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死の淵の鏡






 これは、ある少年と、その少年が見た鏡のお話です。



 少年の国では戦争が起こり、住んでいた街では何人もの人が殺されました。少年の父親も殺された者の一人でした。少年もその時、側にいました。街中で銃撃戦があり、逃げ惑う人々の中で流れ弾に当たり、一緒に走っていた父親が胸を撃たれて倒れ、彼も足を撃たれました。そして父親の側に倒れましたが、そのおかげで彼は死なずに済みました。しかし、彼の父親は助からず、父親を失った彼は街から離れ、森に住むことに決めました。森なら軍隊はやって来ないから、人が死ぬのを見なくて済むからです。少年は一人で、孤独の中、街から運び出した食料や、草や木の実など森で手に入る物を食べ、川の水を飲んで、生き延びてきました。
 ところがそのうち、飲み水はともかく、食べる物が無くなりました。街から持ってきた食べ物も、木の実の季節も終わりになります。そうしたら、彼は何か他の食べ物を見つけないといけません。そうしないと、彼は飢えて死ぬことになってしまいます。少年は、小屋の中で一生懸命に考えました。
 答えはもう出ています。動物を捕まえて食べるしかありません。しかし、それは今まで何度も少年がやろうと思い、どうしても出来なかったことでした。自分が生きるために他のものを殺す。それは彼の父親を殺した戦争と同じでした。食べる物が無くなったら、動物を殺して食べなくてはならない。そうしなければ、自分は死ぬしかない。それは常に彼の頭を悩ませる問題でした。しかし、今は食べる物があるからと、決断を先送りにしていました。でも、とうとうその時がやってきたのです。
 他の生き物を殺すか、それとも、彼自身が死ぬか。
 その時、彼の目の前が暗く歪んで、空気が赤く見えました。まるで色のついた煙のように、その場で波打ち、縦に大きく広がっていきました。
 少年はびっくりして小屋を飛び出すと、その足で動物を捕まえに行きました。前から目をつけていたうさぎ穴に行くと、うさぎを捕まえて、小屋に持ち帰り、小屋の外で火を焚きました。その火の側で彼はどうしたらいいかわからず、じっと座っていました。いいえ、本当はまだ迷っていたのです。自分のために、この哀れなうさぎを食べるかどうかを。彼はやさしい少年だったのです。
 彼がそうやって火の側で考え込んでいると、目の前の茂みから、赤い服を着た女の子が現れました。
 女の子は少年よりも小さく見えました。彼は少女が急に出て来たので、びっくりして少し怪しく思いました。しかし、きっと親と森に逃げてきてはぐれたかどうかしたのだと思い、哀れな(少年はそう思ったのです)少女を焚き火にあたらせました。
 少女は焚き火の近くに座ると、近くに縛られて置かれているうさぎを見て言いました。
「食べないの?」
 彼はわからないと答えました。
「さばき方がわからないならやってあげましょうか?」
 少女はそう言ってうさぎを取り上げました。少年はそれを断りました。少女は不思議そうな顔をして聞きました。
「食べないのなら、どうして捕まえたの?」
 食べようと思った、それが少年の答えでした。だけど彼はうさぎの体にナイフを入れることはおろか、ちゃんと殺すことさえ出来ないのでした。
 そのことを考えて少年が憂鬱になった時、再びそれが現れました。赤く波打つ、煙のような靄のような空気の歪み……。それが少年を飲み込もうとでもするかのように、彼の目の前に広がっていきます。少年は魅入られたようにぼんやりとしてそれを見つめ、危うく引き込まれそうになり、炎の熱さにハッとして気が付きました。そのまま飛び込んでいたら、どうなっていたことでしょう。少年はとても恐ろしく思いました。
 辺りを見回すと、それはもうなくなっていて、かわりにキョトンとしている女の子と目が合いました。
「……『死の淵の鏡』……って、なんだかわかるかい?」
 少女は肯定とも否定ともつかないあいまいな笑顔を見せて、少年を戸惑わせました。けれど、彼はもうこの話を誰かにしなければ、正気でいられないような気がしていました。そこで彼は語りました。それはこういうお話でした。


 それは彼がこどもの頃、彼がおじさんから聞いた話でした。死に近い人の前には、『死の淵の鏡』が現れると。それはどんどん近付いてきて、いつかその人を飲み込んでしまうのだ、と。少年がこれを見るのは、これでもう六回になるのです。彼が最初にこの鏡を覗いたのは、戦争で足を撃たれた時でした。
「これでもう駄目だと思ったんだ。父も側に倒れている。もう駄目だ、もう死ぬんだ。そう思った時、目の前の地面に赤い鏡があって、それに俺の顔が映っていたんだ。それがとても怖くて、動けなかったよ。今考えてみれば、あれは父さんの血だたんだ……。その後も、俺が死にそうになる度に、赤い鏡は現れたよ。一度は、あまりにも辛くて死にたいと考えた時だった。一度は自分の生きている理由を考えている時だった。一度は足をすべらせて崖から落ちかけた時だった。俺が死に近付く度、必ず『死の淵の鏡』は現れ、俺を映し出すんだ」
 彼はホッとため息を吐きました。それは、一人で怯えるしかなかったことを、他人に話せたおかげで恐怖が薄らいだためでした。
「今もそれが見えたんだよ。もう動物を殺して食べないと、食べる物が無いんだけど、どうしても生き物を殺すのが嫌で、だけどそれを食べないなら俺はもう死ぬしかないんだ。だけど俺は絶対に死にたくないんだ。あの鏡に捕まりたくないんだ」
「じゃあ、食べなきゃ。それに、どっちにしても、もううさぎは死んでいるわ」
 少女の言う通り、うさぎはぐったりとしていました。
 少年にはいつうさぎが死んだのか、まったくわかりませんでしたが、とても悲しみました。しかし、少女がうさぎをさばこうとした時には、びっくりはしましたが止めようとはしませんでした。
 うさぎは死んでしまったのです。
 やがて彼の前に、上手に切り分けられたうさぎの肉の串刺しが並べられました。彼は、それをよく焼けるように焚き火の側の地面にさしました。やがて程よく焼けると、少年は少女に食べるように勧めはしましたが、自分では食べようとしませんでした。少女はそんな少年の様子をじっと見て、言いました。
「……『死の淵の鏡』なら、私も見たことがあるの」
 少年は驚きました。少女はうっすらと微笑んでいましたが、冗談を言っているようにも、慰めを言っているようにも、彼には見えませんでした。
「私の場合は、自分から鏡に近付いていったの。そうよ、だって私、死にたかったんだもの。だから私、鏡に連れて行ってくれるよう願ったわ。だけど、なかなか鏡は来てくれなかった。だから私は自分で鏡を作ったのよ。手首を切って、赤い水溜まりを。鏡には、ちゃんと私が映ってたわ」
 少年は、少女の赤い服に、まるで今はじめて気が付いたかのように目が行きました。それは、血のような赤でした。それは、あの鏡のような赤でした。そして彼女の顔は、今や着ているその服よりも真っ赤に見えました。焚き火の赤などではなく、もっと暗く、もっとねっとりとした、そういう赤さでした。
 彼にはもう、少女の正体も目的もわかり、ぞっとしました。彼女は、彼を迎えに来たのです。少年の見ている前で、少女の姿が変化しました。赤い色が渦を作り、楕円形を作り出しました。そのままだと彼は飲み込まれてしまうことでしょう。そうしたら、彼はどうなるのでしょうか? 少女と同じように、仲間を求めてさまようことになるのかもしれません。永遠に鏡の中に閉じ込められてしまうのかもしれません。
 彼もそのことは考えました。しかし、それより何より、彼にとって死の方が問題でした。彼は死ぬことが怖かったのです。そして、即座にどうすればいいかわかりました。うさぎの肉を食べればいいのです。
 生きたい、ということを、示せばいいのです。
 彼がうさぎを食べた時、鏡の姿は消えてなくなりました。
 強く生きることを身につけた彼の前に、『死の淵の鏡』はもう二度と現れませんでした。





(おわり)
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