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ちいさきちゃん。

ちいさきちゃん。



 ……あたしはね、『ちいさき』ちゃんなんだよ。

 ちいさきちゃん。
 僕は少女の言った言葉を繰り返した。

 ……そう、ちいさきちゃん。

 名前だろうか。
 僕はまだ、この不思議な少女の名前を知らなかった。
 『空有ります』と大きく書かれた看板に、少しだけ笑み、カメラを向けていた僕を、呼び止めたこの少女の名を。
 『空』が『あき』だということはわかっていた。それでも。
 この狭い都会に『空有ります』だなんて、面白いじゃないか。
 そう思って、カメラにおさめようとしていた。
 そのとき、この『ちいさきちゃん』が、僕に空のありかを尋ねたのだ。
 それはまるで、宝物のありかを訊くように。わくわくとして。

 ……空はどこにあるの?

 『空はあそこにあるよ』

 天を指差した僕に、『そこのどこ?』と、彼女は真顔で尋ねた。
 こども特有の細く柔らかい淡い茶色の髪に、美しい天使のわっかをつけて、丸い卵型の輪郭、そして、疑うことを知らないかのような輝く大きな丸い瞳。黄色のスカートを履いて、白い靴下に、可愛らしい小さな黒い靴。
 僕は答えに詰まって、空を見上げた。

 ……行けるかしら。

 『さあ、どうだろう』

 嘘だ。手段ならいくらでもある。飛行機にでも乗ればいい。でも、彼女の求めている答えはまるで違うような気がした。


 それから、時々わざとここを通って、この近所に住んでいるのかよく会うこの少女と話す。
 少女の話すことは、聞いたことのないアリスのお話のように面白かった。
 でも、ずっと名前は知らなかった。
 ずいぶん経って、ある日、彼女は真っ青な半袖のワンピースの裾を揺らしながらやって来た。
 そして、秘密を打ち明けるように、そっとこう言ったのだ。

 ……空を探していた君だけに教えてあげる。

 ちい、という名字はあるだろう。芸能人でも聞いたことがある。だが、あまり少女に似合わないように感じられた。ちいさき、という名前が。それに、彼女は『ちい』、『さき』ではなく、『ちいさきちゃん』と言ったのだ。それがひとつの名前のように。

 ……小さく咲くから、ちいさきちゃん。

 『さきちゃん』

 ……うん、そう。でも、ちいさきちゃんが本当の名前。あたしの誕生花、わすれな草なの。

 小さな花。あの青い、空から降ってきたような、いくつも雪のように空が降ってきたような、真っ青な花。お空の花。

 僕は初めて彼女が空に行きたいと思っていた理由がわかった気がした。





(おわり)
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