抱擁
「ンドゥールさんを、そんなふうに言うのはやめて!」
ンドゥールさんは誰かと戦ってきたことをちっとも悟らせないほど強く、年下の私の世間知らずな意見を黙って聞いてくれるほど器の大きな人だ。そして、閉じられた褐色の瞼と灼熱の大地をゆったりと歩く神聖な生き物みたいな長い睫毛は、何にも例えがたいほど美しい。
そんな人に近づきたいという願いはとてつもなく邪道に思えた。
DIO様に命じられていなければ、後ろを歩くことさえ躊躇われる人だ。
「見ていればわかることですよ。あなたは、彼と仕事をしてきた日は見るからに機嫌が良い」
「……そんなこと、どうしてわかるんですか」
テレンスさんはそれには答えずに片方の眉だけを器用に上げる。
「あなたが私のところへ来るからでしょう。知る必要のない情報でしたがね」
「……じゃあ、あの」
「ああ、DIO様にはお伝えするつもりはないので、ご安心を。知ったところで何にもなりませんから」
テレンスさんは、とんと突き放すように言った。
「あなたが餌にあるのは見たくない。見送りに行くなら、さっさとなさい」
白い陶器のような顔はいつも通りだけれど、アメジスト色の瞳は見たことのないゆらめきが渦を巻いている。まるで置いてけぼりにされた子どものようで、かつての自分を見た気がした。
「ホル・ホースならもういないと思いますけど」
「誰があんな男の見送りなんか……あなたの、相棒の話ですよ」
「えっ……ンドゥールさん?」
珍しく、テレンスさんはむすっと口を一文字に結ぶ。
質問するなと言わんばかりの態度にも構わずに、私はたたみかけるように訊ねた。
「ジョースター一行のところへ行くんですか」
「…………ええ。明日だそうですよ」
「明日……明日?」
「ええ」
「どうして……私、呼ばれた覚えがないんですけど」
「気にすることはないでしょう。彼とあなたでは、実践経験の差がありすぎますからね。DIO様の考慮は正しいと思いますが」
「どうして教えてくれないんですか、私、昨日も来たじゃあないですか!」
テレンスさんは、珍しく苛立ちを露わにして私を一瞥した。その表情ときたら、学校で見かけた別れかけのカップルの片方にそっくりだった。
「私に当たらないで下さいよ」
すとん、と椅子に腰掛ける。スカートの裾が足首をくすぐり、いやでも街中での休息を思い出させる。
テレンスさんは、ちっとも不機嫌さを隠そうとしないままだ。なんなのだ。教えたくなかったのなら、黙っていればよかったではないか。
「ここに来る輩は、ろくな人間じゃあありませんよ」
挙げ句の果てに、彼は自分の事を棚にあげ、そんなことを言った。
なんだかこっちまでいらいらしてしまって、私は熱々の紅茶をできるかぎり速く飲み干した。
「ごちそうさまでした」
「何を怒っているんです?」
「自分で考えてください」
「なんだと、この……」
ざらざらする舌を口蓋にすりつけながら、テレンスさんを無視してキッチンを出た。
***
ンドゥールさんと私の共通点と言えば、DIOに仕えていることくらいで、他はてんで正反対だった。
「スタンドを出したことは?」
いつも通りにターゲットを「勧誘」し終えたところで、ンドゥールさんはふと思い出したように、そう訊ねた。同じ軒下で腰掛けていられる幸福を噛みしめている最中だったので、私は不意を突かれて飛び上がった。
ないと答えたら失望されそうな気がした。でも、誰かを攻撃したのなんてエジプトへ来てから一度きり、執事のロボットみたいなスタンドを初めて見たときだけだ。
「小さい頃に一度。大したことはできません」
「そうか」
フム、と考え込むような仕草を見せた後、彼は言った。
「きっと強いスタンドなのだろうな」
「え?」
ンドゥールさんの髪がフワリと揺れて、彼が笑ったのが分かった。
「お前は無意識にスタンドを使っているのだろうな。DIO様が目をかけられただけある」
「そんなこと……」
「俺は子どもの頃からスタンドを使って生きてきた。何も怖くはなかった」
少しだけの微笑み。
見惚れてしまったのはしかたがないだろう。
「お前のようなスタンド使いとは、初めて会った」
***
ンドゥールさんを見つけ出すのは至難の技だった。
雑踏は相変わらず、香水と砂埃の臭いをまき散らして人々の間を縫うように漂っている。
私がマントの背に手を伸ばした瞬間、彼はさっと振り向いた。それは今までに路地裏で良くない輩に襲いかかられた時とはまるで違い、鷹揚な肉食動物のような動きだった。
「……どんな敵の奇襲かと思ったじゃあないか」
そうだ、彼は強いのだ。だからジョースター一行などという外国人の集まりに負けるはずがない。
安心するべきなのに、私は自分の中でどよめくこの靄を振り払うことができなかった。
「連れて行ってください」
ンドゥールさんを気持ちよく送り出すのが一番良いと、頭では分かっている。DIO様の指令に応えるンドゥールさんを否定したくない。
でも、私の声はまったく逆の言葉を紡いでいく。
「私を使ってください。いつもみたいに」
ンドゥールさんはまるで怒らなかった。DIO様への冒涜だと思われるのではないかと、ただそれだけが気がかりだったので、少しだけ安心した。
「……DIO様は、近々お前にも任務を下すと仰っていた。俺の助けになるのなら、その時だろう」
「今ではいけませんか」
あなたと一緒に行きたいのと、縋り付ける身分ではない。いやでも分かっていた。それでも今抑えたら一生言えないと思った。生意気だと思う。
ンドゥールさんは杖を持っていない方の腕を回して、私の肩を抱いた。
「ああ……いまはDIO様の元にいなさい。良い報告をもたらそう」
「ンドゥールさん……」
私は、彼が雑踏へ消えていくのを最後まで眺めていた。
そして、風が彼のほのかな体臭を埃と共に舞上げる不自然な動きを、確かに見た。
ンドゥールさんは誰かと戦ってきたことをちっとも悟らせないほど強く、年下の私の世間知らずな意見を黙って聞いてくれるほど器の大きな人だ。そして、閉じられた褐色の瞼と灼熱の大地をゆったりと歩く神聖な生き物みたいな長い睫毛は、何にも例えがたいほど美しい。
そんな人に近づきたいという願いはとてつもなく邪道に思えた。
DIO様に命じられていなければ、後ろを歩くことさえ躊躇われる人だ。
「見ていればわかることですよ。あなたは、彼と仕事をしてきた日は見るからに機嫌が良い」
「……そんなこと、どうしてわかるんですか」
テレンスさんはそれには答えずに片方の眉だけを器用に上げる。
「あなたが私のところへ来るからでしょう。知る必要のない情報でしたがね」
「……じゃあ、あの」
「ああ、DIO様にはお伝えするつもりはないので、ご安心を。知ったところで何にもなりませんから」
テレンスさんは、とんと突き放すように言った。
「あなたが餌にあるのは見たくない。見送りに行くなら、さっさとなさい」
白い陶器のような顔はいつも通りだけれど、アメジスト色の瞳は見たことのないゆらめきが渦を巻いている。まるで置いてけぼりにされた子どものようで、かつての自分を見た気がした。
「ホル・ホースならもういないと思いますけど」
「誰があんな男の見送りなんか……あなたの、相棒の話ですよ」
「えっ……ンドゥールさん?」
珍しく、テレンスさんはむすっと口を一文字に結ぶ。
質問するなと言わんばかりの態度にも構わずに、私はたたみかけるように訊ねた。
「ジョースター一行のところへ行くんですか」
「…………ええ。明日だそうですよ」
「明日……明日?」
「ええ」
「どうして……私、呼ばれた覚えがないんですけど」
「気にすることはないでしょう。彼とあなたでは、実践経験の差がありすぎますからね。DIO様の考慮は正しいと思いますが」
「どうして教えてくれないんですか、私、昨日も来たじゃあないですか!」
テレンスさんは、珍しく苛立ちを露わにして私を一瞥した。その表情ときたら、学校で見かけた別れかけのカップルの片方にそっくりだった。
「私に当たらないで下さいよ」
すとん、と椅子に腰掛ける。スカートの裾が足首をくすぐり、いやでも街中での休息を思い出させる。
テレンスさんは、ちっとも不機嫌さを隠そうとしないままだ。なんなのだ。教えたくなかったのなら、黙っていればよかったではないか。
「ここに来る輩は、ろくな人間じゃあありませんよ」
挙げ句の果てに、彼は自分の事を棚にあげ、そんなことを言った。
なんだかこっちまでいらいらしてしまって、私は熱々の紅茶をできるかぎり速く飲み干した。
「ごちそうさまでした」
「何を怒っているんです?」
「自分で考えてください」
「なんだと、この……」
ざらざらする舌を口蓋にすりつけながら、テレンスさんを無視してキッチンを出た。
***
ンドゥールさんと私の共通点と言えば、DIOに仕えていることくらいで、他はてんで正反対だった。
「スタンドを出したことは?」
いつも通りにターゲットを「勧誘」し終えたところで、ンドゥールさんはふと思い出したように、そう訊ねた。同じ軒下で腰掛けていられる幸福を噛みしめている最中だったので、私は不意を突かれて飛び上がった。
ないと答えたら失望されそうな気がした。でも、誰かを攻撃したのなんてエジプトへ来てから一度きり、執事のロボットみたいなスタンドを初めて見たときだけだ。
「小さい頃に一度。大したことはできません」
「そうか」
フム、と考え込むような仕草を見せた後、彼は言った。
「きっと強いスタンドなのだろうな」
「え?」
ンドゥールさんの髪がフワリと揺れて、彼が笑ったのが分かった。
「お前は無意識にスタンドを使っているのだろうな。DIO様が目をかけられただけある」
「そんなこと……」
「俺は子どもの頃からスタンドを使って生きてきた。何も怖くはなかった」
少しだけの微笑み。
見惚れてしまったのはしかたがないだろう。
「お前のようなスタンド使いとは、初めて会った」
***
ンドゥールさんを見つけ出すのは至難の技だった。
雑踏は相変わらず、香水と砂埃の臭いをまき散らして人々の間を縫うように漂っている。
私がマントの背に手を伸ばした瞬間、彼はさっと振り向いた。それは今までに路地裏で良くない輩に襲いかかられた時とはまるで違い、鷹揚な肉食動物のような動きだった。
「……どんな敵の奇襲かと思ったじゃあないか」
そうだ、彼は強いのだ。だからジョースター一行などという外国人の集まりに負けるはずがない。
安心するべきなのに、私は自分の中でどよめくこの靄を振り払うことができなかった。
「連れて行ってください」
ンドゥールさんを気持ちよく送り出すのが一番良いと、頭では分かっている。DIO様の指令に応えるンドゥールさんを否定したくない。
でも、私の声はまったく逆の言葉を紡いでいく。
「私を使ってください。いつもみたいに」
ンドゥールさんはまるで怒らなかった。DIO様への冒涜だと思われるのではないかと、ただそれだけが気がかりだったので、少しだけ安心した。
「……DIO様は、近々お前にも任務を下すと仰っていた。俺の助けになるのなら、その時だろう」
「今ではいけませんか」
あなたと一緒に行きたいのと、縋り付ける身分ではない。いやでも分かっていた。それでも今抑えたら一生言えないと思った。生意気だと思う。
ンドゥールさんは杖を持っていない方の腕を回して、私の肩を抱いた。
「ああ……いまはDIO様の元にいなさい。良い報告をもたらそう」
「ンドゥールさん……」
私は、彼が雑踏へ消えていくのを最後まで眺めていた。
そして、風が彼のほのかな体臭を埃と共に舞上げる不自然な動きを、確かに見た。