、薄紫色の瞳をじっと見つめてみたけれど、ひとつだけ瞬きをして、ふいと反らされてしまった。
「何をしようとしているんですか、あの人は」
「……もちろん、ジョースター達を追い倒すために死力を尽くしておられます」
「そうじゃあなくって、その目的を聞いているんですけど」
「そこは追及してはなりませんよ」
「知らなきゃ、どうやってジョースター達を倒す最善の方法が分からないじゃない」
「私達の判断を、DIO様は信頼していらっしゃるからですよ」
「じゃあ、あの人は私を行かせてくれないの!」
執事に当たったってどうしようもないことは承知の上だった。それでも、吐き出さずにはいられない。
「すぐに言ったんです。ンドゥールさんの事を聞いた時に……行かせてくれそうな雰囲気だったのに……もう、どういう風にジョースター達に向かっていけばいいのか、わからない……」
執事に言っても仕方のないことを、つらつらと恨み言を吐くみたいにこぼす。
「DIO様が何も教えてくれないのなら、ここに居る意味なんてないじゃあないの!」
「やめろ!!」
突然、聞いたことのない声が聞こえた。それが執事の声だと気付くのに、一瞬の間を要した。
執事は細い眉をつり上げて、顔中で叫んでいた。
「……いったい、どうしたというのですか。さっきから、聞いていれば目的の無い事をべらべらと……教えて貰わずとも、わかっているはずですよ、あなたなら!わかっているのでしょう?」
どうしてだろう。執事の顔が人間くさいと思ってしまった。鼻で笑ったり、嫌味を言ったりしていた時よりも、身近に感じた。
「彼女」が私の周囲をゆるりと漂うのを、執事は苦々しげに一瞥している。ほら、その顔だって。
「どうした、っていうのはこっちのセリフですよ……どうしちゃったんですか、執事さん」
「……何もありゃあしませんよ」
「嘘でしょう」
「……ッ、嘘じゃあない」
「じゃあ、本当なんですね」
「何もないと言っているでしょうッ」
ダメだ。
誰の、何を信じればよいのか分からない。
心の中が読めればいい。そう思うのに、都合の良い出来事なんて、絶望している時ほど起こらない。
ンドゥールさんといた時は、こんな気持ちになったことはなかったのに。行く方向を見失う不安なんて感じなかった。いつも安心して下ばかり向いて歩いていたから、前なんて見えなかった。見えなくても大丈夫だった。それだけの存在が私についていた。
どうして、彼は今いないのだろう。どうして、彼がジョースター達に殺されなくてはならなかったのだろう。
「あなたは変わってしまいました……忠実で聞き分けの良いあなたは、どこへ行ってしまったのです」
「そんな良い子は、最初からいません!ここへ来てからは、私はなんにも変わっちゃあいません!」
執事が、私の両肩を掴む。意外と硬い手に少し驚いたけれど、それ以上の驚きはいっさいなかった。
「嘘でしょう。何も変わらないなんてあるものですか。現に、あなたはDIO様と出会ってから変わったはずだ。スタンドを知り、理解者を得た。それから……この館で、……で、出会ったでしょう、色々な人たちと……」
ジョースター一行。
DIO様に因縁をつけ、ンドゥールさんの命を奪った人たち。
ンドゥールさんは、彼らがいるから死んだのか。それともDIO様に出会ったから死んだのか。
そこまで考えて、ざあっと顔が青ざめる音がした。
DIO様を裏切ってはいけない。理解者を失う羽目になる。
でも、一度でもDIO様は私がどうしたいのか、聞いてくれたことがあっただろうか。
彼は私が求める前にそれを与え、感謝せざるを得ない状況を作っていた。それに対してどうして文句など言えただろうか。
本当に、私はDIO様に感謝していると言えるのだろうか……――――――?
黙る私に、執事がほうっとした顔をする。
「だから……分かりますか?らしくない行動なんて起こさないで……」
「そうですね……私、どうかしていたみたいです」
肩から手が離れたので、少し距離を取りながら、機嫌を取るように微笑んでやる。さっきと違い執事が目を反らさなかったので、心の底から安堵した。
「……もう帰ります。DIO様に一言、挨拶してきてもいいですか?」
「ああ、そう……そうですか。是非、そうして……くれぐれもDIO様にご迷惑のかからないように」
しどろもどろなのに、最後の忠告だけは相変わらずである。取り乱している時以外は話しやすくて、案外優しい相手なのだ。
そんな彼に心の中で、「ごめんなさい」と呟いた。
そして、私は大して用もないのにそんな醜悪な空気の漂う館に毎日通っていた。学校と家とこの館。世界でこの三つしか居場所がないとしたら、一番私という人間を理解しているのは、この不気味な館だろうと判断したからだった。父や母とは、いまや深夜にちらりと顔を合わせる程度の付き合いだから。
館のドアの前に立つと、私の前髪のひと房を、風が悪戯っぽく舞上げる。
「彼女」は常に私の前に姿を現わすようになり、ふよふよとヴェールを漂わせながら視界に入ってきた。顔色を伺うように、いつも右斜め後ろからリズミカルに頭を振り振り、纏わり付く。まるで頭を撫でて欲しくて脚に尻尾を絡ませる猫みたい。あんなに鬱陶しかったというのに、今では彼女だけが何でもわかり合える相手のような気さえしていた。
かつて心を開きかけていた執事は、初めて出会った頃のように、キッチンに籠もることが多くなった。ただし、青白い顔はさらに表情を失くし、筋ひとつ動かさない。でもそれは、溢れ出してしまいそうな感情を堪えているように見えた。こぼしてしまえば命を失うと思っているかのようだった。
今だって、椅子一つ隔てた距離にいるのにも関わらず、会話のひとつもない。前みたいに私をからかってくれたっていいのに、と思いはすれど、上手く応える自信がないことは私が一番よく分かっていた。
「最近、良いカフェを見つけたんですよ。ここから割と近いんですけど」
「…………」
「よかったら今度、行きませんか?常連のひとも優しいし、飲み物も美味しいんですよ」
「……残念ながら、DIO様がお忙しいようなので遠慮します」
「そうですか……そうですよね」
別に、本気で執事とデートしようとしたわけではない。だから、執事の答えは想定内だったのに、萎れかけの心がさらにカラカラになっていくような気がしてしかたがない。
執事の気を引くみたいにして、薄紫色の瞳をじっと見つめてみたけれど、ひとつだけ瞬きをして、ふいと反らされてしまった。
「何をしようとしているんですか、あの人は」
「……もちろん、ジョースター達を追い倒すために死力を尽くしておられます」
「そうじゃあなくって、その目的を聞いているんですけど」
「そこは追及してはなりませんよ」
「知らなきゃ、どうやってジョースター達を倒す最善の方法が分からないじゃない」
「私達の判断を、DIO様は信頼していらっしゃるからですよ」
「じゃあ、あの人は私を行かせてくれないの!」
執事に当たったってどうしようもないことは承知の上だった。それでも、吐き出さずにはいられない。
「すぐに言ったんです。ンドゥールさんの事を聞いた時に……行かせてくれそうな雰囲気だったのに……もう、どういう風にジョースター達に向かっていけばいいのか、わからない……」
執事に言っても仕方のないことを、つらつらと恨み言を吐くみたいにこぼす。
「DIO様が何も教えてくれないのなら、ここに居る意味なんてないじゃあないの!」
「やめろ!!」
突然、聞いたことのない声が聞こえた。それが執事の声だと気付くのに、一瞬の間を要した。
執事は細い眉をつり上げて、顔中で叫んでいた。
「……いったい、どうしたというのですか。さっきから、聞いていれば目的の無い事をべらべらと……教えて貰わずとも、わかっているはずですよ、あなたなら!わかっているのでしょう?」
どうしてだろう。執事の顔が人間くさいと思ってしまった。鼻で笑ったり、嫌味を言ったりしていた時よりも、身近に感じた。
「彼女」が私の周囲をゆるりと漂うのを、執事は苦々しげに一瞥している。ほら、その顔だって。
「どうした、っていうのはこっちのセリフですよ……どうしちゃったんですか、執事さん」
「……何もありゃあしませんよ」
「嘘でしょう」
「……ッ、嘘じゃあない」
「じゃあ、本当なんですね」
「何もないと言っているでしょうッ」
ダメだ。
誰の、何を信じればよいのか分からない。
心の中が読めればいい。そう思うのに、都合の良い出来事なんて、絶望している時ほど起こらない。
ンドゥールさんといた時は、こんな気持ちになったことはなかったのに。行く方向を見失う不安なんて感じなかった。いつも安心して下ばかり向いて歩いていたから、前なんて見えなかった。見えなくても大丈夫だった。それだけの存在が私についていた。
どうして、彼は今いないのだろう。どうして、彼がジョースター達に殺されなくてはならなかったのだろう。
「あなたは変わってしまいました……忠実で聞き分けの良いあなたは、どこへ行ってしまったのです」
「そんな良い子は、最初からいません!ここへ来てからは、私はなんにも変わっちゃあいません!」
執事が、私の両肩を掴む。意外と硬い手に少し驚いたけれど、それ以上の驚きはいっさいなかった。
「嘘でしょう。何も変わらないなんてあるものですか。現に、あなたはDIO様と出会ってから変わったはずだ。スタンドを知り、理解者を得た。それから……この館で、……で、出会ったでしょう、色々な人たちと……」
ジョースター一行。
DIO様に因縁をつけ、ンドゥールさんの命を奪った人たち。
ンドゥールさんは、彼らがいるから死んだのか。それともDIO様に出会ったから死んだのか。
そこまで考えて、ざあっと顔が青ざめる音がした。
DIO様を裏切ってはいけない。理解者を失う羽目になる。
でも、一度でもDIO様は私がどうしたいのか、聞いてくれたことがあっただろうか。
彼は私が求める前にそれを与え、感謝せざるを得ない状況を作っていた。それに対してどうして文句など言えただろうか。
本当に、私はDIO様に感謝していると言えるのだろうか……――――――?
黙る私に、執事がほうっとした顔をする。
「だから……分かりますか?らしくない行動なんて起こさないで……」
「そうですね……私、どうかしていたみたいです」
肩から手が離れたので、少し距離を取りながら、機嫌を取るように微笑んでやる。さっきと違い執事が目を反らさなかったので、心の底から安堵した。
「……もう帰ります。DIO様に一言、挨拶してきてもいいですか?」
「ああ、そう……そうですか。是非、そうして……くれぐれもDIO様にご迷惑のかからないように」
しどろもどろなのに、最後の忠告だけは相変わらずである。取り乱している時以外は話しやすくて、案外優しい相手なのだ。
そんな彼に心の中で、「ごめんなさい」と呟いた。