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短編リョ幸

例の病が再発したのは1カ月前だった。


突然崩れるように倒れて、地面に頭を打ち付けたことを覚えていた。痛いとか恐いよりも至極唐突で驚いていたような気がする。


毒が回るように身体が動かなくなる感覚は奇妙に懐かしくて、嗚呼、死ぬのかなんてどこか諦めたような気分だった。別にもういいとさえ思う。背負うものは無いし、あの時のように立ち上がる気力も大して残っていない。

このままひっそりと呼吸を止めて、酸素の届かない薄い意識のなかであっさり死んでしまうのもそんなに悪くないだろう。


幸いなことに未だ妻も子供もいなかった。俺が置いていくのなんて友人くらいだ。彼らには申し訳ないけれど、俺がいなくたって自分達で立ち上がってで歩いて行くだろう。
まあ、ちょっとくらいは俺のために泣いてくれないと承知しないけど。



…ああでも、出来ることならもっとテニスがしたかったなぁ。


薄れる意識であの夏を恋しく思った。死ぬ間際にこんな事を思うなんて、中学生の自分は想像もしていなかっただろう。目の端に焼き付いた光景はコートの中にいるような錯覚を起こさせる。



熱い日を浴びて戦ったあの日。

必死でラケットを振ったあの日。

負けた涙を黙って拭ったあの日。



あのときは憎いと思った瞳を、今は美しいと思える。あまりにも純粋に輝いた、少年の鳶色の瞳。


『ねぇ、楽しんでる?』


たのしかったよ、と言おうとした。あのころの自分に教えてやりたかった。悔しくて腹立たしくてそれでもラケットを手放せなかったのは、紛れもなく楽しかったからなんて無責任な今なら言える気がした。


届かない後悔は降り積もる。それでもこのコートのなかで意識を閉ざすなら、死ぬのも寂しくはなかった。



静かにネット越しに相対したあの日の彼はじっとこちらを覗いて、ぐいと帽子を引き上げた。

「いい顔できるじゃん、アンタ」

僅かに口角を上げて心底楽しそうに笑う彼に笑い返した。

「お互い様だよ」

青空からの光がちかちかと瞳に反射して、ボールが宙に浮いた。



――さぁ、もう一度あの夏を。










お題「あの夏を、もう一度」
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