ポンチと踊るダンスホール

東京に本社を構えるシンヨコ商事の神奈川支社営業部所属の女性営業マン・ヒナイチ。
彼女は鞄に資料と会社用携帯、その他必要な物を詰めると腕時計で時間を確認し、1人頷いて歩き出しながら言い放つ。

「行って来ます!」

元気良く出掛ける挨拶をして他社員に「いってらっしゃーい」とそれぞれのデスクから送り出される言葉を背にヒナイチは事務所を出た。
都会の石畳の上を行き交う人々に自身も加わり、走ってはすぐに信号で足止めをくらう車を横目に駅を目指す。
電車で本日最後の予定を頭の中で整理し、目的の駅が近くなったら整理した情報の上に地図を広げて降りる。
そうしてまた行き交う人々になって頭の中の地図の道順通りに2件の既存顧客を訪問を済ませ、最後に天に届きそうな程大きく背の高いホテルの前で足を止めた。

「ここだな」

古き血の吸血鬼・竜の一族が経営する高級ホテル・ノーブルヴァイオレット。
本家本元がルーマニア、それから世界中にいくつかの支店となるホテルがあり、最近新しく出来たこのシンヨコにあるホテルもその支店の一つだ。
一族経営である為に同じ竜の一族の者が経営する別会社が当然として優遇されているのだが、だからといってその他と取引をしない訳ではない。
チャンスが掴めれば大口顧客となるので多くの会社の営業マンが訪問するもののその多くは無惨にもチャンスを掴めず儚く散って行った。
飛び込みでやって来たヒナイチもその一人だったが、実を言うと本日の目当てはそれだけではなかった。

「いらっしゃいませ、お客様」

大きなガラスの自動ドアをくぐり、控え目でありながら気品溢れる優美なデザインの内装に目を惹かれつつ真っ直ぐに受付に向かうと一人の男が対応をしてくれた。
角のように尖った二つの黒い髪、尖った耳、青白い肌とこけた頬、小さな赤い瞳、これらの特徴から察するに吸血鬼だろう。
自分の頭一つ分背の高いその男を見上げながらヒナイチは一礼をして挨拶をする。

「いつもお世話になっております。シンヨコ商事神奈川支社営業部所属のヒナイチと申します。失礼ながらアポはないのですが、お話だけでもさせていただきたく参りました。どなたかご担当者の方はいらっしゃいますでしょうか?」
「申し訳ございません。皆忙しくしている為、お呼びする事は出来かねます」

やはりそうきたか、と心の中で苦笑しながらヒナイチは胸ポケットから名刺ケースを取り出すとその中から一枚の名刺を男に丁寧に差し出した。

「それでしたら名刺だけでもお渡しいただけますでしょうか?」
「かしこまりました、頂戴致します」

男は恭しく名刺を受け取るとそれを静かに胸ポケットにしまった。
きっとあの名刺は名刺ホルダーの海に加わるかシュレッダーで裁断されるだろう。
願わくば名刺ホルダーの海を漂い、何かの折に掬いだされて連絡が来る事を祈る。
心の中で祈りと共に名刺にさよならを言いながら真の目的を果たそうとしたその時―――

「今日最後のドラドラ印のクッキー買えて良かったね~」
「ね~。すっごいギリギリだった~」

「ちん!?」

カフェラウンジの方から出て来た女性二人が綺麗なラッピングが施されたクッキーを手に交わした会話を聞いてヒナイチは弾かれたようにそちらの方を向き、衝撃を受ける。

「あ、ああああの、このホテルでは支配人のドラルクさんという方が作ったクッキーが有名で数量限定とかで―――」
「ええ。ですが先程のお客様達が購入されたのが最後のようですね」
「そんなぁ・・・」

「それじゃ、クッキーも買えた事だし期間限定ウルトラデリシャスイーツバイキング行こっか」
「そうだね」

「あの二人はバイキングにも当たったのか!?なんて羨ましい・・・!!」

今にも泣きそうな顔でヒナイチは女性二人の背中を見つめる。
今日ここに飛び込みに来たのは営業であるのは当然だが、真の目的はホテル名物ドラドラ印のクッキーを買う為だった。
このドラドラ印のクッキーというのはホテルの支配人ドラルクという吸血鬼による手作りクッキーで、その美味しさたるやホテルがシンヨコに出来てすぐにドラルクの名が轟く程。
そしてクッキーが美味しいならば他の料理も美味しいもので、すべてのスイーツが支配人ドラルクによる手作りの『ウルトラデリシャスイーツバイキング』という期間限定のバイキングがあり、こちらも非常に人気であった。
毎度抽選が行われ、ヒナイチは何度も申し込んでいるが当選は叶わず。
今回の抽選も当選出来ず、せめてクッキーだけでも手に入れようと飛び込み営業のついでにやって来たのだが結果はご覧の有様。
羨ましそうにバイキング会場を見つめるヒナイチを受付の男は数秒眺めた後、手元のパソコンのキーボードを叩いて何かを調べた。
そしてその何かの確認を終えると笑顔で尋ねる。

「バイキングに興味がおありですかな?」
「はい・・・とっても凄くかなり著しく・・・」
「思っていた以上に興味があったんですな」
「何度も落選しているので・・・」
「そんなお客様に朗報です」
「え?」

男は周りを窺うように見回し、近くに聞いている者がいないのを確認すると声を潜めて告げた。

「本日のバイキングにおいてキャンセルが発生しましたので料金を頂戴する事になりますがご参加いただけます。如何なさいましょう?」
「本当か!?」

嬉しさから思わず大声を出したヒナイチに男は人差し指を立てて「しーっ」と注意を促すとヒナイチは慌てて自分の口を覆い、それから小さな声で「申し訳ない」と詫びた。

「ほ、本当に参加が可能なのですか?」
「ええ。キャンセルが出た場合にのみ、現地にて先着でお申し込みいただく事が出来ます」
「だったら是非!今すぐ参加をお願いします!」
「かしこまりました。それではご案内致します」

支払いをカードで済ませて男が案内するままにヒナイチは後をついて行った。
事務所を出て行く前にここの飛び込みが終わったらそのまま退勤すると報告してあるのでここからはプライベートタイムだ。
勤務時間申告の為にも現在時刻を確認して覚え、それからヒナイチは案内された席に座った。

「こちらのお席にございます」
「ありがとうございます!」
「ちなみにこちらはウェルカムフードのクッキーでございます。こちらも支配人の手作りのクッキーなのですよ」
「支配人の!?」

テーブルの真ん中に置かれた可愛らしいデザインの皿の上に並べられているクッキーの説明を受けてヒナイチは感激する。
数量限定のクッキーが手に入らなかった代わりにまさかここで支配人手作りのクッキーにお目にかかれるとは。
子供のように瞳を輝かせて欲望の赴くままにヒナイチはクッキーを一枚手にとって齧る。
瞬間―――

「ん~~~!?これは・・・!これはっ!!」

口の中いっぱいに広がるバターの香りと味、絶妙なサクサクした食感。
想像以上の美味しさにヒナイチのアンテナはハートの形になり、それからクッキーを夢中になって食べた。
ウェルカムフードなので少量しか用意されていなかったのでクッキーはすぐになくなったがヒナイチの心は瞬く間に満たされるのだった。

「凄く美味しかった!支配人は海外で修行などをしていたのですか!?」
「フフ、支配人は元々ルーマニア出身の吸血鬼で幼い頃からお菓子を始めとした料理がとても得意でしてね。存分に畏怖していただけますと支配人も大変お喜びになりますよ」
「畏怖い!クッキー美味しい支配人はとても凄い!」
「もっと畏怖して下さい・・・!」
「どうして貴方が気持ち良くなっているんですか?」
「おっと失礼。それよりもこちらのバイキングで提供させていただいておりますスイーツは全て支配人の手作りですのでそちらもお召し上がりいただければと存じます」
「勿論だ!!」

ヒナイチは鞄を肩にしっかりかけると風のようにスイーツを取りに行った。
そして軽い身のこなしで他の人にぶつかる事なく次々と皿にデザートを盛り付ける姿に何かを察知した受付の男は「こうしちゃいられん」と慌ててその場から引っ込んで何処へと消えるのだった。

「美味しい♡美味しい♡」

受付の男がいなくなった事は気にも留めずヒナイチはデザートに舌鼓を打つ。
あっという間に全種類のデザートを一つずつ食べ終えるとその後は気に入ったデザートを重点的に取ってきては食べるを繰り返していた。
周りからしてみればかなりの量を食べているがヒナイチの手は止まらない、どれだけでもモグモグ食べていく。
そうして幸せな時間というのはあっという間に過ぎ去り、ヒナイチとしてはまだまだこれからという時にあの受付の吸血鬼の男が終了を告げに来た。
なんだか疲れ気味な様子で。

「失礼致します、お客様。終了時刻となりました」
「大丈夫ですか?なんだか凄く疲れているようですが」
「いえ、お気になさらず。突如現れたゴブリンの進撃に奔走していたもので・・・」
「そうか?しかし・・・もっと食べたかったな」
「支配人の作ったデザートがお気に召したようで何よりです」
「お気に召したなんてものじゃない!どれもこれも全部凄く凄く美味しかったぞ!じゃない、です!支配人は料理の天才だ!次また抽選があったら絶対に申し込むしキャンセル待ちする為にまたここに来るので!」

未だアンテナをハートマークにしたまま熱弁するヒナイチに男はしばし呆気に取られる。
それから柔らかく穏やかな笑みを浮かべると恭しく綺麗な角度でお辞儀をして言った。

「勿体無いお褒めのお言葉をありがとうございます。お客様が幸せで満たされ、大変お喜びであったと支配人にお伝え致します」
「そ、そんな大袈裟な・・・!」
「大袈裟ではございません。料理を作る者にとってそれが喜ばれる事は大変嬉しく誇らしいものなのです」

顔を上げた男の顔は至極穏やかで柔らかなものだった。
その表情にヒナイチは見惚れてしまい、男が「入り口までお見送り致します」と声をかけるまでぼうっとしていた。
我に返った後は慌てながら忘れ物チェックを済ませて男の後に着いて行って入り口まで向かう。
他のバイキングの客は既にホテルから出た後で入り口の人の出入りは少なかった。

「本日はお越しいただき誠にありがとうございました」
「いえ、こちらこそバイキングの飛び入り参加をさせていただきありがとうございました。とても美味しかったです!」
「お褒めの言葉、ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」

綺麗にお辞儀する男にヒナイチも軽くお辞儀をして挨拶するとその場を去った。
帰宅途中の電車の中では美味しいデザートの幸せの余韻に浸り、眠る時ですらも食べたデザートを一つ一つ思い出すほど。
その中でもとりわけクッキーがヒナイチの脳内を大幅に占有して果てにはクッキーのステッキを持った紫色のコウモリの妖精に「ピスピス!また会えるよ」と囁かれる夢を見た。
それについては「すっかり虜だな」と起きて流石に苦笑を漏らした。
でも本当にまたあのクッキーを食べられたらいいのに。
そう思っていた矢先の事。

「ヒナイチさん、ノーブルヴァイオレットのフロント係のヘンリー・シャドウズさんからお電話です」

翌日の事務所で書類を作成中に事務のルリから電話の指名を受けた。
ヘンリー・シャドウズという名前に心当たりはなかったがフロント係というならば昨日のあの受付にいた吸血鬼の男かもしれない。
何か忘れ物でもしただろうかと用件に当たりをつけながらヒナイチは電話を取り次いだ。

「お電話変わりました。ヒナイチです」

『お世話になっております。ノーブルヴァイオレットのフロント係のヘンリー・シャドウズと申します。昨日お名刺を頂き、バイキングの案内等対応させて頂いた者ですが覚えていらっしゃいますでしょうか?』

「勿論です」

『あの後支配人にヒナイチ様の事をお伝えしましたところ、是非御社のお話を伺いたいと仰っておりました』

「本当ですか!?」

『ええ。つきましては日程の調整をしたく、ヒナイチ様のご都合の宜しい日はありますでしょうか?』

「はい!少々お待ちを!」

ヒナイチはすぐに手帳を広げて空いている日程を伝えて商談のチャンスを掴んだ。
そして、あの難易度クソ高のノーブルヴァイオレットとの商談にこぎつけたヒナイチへの激励とお祝いにその日の営業部では飲み会が開かれるのであった。





その頃、シンヨコ支店のノーブルヴァイオレット最上階の支配人室では・・・。

「シンヨコ商事営業部のヒナイチくん・・・か。どんな商品を仕入れようね、ジョン?」

ヒナイチの名刺を置き、電話口でフロント係のヘンリー・シャドウズを名乗っていた男―――ドラルクが机の上でおやつのクッキーを食べていたアルマジロのジョンの頭を撫でる。
ジョンは食べていた一枚のクッキーを食べ終えると「そんなにその人が気に入ったヌ?」とマジロ語でヌーと鳴きながら問いかけた。

「そりゃあもう。作っても作っても美味しいって幸せそうな顔をしながら全部食べちゃうんだよ?その顔がまた可愛らしいんだ。今度の打ち合わせにジョンも参加するかい?」
「ヌー!」

ドラルク様が気に入った人がどんな人か気になるヌ、と言ってからジョンはまたクッキーを食べ始め、ドラルクはその愛くるしい姿を微笑ましく眺めながら「きっとジョンも気にいるよ」と囁くのだった。






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