筋肉ファンタジー

イーストン魔法学校の敷地内にある少し開けた場所。
そこではある実験が行われていた。
実験の為の三つの古びたドラム缶が等間隔に置かれており、そこから一定の距離を保った所にマッシュ・ランス・ドットの三人が並んでそれぞれ利き手とは反対の掌を上に向けて佇んでいる。
更にドットが立っている位置から少し離れた所にオルカ寮のカルパッチョと同じくオルカ寮1年男子フラースコ・モブスが並んで立ち、マッシュが立っている位置から少し離れた所にフィンとレモンが待機していた。
フィンは緊張した面持ちで杖を構えており、左目の下に二本目の痣を顕現している。

「始めよう」

抑揚のない声でカルパッチョが呟き、ナイフを構えると左の掌に浅い切れ込みを入れた。
するとドットの左の掌がぱっくりと割れて血が滲み、紙で指を切ったような鋭い痛みを覚えてドットは眉を顰めたが奥歯を噛んでそれを堪えた。
杖の祝福の力で自身の傷が自動で癒えたカルパッチョは続けざまに左の掌にナイフの先端が埋まるくらいの力を入れて刺した。
それによって今度はランスの左の掌に深めの刺し傷が出来上がり、ブシュッと血が噴き出す。
しかしランスはいつもの冷めた表情でそれを見下ろすだけで特に痛がる様子も動揺を見せる事もなかった。
それからカルパッチョは再び自動で癒えた左の掌に対して今度は思いきり深くナイフを突き刺した。
その刺し傷はマッシュの左手に移り、ランスの二倍の勢いと量でもって血が噴き出す。

「っ!!」

堪らなくなったフィンが杖を振るおうとするがすぐにレモンがフィンの肩を掴んで抑え、首を横に振り、マッシュ達三人も無言で右手を挙げて首を横に振って制止する。
レモンとしては本当はそのまま治癒をお願いしたい所だがそれでは同じ事の繰り返しになってしまい、マッシュ達が無駄に痛みに苦しまなければならなくなるのでそうならないように必死に堪えていた。
その証拠に彼女の可愛らしい顔の眉間に苦しそうに皺が寄っている。
それを察してフィンは無理矢理自身を納得させると同じように苦しげに瞼を伏せ、それからゆっくりと杖を持つ腕を下ろした。
けれども二本目の線は出たままで、いつでもセコンズを発動出来る準備はしていた。
それらを見届けたカルパッチョは隣に立つフラースコに目配せするとフラースコは頷き、紐で繋げて首から下げて抱えていた木の箱に入れていた瓶を手に取った。
瓶の中にはフィンのセコンズで出現する癒しの蝶が詰められていて緩やかに羽をはためかせている。
瓶は全部で8個あり、フラースコはその内の3個の蓋を開けると蝶を解放した。
自由を得た蝶は大きく羽をはためかせると優雅に宙を舞い踊りながらまるで引き寄せられるようにしてマッシュ達の血が滴る手に停まっていく。
すると温かな黄金の光を放ちながら傷口は瞬く間に塞がっていき、魔力を流すのと引き換えに蝶はサラサラと砂のように光を散らしながら静かに消えた。
その様子をマッシュは少し不思議そうに、ドットとランスは何とも言えないという風に瞳を瞬かせ、カルパッチョが無表情でそれらを観察する。

「次、やって」

カルパッチョに促されてマッシュは拳を構え、ドットとランスは杖を構えて呪文を唱える。

「エクスプロム!」
「グラビオル」
「ふん」

いつもの倍の威力で吹き飛び、くしゃりと縦に潰れ、穴が開く勢いで凹んで真っ直ぐに吹っ飛ばされていくそれぞれのドラム缶。
相変わらずの火力を誇る三人だが慣れている事もあってフィンもレモンも驚きはしなかった。
それよりも二人揃って眉根を寄せて懐疑的な表情を浮かべている。
そんな二人とは対照的に相変わらず無表情のカルパッチョはペンとメモを手に持つフラースコを伴ってドット達に尋ねる。

「フィンが直接魔法をかけた時よりも明らかに威力が下がってるな。体感としてはどう?」
「あー、3分の1?って感じか?」
「もっと言語化しろ言語雑魚」
「はぁぁん!?無表情雑魚に言われたくねーんですけど!?」
「黙ってろチンピラ雑魚」
「やんのかシスコン雑魚!」
「俺のシスコン力を雑魚などと抜かすとは頭まで雑魚のようだな」

ギャーギャーといつものように始まった二人の喧嘩を前にカルパッチョは「どっちも等しく雑魚だろ」と色んな意味を込めた罵倒をポツリと呟く。
そんな二人の喧嘩を止めるべくマッシュがドットとランスに順番ずつバックドロップをお見舞いして物理的に鎮める。
鈍い音が二つ響いて、フィンが内心「やり過ぎじゃ」と二人の身を案じるが自業自得なのでしょうがない。
回復をしてあげようとしたがカルパッチョに片手で制されてしまう。
まだ実験は終わっていないので何もするなという意味だ。
それでも食い下がろうとするフィンに頭から血を流しながらランスとドットが同じように片手で制止し、ランスがカルパッチョに簡潔的に説明を始める。

「まず、俺達の傷は問題なく完治している。マッシュ、ドット、不都合はあるか?」
「俺はねぇ」
「僕も問題ないよ」
「次に魔力についてだが通常の3分の1程度の加算しか感じられなかった。パーセンテージで大まかに言うなら30%くらいだな」
「それでも魔力の漲る感じとか出力はいつもよりもかなり出てるのは分かったけどな」
「あくまでも主体は回復で抑えられるのは魔力の加算の方か」
「抑制具合も他の魔法と変わらないですね」

顎に指を当てて思案しながらブツブツと呟くカルパッチョと喋りながら同時に紙にペンを走らせるフラースコ。
言っている事はさっぱりだがそれでもマッシュは首を傾げながら疑問に思った事を素直に口にする。

「これって実験は成功?それとも失敗?」
「成功と言えば成功だけど厳密に言えばこの実験は結果に対して成否を問うものじゃない、データを取るのがメインだ。固有魔法を特殊な魔法瓶に詰めてそれから放出した場合の魔法の出力加減についてのデータを集めている。この学校は赤魔導士も白魔導士も豊富にいるけど回復魔法を使えるのはフィンしかいないから比較データがないけど概ね他と同じと捉えて―――」
「あばばばばばばばばばばばばば」
「オイコラ!マッシュの情報処理能力を超えて説明すんな!もっと分かり易くカスタードクリーム状にかみ砕いて説明しろや!」
「・・・とりあえず成功って事でいいよ」
「へー」
「それでどうするんだ?そこのフラースコが作った特殊な魔法瓶の研究は発表するのか?」

腕を組んだランスが厳しい瞳で尋ねる。
人の、特に研究者が集うオルカ寮の研究に他寮がケチをつけるのはご法度だが、内容が内容だけにそうもいかない。
もしも相手の固有魔法を吸収して放出出来る魔法瓶が実用化されてしまえばかなりの危険事態になってしまうのは火を見るよりも明らかだ。
友人が、そして周り回って最愛の妹が被害に遭うのが目に見えているので危険の芽は今の内に摘んでおきたい。
そうしたランスの想定を見抜いたフラースコはまるで最初から止められるのを分かっていたかのように慌てたり焦るでもなく、穏やかな表情を浮かべると首を緩く横に振った。

「安心して下さい、学会で発表はしません。むしろ先生を通して魔法局に向けて危険性を提言した文書を提出するつもりです。こんな物が世に溢れれば混乱と危険を招くのは明らかです。まぁそれ以前にこの瓶を作る為の材料がかなり希少で手に入りにくいですし、魔法の放出と共に一度蓋を開けてしまえば効力を失って永久にただのガラス瓶になり果てる気難しい物ですからね」
「その材料の在庫は?」
「とっくにありません。今回のこの実験の為に全部使いました。ていうか使わないと作れないくらい量が少ないもので」
「ならいい。くれぐれも取り扱いには注意してくれ」
「ええ、勿論です。それよりも今回は私の実験に付き合っていただいてありがとうございます。最後に記念と言ってはなんですが余ったフィン君のサニタテムズを受け取って下さい。使用後の瓶については普通に不燃ゴミに出していただいて構わないので」

そう言われてフラースコから金色の蝶が入った瓶を5個受け取ったフィンはマッシュ達と共に寮の302号室に戻った。
今は五人でテーブルを囲んでいつものティータイムを楽しんでいる。

「相変わらずオルカはすげー実験してんな」
「でもその内の大体が今回みたいに公表しなかったり魔法局に危険性を訴えるだけで終わってるそうですよ」
「それでも意味はある。こうした提言によって改めて危険性が検証されて取り扱いが厳しくなったものが過去の事例にある」
「攻撃魔法は吸収されないでフィン君の回復魔法みたいな安全なものだけ吸収されればいいのにね」
「悪人どもが欲しがって裏で苛烈な奪い合いを起こしそうだがな」
「そして最終的にはフィン君が誘拐されて地下の秘密工場でひたすらセコンズを唱えて瓶に詰める作業をさせられてしまうかもしれません!」
「『フィン・エイムズとサニタテムズ工場』」
「ドット君、そのタイトル危ないからやめて」

顔を引き攣らせながらフィンは紅茶を一口含み、瓶の中の金色の蝶を見つめる。
それぞれの蝶は瓶の底や側面に張り付いて羽休めをしている。
自分で言うのもなんだがこうして改めてじっくり観察すると綺麗な魔法の蝶だと思う。
この蝶が自分にとっての大切な人達や困っている人達を助けているのだと思うと誇らしい気持ちになる。
それなだけにレモンの言うような事態や或いは自身が利用されるような事は絶対に起きて欲しくない。
その為にもしっかり身を守る為の魔法や方法を学ばなくては。

「そういえばフィン君、その蝶はどうするの?」

シュークリームをもっもっもっと独特の咀嚼音を立てて食べながらマッシュが尋ねる。
フィンは「ああ、これ?」と顔を上げるとニコリと微笑んでそれぞれの手元に瓶を一個ずつ置いていった。

「みんなにあげる。僕が持っててもしょうがないし、みんなならちゃんと管理してくれるって信じてるから」
「いいんですか、フィン君?」
「うん。魔力は3分の1しか加算されないみたいだし、それで良ければだけど」
「良ければなんてもんじゃねーよ!3分の1でも十分過ぎるくらいだぜ!」
「だが・・・フィン」

腕を組んだランスが鋭い眼差しをフィンに向ける。
とても真剣でどこか厳しいような視線にフィンは思わず背筋を伸ばして「な、何?」と聞き返す。
すると―――

「この蝶の見た目をアンナの顔に変えられないか?」
「こんな所まで!!?」

何を言うのかと思えば、シスコンここに極まれり。
流石にこれはないな、とフィンが内心ドン引きしていると横でドットがランスを見ながら盛大に笑った。

「仕方ねーよフィン!なんてったってスカシ野郎は虫が苦手だからな!昨日だって窓の向こうに虫が張り付いてるのを見て泡拭いてぶっ倒れてたんだぜ!『虫だけは無理~!』つってな!」

失態を思い出してかドットは更に笑い散らかし、顔を盛大に顰めたランスがドットの顔面に正拳突きをお見舞いする。
そうしてそこから始まる二人のいつもの喧嘩。
魔法を使わないだけマシだがほっとくとどんどん酷くなるのでフィンとレモンの二人が仲裁に入って二人を宥めようとする。
そんな四人を他所にシュークリームをひたすら食べていたマッシュだが、実はランスがどうやったらサニタテムズの入った瓶を手に取れるか考えていた。
勉強は頭が爆発する程苦手でも知恵の働く彼はすぐにある事を思いつき、席から立ち上がると棚から小箱を取り出した。
蓋を開ければその中にはランスが強引に渡してきたアンナグッズが収納されており、その中からマスキングテープを取り出すとそれをランスの分の瓶に隙間なくグルグルと巻き付けた。

「ランス君、これならどう?」
「いやいやマッシュ君、流石のランス君もそれで誤魔化される程―――」
「お前は天才か、マッシュ」
「チョロかった!!?」

これまたある意味力技な解決法にフィンはツッコミを止められない。
しかし瓶の外見をそれで解決出来たとしても蓋を開ければ結局はあの蝶が出て来るので問題の後ろ倒しに過ぎない。
かといって余計な事を言って蝶の見た目をアンナにしてくれとまた言われる可能性があるので黙っておく。
それなのにランスは無茶な要求をしてくる。

「フィン、サニタテムズの蝶をアンナの顔に変えられるように練習するんだ」
「うん、やだ」

そもそもの呪文からして『バタフライ』なので変えようがない。
アンナに変えてしまったら『アンナサニタテムズ』になってしまう。
ランスとアンナには申し訳ないがそれは嫌だった。
これでも虫とお化けを克服しようとしているらしいのでこのまま頑張ってもらう方向でいってもらおう。
サニタテムズのアンナ化計画はこれで終わりと言わんばかりにフィンもシュークリームに手を伸ばして食べ始める。
マッシュお手製のシュークリームのクッキー生地はそのザクザク感も美味しさを演出し、優しくまろやかな味わいのカスタードクリームは今日の疲れを甘く包んでくれる。
そうやってフィンがシュークリームに癒されていると同じくシュークリームを食べながらマッシュがフィンの手元の瓶に注目して尋ねる。

「フィン君のそれは自分で持つの?それとも誰かにあげるの?」
「うん。これは―――」









茜色の夕陽が差し込む魔法道具管理局局長執務室。
部屋の中に響くのはカリカリと紙の上を踊る羽根ペンの音と時折挟まれる判子を押す音だけ。
部屋の主である戦の神杖レイン・エイムズは今日も今日とて仕事に追われていた。
神覚者という役職上、授業は免除されているがその代わりとして出されている課題がある。
それ自体は別に問題はないのだが厄介なのは今回出されている課題内容がレインの苦手な占い学なのだ。
常に分岐して移ろいゆく未来、幸運や不運の兆し、探し物や人の見当に対する占いにレインは大きな意味を見出せなかった。
思い描く未来を勝ち取るなら行動あるのみ、運なんてのものは結果についてくるもので、探しものなんてのは情報を集めてそれを元に動けばいいもの。
とにかく行動第一のレインにとってそうした占いは好ましいものではなかった。
なんなら煩わしいとさえ感じる時もある。
特に女子生徒なんかが「占いで絶対に成功するって出てたからいけるって~!」なんてはしゃぎながら自分に告白に臨んで来た時は思わず舌打ちしたくなった。
占いごときで自分の気持ちを決められたような気がして腹が立ったからだ。
勿論告白はきっぱりと断った。
元よりレインはそういった色恋沙汰には一切興味がなく、彼の頭の中は常にウサギと弟のフィンの事でいっぱいだからだ。
今だってそう、早く仕事と課題を片付けて寮に戻ってウサギを吸いながらウサギと触れ合うフィンを眺めていたいと思っている。
それが彼にとっての最大にして最高の癒しであった。

(・・・さっさと終わらせるか)

思い至ったら即行動。
ペンを動かす手を速めて次々と書類をサイン済みトレーに置いていく。
後は急なトラブルが起きなければ今日はもうこのまま上れる。
そう思っていた矢先に控え目に扉をノックする音が耳に届く。

「・・・どうぞ」

やはりそう上手くいくものではないか、なんて諦め気味に考えながら語気が強まらないにように気を付けて入出許可を出す。
どうせ局員か他の神覚者が顔を出してトラブルを持ってくるのだろうと予想していたが、次に顔を出した人物はレインのその予想を大きく裏切ってくれた。

「お疲れ様、兄さま」
「フィン・・・?」

扉を開けて顔を出したのは今まさに頭の中に想い浮かべていた弟のフィンだった。
レインは思わずペンを動かす手を止めると立ち上がってフィンの元に歩み寄る。

「何か用か?」
「今日の放課後はカルドさんの所で修行でさ。それでカルドさんが顔を覗かせても大丈夫だからって言ってくれて来たんだ」
「そうか・・・」

無邪気な淵源との戦いが終結した後もフィンはカルドの都合がつく日に魔法の修行をつけてもらっていた。
カルドは貴重且つ希少で有用性の高い魔法の才能はもっと伸ばすべきと意見しており、フィンもいつかまた同じように大規模な戦いが起きた時にレインやマッシュ達をもっと助けられる自分でありたいとの事で修行を続けているのである。
これには勿論レインは了承済みだ。
あの泣き虫で臆病だったフィンが誰かの為に強くなろうとする姿勢、そしてその心の成長を尊重した次第だ。
しかし本音を言えばあまり修行はして欲しくないのがレインの気持ちでもあった。
才能を伸ばせば伸ばす程、有用性が高まれば高まる程、魔法局からフィンへの需要が高まる。
その内容は勿論、戦地への遠征だ。
レインの神覚者権限でそれらは全てストップさせているが、無邪気な淵源ほどとまではいかずとも似たような大規模な戦が始まったらそうもいかない。
先の戦ですら本当は行かせたくなかったのに活躍した実績を作ってしまった為にもしも次があったら免れる事は不可能だろう。
これに加えてフィンの回復魔法を狙うゴミクズのような連中がチラホラと湧き出ている始末。
なんとも頭の痛い話だった。
やはりフィンが何者にも脅かされず幸せに穏やかに人生を送るにはこの世界はまだまだ腐っている。
まずは最近存在が目立ってきた犯罪組織を壊滅させて魔法局に対しても神覚者権限をフル活用して牽制してフィンにも防犯魔法道具や防御魔法を教えて・・・などと頭の中でつらつらとプランを立てている内に眉間に皺が寄っていたようでそれを見たフィンが何を思ったか、申し訳なさそうに眉を下げた。

「ごめん、やっぱりお仕事の邪魔だったよね」
「んな訳ねぇだろ。茶でも飲んでいけ。コーヒーでいいか?」
「うん、全然いいよ」

邪魔だなんて事は全くないというのが伝わったのか、フィンが頬を緩めて頷いたのでレインは胸を撫で降ろし、杖を軽く振ると先程まで自分が座っていた席の横にフィンが座る為の椅子を魔法で引き寄せ、ポットに二人分の水を入れると同じく魔法でそれを沸かした。
次にインスタントコーヒーの粉を二つ分のウサギ柄のマグカップに出してそこにお湯を注ぐ。
マグカップと一緒にマドラーを渡し、ついでにミルクとスティックシュガーを出せば椅子に腰かけたフィンがそれに手を伸ばしてコーヒーに甘さを足した。
レインはそのままのブラックだ。
コーヒーの温かい湯気と芳しい香りにフィンがホッと一息吐いたのを見てレインも仕事で内心張りつめていた緊張の糸を解す。

「今日の修行は最初に魚を捌いてからチェンジズの初級魔法の精度と速さを高めたんだ。初級魔法も磨いておけばいざという時に絶対に役に立つからって」
「また魚を捌いてたのか」
「うん・・・すっかり僕の捌く魚がお気に入りみたいで・・・見慣れてきちゃったけど自分の認識をバグらせたくないから今度フワフワのホットケーキを作って出しますねって約束した」
「カルドさんは何て?」
「とっておきのハチミツを瓶ごと用意して楽しみにしてるよって・・・」
「・・・」
「カルドさんのハチミツ狂いはともかく、ランス君にコツを教わりながら練習するつもり。上手に焼けるようになったら兄さまとマックス先輩にもご馳走するね!」
「ああ、楽しみにしてる」

ニコニコと嬉しそうに宣言するフィンにレインは自然と口の端が緩む。
カルドによる修行で回復魔法の開花と同時に料理の趣味に目覚めた事についてはどういう気持ちの処理をすれば良いのかまだ分からないが、とりあえずはフィンが新しい趣味を見つけたので良しとする。
それに時々フィンが作った料理やお菓子を口にする事があるのだがこれが本当に美味しいのだ。
同時に遠い昔に母が作ってくれた料理を思い出すような懐かしい味と心地になるのでレインは心の底からフィンの料理が楽しみだった。
心の中でフィンが作ってくれるホットケーキに思いを馳せている横でフィンが「あ、そういえば」と言って何かを思い出したようで、マグカップを机の上に置くと手をローブの内ポケットに伸ばした。

「これ、兄さまにプレゼントなんだけど良かったら受け取ってくれる?」

そう言いながら机の上に出されたのは瓶の中で小さく羽をはためかせる金色の蝶。
誰よりもそれに見覚えのあるレインはその蝶が何かすぐに思い当たる。

「サニタテムズ?」
「うん。昨日、オルカの人の実験を手伝った時に余ったからって記念に貰ったんだ」
「オルカだと・・・?」
「あ、勘違いしないで!ちゃんと同意の上だしマッシュ君達とも一緒だったから!危険な事とかそういうのは全然ないから!」

オルカ寮の名を聞いた途端に眉間に皺を寄せて表情を険しくさせたレインに両手を小さく振ってフィンは必死に弁明をする。
フィンが回復魔法に目覚めてからというもの、オルカ寮の人間から是非ともそのメカニズムや細かい性質について研究したいという声が挙がるようになった。
大切な弟をまるで実験体のように扱おうとするその姿勢が非常に気に入らなくて最近のレインのオルカ寮に対する心象は宜しくなかった。
加えて神覚者選抜試験でオルカ寮のカルパッチョが親友のマックスを叩きのめし、フィンを殺そうとしたのを知ってしまったが為に尚更フィンの口からオルカ寮の話題が出ると不機嫌になるようになってしまった。
しかも今回の実験はよりにもよってそのカルパッチョが多少なりとも関わっているのでフィンは自身の発言に注意しながら続ける。

「希少な素材を使った特殊な瓶の性能についての実験で僕のセコンズをこうやって吸収したんだよ。結果としては傷は変わらず完治するみたいだけど魔力は僕が直接セコンズを使う時の3分の1しか加算されないみたい」
「それでも十分な魔力の向上と補給になる」
「ドット君も同じ事言ってた。本当にそれでも大丈夫ならって事で貰った物をマッシュ君達にあげて、この最後の一個を兄さまにプレゼントしようと思って」
「いいのか?」
「勿論!兄さまは特に任務で怪我をする事が多いから持ってって使って欲しいかな」
「・・・そうか。なら、大切にする」
「ちゃんと持ってって使ってね!?」

すかさずツッコミを入れて、それからフィンは噴き出して笑う。
大切な弟が目の前で自分の傍で笑う姿にレインは今日も幸せを噛み締めるのだった。


それからというもの、レインはサニタテムズの入った瓶を懐に入れて持ち歩くようになった。
そして暇さえあれば寮の机に、魔法局の自身の執務机の上に出してそれを視界の端に眺めながら課題や仕事に取り組んだ。
淡く輝く金色の蝶はその優しい光と色も相まって自然とフィンを彷彿とさせ、視覚的にもレインを癒す。
あまりにも堂々とそうしていたものだからすぐに魔法局内にその様子が広まってその内にツララが瓶の性質について確認させて欲しいと執務室に訪れた。
どうやらフィンの言っていたオルカ寮の人間からの問題提起を書き記した文書が回って来たらしく、それの検証をする為にも調べさせて欲しいとの事だった。
レインはそれはそれは嫌そうに眉間に皺を寄せながらも渋々了承したそうで。
この時にツララは「ブラコンこぇ・・・」と呟き、瓶を殊更慎重且つ丁寧に扱ってレインに返したとのこと。
その際に『使用後の瓶の性質を確認したいから使用したら持って来て欲しい』と伝えた。
いつになるか分からないと言ったらいつでもいいと返され、レインはその言葉に甘える事にした。
フィンの優しい性格を具現化したこの魔法の蝶をいつまでも見ていたいのでたとえ自身が怪我をしてもこれは使わないと決めているからだ。
渡してくれたフィンの願いを丸無視する行為だがレインはフィンに纏わるものは何一つとして失いたくなかった。
だからこの瓶詰の蝶も可能な限りずっと手元に置いておく。
そう、決めたつもりだった。

「おい、しっかりしろ!おい!」

凶暴な魔法生物の死骸が転がる荒れ地に光の神覚者ライオの切羽詰まったような必死の呼びかけが大きく広がる。
共に討伐に来ていて脅威が完全になくなった事を確認していたレインはライオの方に目を向ける。
そこにはライオと同じか少し上くらいの男性警備隊が傷だらけになってライオに抱きかかえられていた。
地面に広がる出血量が傷の深さを物語っている。

「すい・・・ま、せん・・・ライオ、様・・・ガフッ!」
「無理をするな!救護隊が来るまでの辛抱だ!」
「ライオさん、その人は?」
「レインか。この男は小さい頃に住んでいた村を魔法生物に襲われて父親を失ったらしい。そこに今回の討伐でその仇の魔法生物を見つけて一人で突っ込んだんだ」
「なるほど」
「気持ちは分からんでもないが男前じゃないぞ!そんな事でお前が死にかけてどうする!?」
「すいま、せん・・・ですが・・・こう、かい、はっ・・・っ!!」
「無暗に喋ろうとするな!」

口から大量に吐血する男をライオが叱咤する。
男は息も絶え絶えで見るからに死期が近かった。
このまま放っておけば救護隊が来る前にその命が終わるだろう。
レインはただ無言で男の傍にしゃがむと懐から蝶の入った瓶を取り出し、静かに蓋を開けた。
己を閉じ込める封が解かれて自由を得た蝶は忙しなく羽をはためかせると音もなくフワフワと飛び上がって重傷の男の胸元に止まった。
すると淡く優しく温かい光が男の体を包んで瞬く間に全身の傷を塞いでいった。
それによって男の呼吸は落ち着いていき、ライオに支えられていた体も自らの力で支えられるまでにしっかりしたものになっていく。
まるで奇跡のような出来事に男は驚きで目を見開きながら自身の両手や傷を見下ろし、ライオは申し訳なさそうに眉を下げながらレインを見やる。

「レイン、それは弟君の・・・」
「構いません。弟も本望でしょうから」

いつもの無表情・平坦な声音だが雰囲気はどこか寂し気で。
状況が分かっていない男は分からないながらも「感謝します、レイン様!」と感謝の言葉を述べたものの表情を険しくしたレインに睨まれてしまう。

「おい、二度と命を粗末にするな。救う側の奴は二度目の命を無駄にするチャンスを与える為に治してる訳じゃねぇんだ」
「は、はい・・・?」
「ライオさん、俺は周囲の安全を確認しながら一足先に拠点に戻ります。何かあったら伝言ウサギで連絡してください」
「ああ、分かった。今回も助かったぞ、レイン。帰ったら弟君にも宜しく伝えておいてくれ!」
「分かりました」

短く答えてレインはライオ達に背を向けるとそのまま周囲を警戒しながら拠点を目指して歩き始めた。
その背中はとても18歳の学生とは思えないくらい頼もしく堂々としていて隙が無く、これが最年少神覚者にして『戦の神杖』の称号を冠する者の姿かと男はその目にしかと焼き付ける。
同時に何をしてもらったのかはよく分からないが瀕死の所を救ってもらった事に対して感謝の眼差しを送っていると横でライオが小さく息を吐いて口を開いた。

「男前だが相変わらず言葉の少ない奴だ」
「と、言いますと?」
「お前はさっきのレインの言葉の意味が分かるか?」
「あ、えぇっと・・・救う方はまた死なせに行かせる為に救っている訳ではないから命を無駄にするような行動はとるな、という事ですか?」
「大雑把に言えばそうだ。だが厳密に言えば『傷付いた人が無事であるように』というレインの弟の願いを無駄にするなという意味だ」
「レイン様の弟?」
「さっきレインが瓶から出した蝶はレインの弟君の回復魔法だ。詳しい説明は省くが弟君の回復魔法を吸収して閉じ込めた瓶をレインは弟君からプレゼントされていたんだ」
「弟さんの回復魔法・・・もしかして、あの無邪気な淵源との戦いでレイン様と共に戦ったあの!?」
「そうだ。レインは肌身離さず蝶の入った瓶を持ち歩いていたんだがついさっきお前の為に使ったという訳だ」
「俺の為に・・・」

重く呟いて男は思い詰めるように顔を顰める。
どうやらレインがどんな思いで瓶の中の蝶を使ったのか漸く理解したらしい。
ライオは小さく笑みを溢すと男の背中をバンッと景気よく強く叩いた。

「そうと分かったら二度と命を無駄にするような行動は慎めよ。そんな事をしようものなら弟君の気持ちを踏みにじったとしてレインの怒りを買う事になるからな。俺は庇ってやらんぞ」
「・・・はい!気を付けます!絶対にもう二度と無茶はしません!」
「男前な宣言だ!そうと決まったら俺達も戻るぞ!」
「はい!」

男は改めてレインとフィンに感謝と尊敬の念を送り、ライオと共に拠点へ戻った。



あれから任務を終えたレインは数日ぶりに寮の自室に戻った。
戻る直前にツララに例の瓶を渡して軽く検証してもらった所、オルカ寮の人間からの文書通り希少な素材は性質変化しており、ただの瓶の成分に成り下がっていたそうである。
なのでそのまま処分するも良し、何かに使うも良しという事で持って帰って来た。
何に使うかはまだ考えていない。
というよりもあまり考えられない。
自身の行動に後悔は一切ないがそれを抜きにしても喪失感が拭えなかった。
そんな気持ちが現れていたのか、ウサギの世話をしに来てくれていたフィンがレインの顔を見るなり心配そうに眉を下げて見上げて来た。

「お帰り、兄さま。元気なさそうだけど何かあった?怪我したなら正直に言ってね?」
「いや・・・」

重く首を横に振って懐から空になった瓶を取り出す。
最初に見た時は首を傾げたフィンだったがすぐにそれが何かを思い出したのか、少し驚いたような表情になって尋ねる。

「それってもしかして僕がこの間あげた瓶?」
「ああ・・・任務で使った」
「そっか。怪我は治った?」
「完璧にな。助かった」
「うん、良かった」

穏やかに微笑むフィンの表情は春の陽射しのようにとても温かく柔らかい。
トパーズ色の瞳はレインが自分の為にではなく他人の為に蝶を使ったのを見透かしているように見えるが真意は分からない。
けれど分かった所でフィンは今のように微笑んでレインのその行動を喜んだだろう。
優しい弟に胸の中が温かくなるが瓶の中の蝶を失った喪失の風が冷たく吹き抜けてレインの表情を曇らせる。

「どうしたの、兄さま?」
「・・・この瓶の使い道を考えてる」
「あー・・・」

兄弟仲が修復して交流の増えたフィンはレインの表情が曇った理由を何となく察した。
自分に関するものについては過剰且つ過敏な兄の事なので蝶がいなくなった瓶に寂しさを感じているのだろう。
少し大袈裟な気もするがそれ程までに大切に想ってくれているのは素直に嬉しい。
何とかこの寂しさを埋めてやれないだろうかと逡巡してフィンはすぐにある事を思いつく。

「そうだ!兄さま、この瓶、少しの間僕が預かっててもいい?」
「別に構わねぇが」
「ありがとう!用が済んだらすぐに返すから!」

ニコニコの笑顔でそう告げるフィンにレインは小さく首を傾げたがフィンを信じて静かに頷いた。




それから数日してのこと。

「じゃーん!はい、兄さま!」

修行が終わったという事でレインの執務室に訪れたフィンはレインが自身の隣に用意した椅子に座るなり両手である物をプレゼントしてきた。
それは先日フィンに預けた瓶で、その中で仲良く寄り添う2羽のガラスのウサギが鎮座するスノードームだった。

「スノードームか?」
「そうだよ!でもただのスノードームじゃなくて季節に合わせて硝子の中で舞う物が変わってくるマジックスノードームなんだ。春には桜、夏にはひまわり、秋には紅葉、冬には雪が舞うんだよ」
「面白いもん作ったじゃねぇか」
「今学校の女子の中で流行ってるみたい。レモンちゃんはマッシュ君の人形を入れてて影響を受けたランス君がアンナちゃんの人形を入れてたんだけど・・・まぁそれは置いといて、僕も作り方を教わりながら作ってみたんだ。兄さまに喜んでもらおうと思って」

えへへ、と照れ臭そうに頬を掻くフィンの姿にレインの胸の中がじわりと温かくなっていく。
蝶を失って意気消沈する自分を気遣ってこんな嬉しいサプライズをしてくれる弟はなんと健気なのだろう。
こんな弟のフィンだからこそ自分の全てを捧げてでも守りたいし、幸せになって欲しいと願って何でもしたくなる。
募る想いは蝶を失って小さく空いた心の穴を埋めて満たしていく。

「大切にする」
「うん!」

その日からウサギのマジックドームはレインの執務室のデスクに鎮座し、レインを癒す役目を負うのであった。







END
4/4ページ
スキ