あなたのミカタ。
ただひとり……祖父だけが。
祖父はアガリのそういった言動を気にして、近所の道場に通わせて有り余るパワーを発散させるようにして、そしてひとりの人間としてアガリと正面から向き合い、教え、導いてくれた。アガリが落ち着きを持ち、普通の学校生活をおくることができるようにと。
祖父は『おまえは人より理解が遅い、成長が遅いから、人よりずっと努力して、学ばなけりゃならねぇよ。そのことに集中して、あんまり他人と関わんな』と、そう言っていた。自分自身を持てるようになるまでは、責任を持てるようになるまでは……そういう話だった。死んだ祖父が教えてくれたことは、今の自分の役に立っていると思う。その教えが、間違ってる、正しい、それを越えて。自分には合っている。きちんとアガリのことをよく見てしてくれたアドバイスだったからだろう。『人とぶつかり合うときは、いのししのようにするもんじゃねえ。人として互いに礼儀を持ってするもんだ』、相手も人間だと、そう言っていた。そんな祖父だったからこそ、一代にして会社を気付き上げたのだと思う。
祖父はすごい人間だった。
だから、それからのアガリは、祖父の言いつけを守り、他人と積極的に関わることを避けてきた。確かに、自分は人の何倍も勉強しなければついていけない。将来、会社を継ぐために、いい大学に入らなければならない。そう言われている。そのためには、いい成績をとらなければならない。とれるようにならなければ。そのためにも勉強する時間が必要だった。だが、その時間が……どの教科にしても、アガリは理解することに人よりもずっと時間がかかった。
そして、同様に、人の心にも……自分の心も。
鈍いとしかいいようのない自分は、たたとえそのつもりがなくとも、もともと人々の間に溶け込みにくかった。それからは、なおさらできる限り人と関わらないようにした。勉強に専念した。
そうして自然と級友たちと距離を置くようにしていたが……横島だけは別だった。中学に入り、出会った横島はいじめられていて、たまたま助けることになったことから、ずっとアガリと一緒にいる。『友達がいない同士、友達になろう』と言われ、それが理由ではないが、いつのまにか近くに横島がいることが当たり前のようになっている。礼儀を持って接しているわけじゃない、もうじゅうぶんに他人を傷つけずにすむ自分になれたというわけでも、ましてや理解力があがったとかそういうわけじゃない。正直、祖父の言っていたことは何一つ改善されていない。そのままだ。
だが……どうしても、言われた通りにではできない。できないことがある。
どうしても、そうしたかったのだ。その必要があると感じた。それゆえの行動だった。どうしても、怒りを抑えられなかったのだ。
そして、この結果だ。
あれだけ言われていたのに、自分はまた失敗した。また嫌われることをしてしまった。また……人を傷つけたのだ。
不安に揺れる大きな瞳を思い出す。
カチャン……とスプーンが皿に当たる。なにやらすごく重たく感じられ、持っていることが苦痛だった。口も重たくて、開ける気になれなかった。
言われたことを、知っていることを、どうして自分は守れないんだろう。あれは、祖父は、自分のことを考えて言ってくれた、遺言のようなものだったのに。それさえも自分は守れない。そんな自分が許せない。腹立たしい。
友人を傷つけてしまった、そのことがとても……苦い気持ちにさせる。とりかえしのつかないことをしてしまった。自分が情けない。
唇を噛みしめる。
「……横島くんに聞いてごらん?」
うつむいていた顔をあげると、指を組み合わせたそこにあごを乗せ、軽く小首を傾げてアガリを見つめていたユイイチが、わずかに苦い笑みを浮かべて言う。
「いや、オレは知らないけど……知らないからさ。本人に聞いてごらんよ。どう思ったかどうか、なんてさ。オレのはちょっとお節介だし……」
余計なことだなんて、とつぶやく。
「オレだったら、とりあえずありがたいけどね。感謝すると思うよ。まあ、オレだったら、だけど。余計なこと言ったのはオレのほうかな」
「そんな……兄貴は別に」
アガリはまごついて視線をさまよわせる。
余計だなんて、そんなはずがない。もともと尋ねたのは自分なのだから。
ユイイチは、笑みを困惑げなものに変えて、首をさらにぐいっと傾けた。
「……今日は、横島くんと一緒に帰んなかった?」
突然の問いに、アガリは一瞬ぽかんとして、それから訝しく思いつつ、答えた。
「いいや……今日もふたりで帰った」
(つづく)