メリーと子羊の先生。
イッシーこと石川先生は、授業の始まる前に来て、呼びつけもせず、他の生徒に頼みもせず、わざわざ横島の席までノートを返しに来た。ちょうどそこで話し込んでいたアガリを見て、それから横島をじっくりと見て、なんだか安心したような笑みを浮かべていた。
「ええと……みんな……ちょっと聞いてくれるかな」
とうにチャイムが鳴って授業が始まっているというのに、教師が教壇に立っているというのに、ざわめきがおさまらない。それが現代国語の授業で、担当が石川先生だからだ。
決して学級崩壊などではない。たんなる日常だった。
一クラス全員が席に着いてはいるものの、近くの友人としゃべる者、ふざけ合う者、携帯電話を気にする者、漫画や小説を読む者、他の授業の宿題をする者、それぞれだ。
遠慮がちの小さな声が教壇から発せられたが、そんなことで教室中が静まるわけがない。
一部の生徒は教師に注意を向けたものの。
だが、次の一言が及ぼす効果は違った。
入ってきたときから妙にぎくしゃくとして緊張した様子だった石川は、授業が始まってもおさまらない騒ぎにかまわず一言発し、そして、さらにそれでも静まらない教室に一石を投じた。
「あのぅ……あのね、今度のテストの前に、一回、今日、小テストをしようと思います!」
とたん、一瞬教室が静まりかえり、次には『ええーっ』という嘆きや不満や疑問の声が生徒の口から出る。聞き逃した者もなんだなんだと騒ぎ出す。それがわっと広がり、そして結局石川先生以外、生徒の誰もが知らない詳細に、やがて誰もの口が閉じられる。注目は初めて石川先生に集まった。
いまだかつてなかった教室中の生徒の凝視。
おろおろを通り越して、何やらびくびくした石川が、おそるおそる口を開く。
「あ……前回のテストが、みんな、とてもよくできていて……今までのももちろん……それであの、今のままじゃ成績がちょっとつけにくくて。もちろん、みんなが頑張ってくれた結果なんだけど……ちょっと困ってるんだ。それで一度、ちょっとした、あの、本当にちょっとした、小テストを受けてもらって、それで成績を決めたいな、と思って……。あの、大丈夫、簡単なテストだから。今までの授業の内容がわかっていればできる、小テストだから!」
「でも、成績決まるんでしょー? それで」
いい質問も悪い質問も平気でよくする、クラスの中心的な人物である元気な生徒の質問に、再び教室がざわざわとし出す。
「急にひどいじゃないですか。前のテスト頑張ったの何のためですかーっ?」
石川の顔が困惑に歪む。
「ええと……そうだよね。本当に申し訳ないんだけど……でも、します!」
常にない、きっぱりとした口調だった。それは実に教師らしく、毅然としたもので、生徒を少しの間だけ黙らせた。だが、そのせいか、そうした本人が余計におろおろし出す。
「しなくちゃ、どうしようもなくて……」
「そんなの先生のせいじゃーん。なんで俺たちがワリくわなきゃなんねぇわけー?」
次に出た、その通りといえばその通りの言葉は、アガリが聞き慣れた声だと思った通り、友人の須田のものだった。
「ええと……その……それについては、本当に悪いと思っています。先生のミスです。すみません。でも、本当にみんなよくできていて、それで成績が決められなくて……小テストを実施します。お願いします。協力してください」
ずいぶんと低姿勢だ……とアガリは思った。いや、いつもに比べれば、勇気が見られるというか、断固としているとまではいかないものの、決意を感じさせる、厳しい態度。それに近い。
どうせそこまでするならもっと……と、思う。教師なんだから、命令すればいいのだ。こちらは生徒なのだから。先生が生徒を引っ張れなくてどうする。
しかし、石川先生らしくないことは確かだ。
そういえば……とふと思い出す。
職員室を訪れた際、石川先生が読んでいた本……さりげなく隠されたがちらっと見てしまった……そのタイトルは、『教師という職業について』とかなんとか、だった。
そういう本に影響されて生徒を操ろうというのなら不愉快だ。とはいえ……アガリは感動に近いものを感じていた。あの『石川先生』が、生徒に嫌われることを承知で……反発を受けることをわかっていながら、そこまでの覚悟を決めて。
あの職員室での質問も、きっとこのためだったに違いない。
ということは、自分も少しは役に立ったのだろうか。この、悩める教師の役に。
そんなことをぼんやりと考える、その耳に、文句を言う声が飛び込んでくる。
「なんだよ、チョーサイテーッ。っつーかムカつくーっ。ざけんじゃねぇよ」
その声の主は、石川先生大好きという、須田のものだった。
そう、『好き』だと言っていたのに。
(ああ……なんだ、この程度なのか……)
須田の教師に対する『好き』は、やはりたんに都合のよさだったのだ。
信頼も何もない。
あんなことで、簡単に、あんなことを言う。
そこで、はたして、石川先生のほうは須田が好きだろうか。
というより、生徒を信頼しているのだろうか。どうなんだろうか。
好かれたくはあるのだろうと思う。いい教師になりたいのだろうとは思う。だから、あんな本を読んでいたのだろうし。だが……。
いい教師とは、生徒の信頼を得ているものだろうと思う。
今回のことで、今までの気持ちはわかった。だが、あの態度では……。自分のことで手一杯の、あの様子では。
生徒のことを考える余裕のなさそうなあの様子では。
(少なくとも名前も覚えられていない俺は……)
アガリはふと微苦笑する。考えるまでもない。今では、自分は石川先生が『嫌い』なのだ。嫌いになったし、信頼なんかしていない。できるはずもない。当たり前だ。でも、これからは、少なくとも……ただのたんなる『教師』ではない。
自分にとって、ひとりの人間だ。
石川、という、ひとりの人間。
憂い、戸惑い、間違い、悩む、同じ迷える子羊だ。
普通の人間だ。
+++++
授業が終わり……小テストは問題なく無事に終わった、アガリはよくできたほうだと思う……周囲の喜びの声やら嘆きの声やらを聞きながら、友人の横島の席に向かう。悪い成績仲間と多少大袈裟に騒いでいる須田をさりげなく避けながら。
(まったく……まだ先生がいるってのに……)
横目で見てため息を吐く。まったく礼儀がなっていない。少しの間くらい静かにしていられないのか。
教壇では、石川先生が申し訳なさそうにうつむいて、集めたテスト用紙をとんとんと叩いて揃えている。
たどりついた席では、横島が困ったような顔をして笑っていた。
「ウエくーん。ノートに花丸が書いてあるー」
教壇に近い席だ。横島はささやき声で言った。アガリはどれどれと覗き込む。まあ、確かに、宿題のところに花丸らしきものがある。
あの本は、そんなことをすすめたのか。あれは本当に高校の教師用の本だったのだろうか。
横島がため息を吐く。
体育のレポートさえ『自分の作品』といって写させたがらない横島だ。自分の自慢のノートに花丸を描かれたのでは、沈みもするだろう。
「ほら……あれだ。何かの指定だと思えば……」
横島用の慰めを急いで考える。
漫画の原稿に、ときどきマルやらバツやらで指定が書いてある。背景とか、トーンとか、ベタとか。
「気合い入れてモブでも描けっていうのー?」
「さあな……」
問いに首をひねり、アガリはちょっとの間、教科書に出てきた小説の主人公の周りを取り囲む群衆をイメージした。もちろん、主人公は問いと答えの文章なわけで。その周りを踊る人々……。
「せめて青ペンでお願いします」
横島がきっぱりと言う。不機嫌そうに。しかし、たぶん、そんなご褒美をもらったのは、横島ひとりなのだ。
(ありがたいと思わなければもったいない)
なんだかムズムズしてくる。口元に笑みが浮かぶ。
横島の努力を認めてくれたのだ、先生は。
ふと、視線を感じて顔を上げた。教壇からこちらを見ている石川先生と目が合う。
「四ノ原くんと横島くんは、本当に仲が良いんだね……よかった」
「は……」
微笑んで言われた言葉に、驚いてぽかんとして石川を見つめる。
(はい?)
聞き間違いだろうか。いや。疑問をすぐに打ち消す。側で横島も変な顔をしていた。
(どういう意味だ? ……)
横島とは仲が良い。その通りだ。しかし、何故それを言われるのかが……。
ぎこちなくふたりのほうに歩み寄ってくると、石川は照れたように笑いながら言った。
「横島くん、宿題よくできてたよ」
「ありがとうございます」
横島が頭を下げる。椅子から立って、可愛らしくペコリとお辞儀をする。
そういうことをするのだ、横島は。
そんなことはしなくていいと、石川は『ああ、いや……』と小さく手を振って、横島と四ノ原を交互に見て言う。
「横島くん、背が低いからいじめられてやしないかって気になっていたんだけど……四ノ原くんがいるなら大丈夫だね」
ホッと胸を撫で下ろす。その様子に、ますますアガリは呆然とした。
(いや、その通りなんだが……)
なんだが、なんだか違う。なにかが違う。自分の感じるものが。
「……じゃあ」
間が空いた。それを気まずく思ったのか、石川がなんとも吐かない微妙な表情を浮かべ、軽く頭を下げて去っていった。そこでようやくアガリは気付いた。
(今、四ノ原って言った……)
石川先生が、名前を覚えていた。自分を、シノハラだと。
(覚えてくれた……)
関係を決めつけるのは、まだ早いのかもしれない。
少なくとも……。
「なんだ。僕のこと、心配してくれてたんだねー」
座り直した横島の、のんびりとした声が聞こえる。
「あの先生、結構好きかもー」
そうだ。そういうものなのだ。
(おわり)