異様
真夜中に家を抜け出すのは初めてだった。
「無事にいらしたのですね」
入り口でいつものように出迎えた執事は、夜中にも関わらず完璧な振る舞いで私を迎え入れた。
「いつもと雰囲気が違いますね。よくお似合いです」
「……ありがとうございます」
お気に入りの白い服ではなく、祖母に送ってもらったもう片方のブラウスで来た。黒地に赤い花の刺繍が施してある。
ンドゥールさんと二人で会う時と同じ恰好で来るのはイヤだったのだ。
中はいつも以上に暗く、執事の持つカンテラだけがぼうっと浮かび上がり、幽霊屋敷のようだ。背筋がぞくりとした。
「そんなに怖がらないでください。慣れれば平気ですから」
「……これから、また夜中に来なければいけない時があるんですか?」
「あるでしょうね。まあ、あなたの場合はそう頻度は高くないでしょうが、もしも都合が悪いようでしたら」
「誰も断るなんて言ってないです」
執事の言葉を遮り、言い切った。やってしまったかとヒヤリとする。執事の周りの空気が変わったような気がしたけれど、彼はふふ、と笑っただけだった。
「あなたは、本当に可愛い人ですね」
「……」
「失礼。からかったわけではないのです」
「……別に良いですけど。そういうの、もう慣れましたし」
「これから会う方々はもっとたちが悪いですが、平気ですかね」
「会って見なきゃわかりません」
「多分、あなたの想像の範疇を超えたヤツらばかりですよ」
「わかりましたから。もう脅かさないでください」
しつこい執事の脅しに呆れてしまう。こんな時間に呼び出されるような人たちだ。規則正しい社会生活を送る人間ではないことは明白だ。この執事も含めて。
帰りたくなってきた。
「ンドゥールもいるので、大丈夫かとは思いますがね」
なぜ、彼の名前を出すのだろう。
顔に出ていたらしく、執事がまたふふ、と顔だけで笑う。おそらく、DIOが私に話しているのを聞いたか本人から聞いたか、どちらかだろう。十中八九前者だろうけれど。私は、この執事の名前も尋ねたこともないのに。アンフェアだ。
大きな扉の前に来た。何度も来たことがある。ノックの音が、今日はやけに大きく聞こえた。
「失礼致します」
「入れ」
ギイ、と古めかしい音をさせて扉が開く。町中に響いたのではと思うくらいに聞こえ、急にいたたまれない気持ちになった。
真っ正面の玉座に、月を背負ったDIOがいる。そして、部屋の両脇に通路を挟むようにして、暗がりに大勢の人間のいることが分かった。なにこれ。二、三人どころか、その十倍はいるではないか。
どういうことですか、と執事を見上げる。しかし、どうぞお入り下さいという仕草をするだけで助けてはくれなかった。さっきまで心配するような素振りを見せていたくせに、なんて薄情な。
しかし、嫌な感じの視線だ。値踏みされているような感じ。この場から立ち去ってしまいたくてたまらない。
「君が星の下に立つのを見るのは初めてだな」
DIOは戸惑う私の様子を面白がっている。羨ましいほどに楽しそうな人である。
「失礼ながら、今まで私は君の忠誠心を疑っていたようだ。私はこう考えた。両親が健在していて特に生活にも困っていない。恵まれたお嬢さんが、このDIOの考えに賛同するはずがないと。君は姿を消すと思っていた」
DIOはくつくつと喉を鳴らして笑う。
「しかし、君は来てくれた。なぜだ?」
「あなたが、尽くせば応えてくれる方だと思っているからです」
私は淡々と答えることに従事した。少しでも声が揺らげば、ここにいる誰かに殺されると思った。
「あなたは、誰よりも人の心を理解してくれます。だから、今日、ここへ来たのです」
DIOは満足そうに目を細め、そして、私の唇をその長い指先でなぞった。予想外の動きに、体が大きく、びくんと跳ねた。
「ア、ッ」
「嘘は言っていないようだな」
話していないことはたくさんあるけれど、彼に嘘はついたことはなかった。
だけど、こののど元に刃を突きつけられているような感じは何だろう。ずっと、切っ先を向けられているような。ばくばくと心臓が波打っている。
「ずっと努力しているのになァ……勉強も……友達への気配りも……周りのヤツらの『理想』を実現しようとお前が骨を折っても、誰も感謝してくれない当たり前だと思っている。お前の頑張りを、延々と湧くわき水のように、与えられて当然だと思っている。水が出るのは、地面を掘った人間がいるからなのになァ……?」
DIOは、微笑んでいた。それが、私には天恵のように見える。しかし、得体のしれない恐怖もあった。信じて良いのかという疑念が、初めての労りの言葉を貰った嬉しさの陰に隠れている。
「私は分かっているぞ。お前は、十分よくやっている。お前のどこへもやりようのない寂しさも、私なら受け止めてやれる」
唇をなぞっていた指先が頬へ滑り、掌で包み込まれた。きっと冷たいだろうと思っていた白い手。それは、思いの外、心地良い体温を保っていた。
「その代わり……私にも、お前の力を貸して欲しいのだ。私にとっての追い風となる、その優れた力を」
ひゅ、と喉が鳴る。スタンド能力と呼ばれるそれには、まったくと言って良い程良い思い出はなかった。私にとって、ソレは鬱陶しいものでしかなかったのだ。でも、DIOはそれが欲しいと言う。
「ここには君と同じ仲間が大勢いるが、君とまったく同じものを扱える者は誰ひとりとしていない。こんな場は今まで手に入れたことがないのではないか?君しか、その能力を扱える者はいない。私は、そんな君を尊重しよう。感謝しよう」
甘い声に甘い言葉。
甘い話には毒がある。子どもでも分かること。
そして、誰でも耳を傾けてしまうような話。
「私に、協力してくれるね」
私は、あらがえない。死ぬほど欲していたものを、この人は与えてくれる。
畏怖と疑念と歓喜で胸が震えていた。しかし涙は出なかった。私は頷くのが精一杯だったけれど、DIO様は返事を促すように瞳を覗き込んでくる。心臓を鷲掴みされたようだった。
「尽くします……DIO、さま……っ」
視界がぼやけて、またすぐにハッキリとした。
「ここにいる者はこのDIOに従うのだ。分かっているな」
誰も返事はしない。しかし、それが全てを示していた。
首から肩にかけてすうっと撫ぜられ、私はそのまま膝から崩れ落ちた。
「期待しているよ……私の友人よ」
カツンカツンと靴音を響かせ、彼は部屋を出て行った。
ひそひそと囁き会うような音も、私は聞こえてはいるけれど聞いていない状態だった。
「……立てますか」
肩に触れた執事の手を勢いよく振り払うと、思いの他、強いばしっという音がした。一瞬、部屋が静まりかえる。またやってしまった。
「誰かに送らせましょう。立てますか」
執事は全く気に留めた様子もなく、そう言った。
「……一人で立てるし、一人で帰ります」
「しかし」
「あの人の話、聞いてなかったんですか?送ってくれた人が、そのまま大人しく帰るわけないでしょう。わかりますよ。それくらい」
珍しく攻撃的な私に、執事が驚いているのが分かった。ひそひそ声はまた鳴り止まない。
「……帰ります」
「テレンス・T・ダービーです」
執事は、いつになく真剣な顔をしていた。
「は?」
「私の名前です。これからは同志ですからね。名乗っておくのが礼儀かと思いまして」
「今さらですか?」
思いっきり鼻で笑ってやる。誰がいようが構うものか。
「ふつう、名乗るなら、初めて会った時だと思いますけど」
なんだかばからしくなってしまって、誰にも何の挨拶もなしに立ち去った。ならず者だらけの空間から、早く出て行きたかった。どう考えても、私だけが場違いだ。
廊下へ出る時、入り口の一番近くにいたンドゥールさんの視線を感じた。気のせいだ。あの人に、私の姿が見えるはずがないもの。見えたとしても、今は目をそらして欲しい。
やっぱり断ればよかった。
しかし、もうあの人からは逃れられない。
それをひしひしと感じながら、夜の街を引き返した。
星なんて、微塵も見えなかった。
「無事にいらしたのですね」
入り口でいつものように出迎えた執事は、夜中にも関わらず完璧な振る舞いで私を迎え入れた。
「いつもと雰囲気が違いますね。よくお似合いです」
「……ありがとうございます」
お気に入りの白い服ではなく、祖母に送ってもらったもう片方のブラウスで来た。黒地に赤い花の刺繍が施してある。
ンドゥールさんと二人で会う時と同じ恰好で来るのはイヤだったのだ。
中はいつも以上に暗く、執事の持つカンテラだけがぼうっと浮かび上がり、幽霊屋敷のようだ。背筋がぞくりとした。
「そんなに怖がらないでください。慣れれば平気ですから」
「……これから、また夜中に来なければいけない時があるんですか?」
「あるでしょうね。まあ、あなたの場合はそう頻度は高くないでしょうが、もしも都合が悪いようでしたら」
「誰も断るなんて言ってないです」
執事の言葉を遮り、言い切った。やってしまったかとヒヤリとする。執事の周りの空気が変わったような気がしたけれど、彼はふふ、と笑っただけだった。
「あなたは、本当に可愛い人ですね」
「……」
「失礼。からかったわけではないのです」
「……別に良いですけど。そういうの、もう慣れましたし」
「これから会う方々はもっとたちが悪いですが、平気ですかね」
「会って見なきゃわかりません」
「多分、あなたの想像の範疇を超えたヤツらばかりですよ」
「わかりましたから。もう脅かさないでください」
しつこい執事の脅しに呆れてしまう。こんな時間に呼び出されるような人たちだ。規則正しい社会生活を送る人間ではないことは明白だ。この執事も含めて。
帰りたくなってきた。
「ンドゥールもいるので、大丈夫かとは思いますがね」
なぜ、彼の名前を出すのだろう。
顔に出ていたらしく、執事がまたふふ、と顔だけで笑う。おそらく、DIOが私に話しているのを聞いたか本人から聞いたか、どちらかだろう。十中八九前者だろうけれど。私は、この執事の名前も尋ねたこともないのに。アンフェアだ。
大きな扉の前に来た。何度も来たことがある。ノックの音が、今日はやけに大きく聞こえた。
「失礼致します」
「入れ」
ギイ、と古めかしい音をさせて扉が開く。町中に響いたのではと思うくらいに聞こえ、急にいたたまれない気持ちになった。
真っ正面の玉座に、月を背負ったDIOがいる。そして、部屋の両脇に通路を挟むようにして、暗がりに大勢の人間のいることが分かった。なにこれ。二、三人どころか、その十倍はいるではないか。
どういうことですか、と執事を見上げる。しかし、どうぞお入り下さいという仕草をするだけで助けてはくれなかった。さっきまで心配するような素振りを見せていたくせに、なんて薄情な。
しかし、嫌な感じの視線だ。値踏みされているような感じ。この場から立ち去ってしまいたくてたまらない。
「君が星の下に立つのを見るのは初めてだな」
DIOは戸惑う私の様子を面白がっている。羨ましいほどに楽しそうな人である。
「失礼ながら、今まで私は君の忠誠心を疑っていたようだ。私はこう考えた。両親が健在していて特に生活にも困っていない。恵まれたお嬢さんが、このDIOの考えに賛同するはずがないと。君は姿を消すと思っていた」
DIOはくつくつと喉を鳴らして笑う。
「しかし、君は来てくれた。なぜだ?」
「あなたが、尽くせば応えてくれる方だと思っているからです」
私は淡々と答えることに従事した。少しでも声が揺らげば、ここにいる誰かに殺されると思った。
「あなたは、誰よりも人の心を理解してくれます。だから、今日、ここへ来たのです」
DIOは満足そうに目を細め、そして、私の唇をその長い指先でなぞった。予想外の動きに、体が大きく、びくんと跳ねた。
「ア、ッ」
「嘘は言っていないようだな」
話していないことはたくさんあるけれど、彼に嘘はついたことはなかった。
だけど、こののど元に刃を突きつけられているような感じは何だろう。ずっと、切っ先を向けられているような。ばくばくと心臓が波打っている。
「ずっと努力しているのになァ……勉強も……友達への気配りも……周りのヤツらの『理想』を実現しようとお前が骨を折っても、誰も感謝してくれない当たり前だと思っている。お前の頑張りを、延々と湧くわき水のように、与えられて当然だと思っている。水が出るのは、地面を掘った人間がいるからなのになァ……?」
DIOは、微笑んでいた。それが、私には天恵のように見える。しかし、得体のしれない恐怖もあった。信じて良いのかという疑念が、初めての労りの言葉を貰った嬉しさの陰に隠れている。
「私は分かっているぞ。お前は、十分よくやっている。お前のどこへもやりようのない寂しさも、私なら受け止めてやれる」
唇をなぞっていた指先が頬へ滑り、掌で包み込まれた。きっと冷たいだろうと思っていた白い手。それは、思いの外、心地良い体温を保っていた。
「その代わり……私にも、お前の力を貸して欲しいのだ。私にとっての追い風となる、その優れた力を」
ひゅ、と喉が鳴る。スタンド能力と呼ばれるそれには、まったくと言って良い程良い思い出はなかった。私にとって、ソレは鬱陶しいものでしかなかったのだ。でも、DIOはそれが欲しいと言う。
「ここには君と同じ仲間が大勢いるが、君とまったく同じものを扱える者は誰ひとりとしていない。こんな場は今まで手に入れたことがないのではないか?君しか、その能力を扱える者はいない。私は、そんな君を尊重しよう。感謝しよう」
甘い声に甘い言葉。
甘い話には毒がある。子どもでも分かること。
そして、誰でも耳を傾けてしまうような話。
「私に、協力してくれるね」
私は、あらがえない。死ぬほど欲していたものを、この人は与えてくれる。
畏怖と疑念と歓喜で胸が震えていた。しかし涙は出なかった。私は頷くのが精一杯だったけれど、DIO様は返事を促すように瞳を覗き込んでくる。心臓を鷲掴みされたようだった。
「尽くします……DIO、さま……っ」
視界がぼやけて、またすぐにハッキリとした。
「ここにいる者はこのDIOに従うのだ。分かっているな」
誰も返事はしない。しかし、それが全てを示していた。
首から肩にかけてすうっと撫ぜられ、私はそのまま膝から崩れ落ちた。
「期待しているよ……私の友人よ」
カツンカツンと靴音を響かせ、彼は部屋を出て行った。
ひそひそと囁き会うような音も、私は聞こえてはいるけれど聞いていない状態だった。
「……立てますか」
肩に触れた執事の手を勢いよく振り払うと、思いの他、強いばしっという音がした。一瞬、部屋が静まりかえる。またやってしまった。
「誰かに送らせましょう。立てますか」
執事は全く気に留めた様子もなく、そう言った。
「……一人で立てるし、一人で帰ります」
「しかし」
「あの人の話、聞いてなかったんですか?送ってくれた人が、そのまま大人しく帰るわけないでしょう。わかりますよ。それくらい」
珍しく攻撃的な私に、執事が驚いているのが分かった。ひそひそ声はまた鳴り止まない。
「……帰ります」
「テレンス・T・ダービーです」
執事は、いつになく真剣な顔をしていた。
「は?」
「私の名前です。これからは同志ですからね。名乗っておくのが礼儀かと思いまして」
「今さらですか?」
思いっきり鼻で笑ってやる。誰がいようが構うものか。
「ふつう、名乗るなら、初めて会った時だと思いますけど」
なんだかばからしくなってしまって、誰にも何の挨拶もなしに立ち去った。ならず者だらけの空間から、早く出て行きたかった。どう考えても、私だけが場違いだ。
廊下へ出る時、入り口の一番近くにいたンドゥールさんの視線を感じた。気のせいだ。あの人に、私の姿が見えるはずがないもの。見えたとしても、今は目をそらして欲しい。
やっぱり断ればよかった。
しかし、もうあの人からは逃れられない。
それをひしひしと感じながら、夜の街を引き返した。
星なんて、微塵も見えなかった。