神様のガラス。
「あのなぁ、キワム。月のない夜でも平気だから」
ガラッ……
続きを言いかけたアガリは、家の奥から聞こえた音に口を閉じる。視線を向けると、その『ロマンチスト』な兄『ユイイチ』が、ちょうど部屋から出てきたところだった。
ユイイチは顔を上げると、廊下にいるふたりを見つけて、とことこと近づいてきた。
アガリの格好を見て、少し不思議そうに首を傾げる。
「なんだよ、どっか行くのか、ガリ」
ユイイチはアガリのことを『ガリ』と呼ぶ。
「ああ、ちょっとな」
アガリは、会社に入ってからは増えたものの、仕事や運動以外……要するに遊び ……では滅多に外に出ない。ユイイチに誘われない限りは。まあ、『増えた』があまり歓迎すべき理由ではないのだが。
それをよくわかっているユイイチは、『ふうん』とあいまいに返し、今度はその目を小さな末の弟に向けた。
「キワムは何してんの?」
ほとんどアガリと抱き合うようにしていたキワムが、一生懸命体をねじってユイイチを振り向き、これまた一生懸命言う。
「お外出ちゃだめだよね。いけないんだよね。お月さま出てないもんっ。ねっ、ゆっち!」
アガリの『平気だ』の言葉と、駄目だと言ったはずのユイイチがあまりにもあっさり許したらしいことに、焦っているのだろう。キワムは必死だった。
(ほら、みろ……)
アガリは胸に広がる苦いものに顔をしかめる。
(どうすんだよ、兄貴……)
ちらっと視線に非難をこめて見る。
そんなアガリの視線に気づいているのかいないのか、ユイイチはにこぉっと笑った。男のくせに『花がほころぶような』きれいな笑みだった。
「うん、キワムはだーめ。まだ未熟だからだーめ。キワムは聖拳ゴッドハンマー使えないだろう?」
アガリはうんざりと目を細める。
(おい……)
『聖拳ゴッドハンマー』とは、ユイイチの必殺技だ。ときおりアガリも真似して繰り出すが、あの武術のまったくできない者が必死になって振り下ろす加減のない拳は真似しきれない。
キワムはムッとして言った。
「使えるよ!」
そりゃそうだ。殴るだけだし。
だが、ユイイチはチッチッと指を振った。
「だめだめ。本物はもっと強いんだ」
「……」
シンとしているキワムに、ユイイチは絵本を読み聞かせるように言う。
「僕たちはみぃーんな神様から聖なる力をもらって生まれてきているんだけど、まだ体が小さかったり、悪い心を持ってたりしたら、その力がちゃんと使えないんだよ。だけどガリはもう大きくて正しい心でちゃんと使えるから、ひとりで夜に外に出てもいいんだよ。悪いやつが出てきても戦えるからね。大丈夫だよ」
くるりと振り向いたキワムが、目を丸くしてアガリを見る。
「お兄ちゃん、悪いやつと戦うのー?」
(おいおい……)
話がどんどん怪しいほうへいっている。
この弟は、外見はどちらかというとアガリに似ているが、無邪気なところはユイイチに似ている。まあ、ユイイチの無邪気さは、計算し尽くされたもので、もう『無邪気』ではないのだが。
アガリはすーっと目を逸らした。
「あ……ま……あ、出てきたらな」
ユイイチが口をとがらせる。
「戦うだろ。チカンとか」
「される覚えがねぇよ」
男だし。まあ、ありえないとは言えないが。都会の夜は予想もつかない危険でいっぱいだし。その類の『悪いやつ』が向かってきたら戦うつもりはあるが。
「カイジューはー?」
たぶん微妙に出てくる敵を勘違いされている。アガリは真剣なまなざしであろうキワムの目を見れないままに、仏頂面でぼそりと言った。
「誘拐犯とかはギッタギタ」
その内心は、こうである。
(可愛い弟に手を出そうなんてやつがいたら……!)
殴ったり蹴ったり踏んづけたり。想像だけで存在しない犯人に対してものすごい怒りがわき出て、脳内が血みどろの大惨事になっている。
なんだかユイイチがあきれた目で見ている。
「おまえその年で……」
「俺のことじゃねぇ」
それだってありえないことではないところが恐ろしいが……金持ちの息子だし ……しかし、それならアガリよりはキワムだろう。狙われるなら。
(そうだ、こんな小さい子を夜に外に出しちゃだめだ)
キワムの体を離して、やさしく、しかししっかりと押し出すと、後ろからユイイチがキワムの体をつかまえる。振り向くキワムに、にっこりと微笑みかける。
(つづく)