あなたのミカタ。
アガリはぱかっと目を開け、しばらくぼんやりと天井を眺めていたが、2・3度まばたきをするとまた閉じた。そしてごろりと体を横に転がらせる。
ベッドの上で埋もれていた冷たく柔らかい布団に身を押しつけ、ぎゅっと目を閉じる。
(……最悪だ……)
その上で拳で目を覆う。
(なんで今さらこんな……)
大きく息を吸い込んで吐き出す。夢が去らない。それはただの夢ではなく、記憶の底に埋まっていた、過去だからだ。
別に、いじめをとめたからといって、何をされたというわけでもない。ある意味では幸いなことに、こどもの頃から体が大きかったので、女の子をからかうだけの情けない連中は……三人もいるとはいえ…… 暴力で向かってくることはなかった。ただ、『ヤクザ』だとか、『エッチ』だとか、そういうくだらないことを言われただけだ。
それよりも、助けに入ったときの女の子の顔が、逃げ去るときの後ろ姿が。
閉じたまぶたに浮かぶものが嫌で目を開く。だが、女の子の怯えた表情が、逃げる後ろ姿が、今もすぐ目の前にあるような気さえする。
標的が自分に移り、その主張の正しさを認めてもらおうとして、『こいつも迷惑している』とか、『おまえもそう思うだろ』とか、何かそういうことを言おうとして彼女に視線を投げた。すると、ふせていた顔を上げてこちらを見つめていた女の子は、目を見開いて真っ青な顔を凍りつかせていて。目が合うと、その目で懇願したのだ。自分の名は出さないでくれ、と。せっかく逸れた注意が自分に向けられるのを恐れたのだ。そして次の瞬間、女の子はくるりと背を向けて、反対側の扉から教室を出ていった。男子たちに気付かれないように、そっと。アガリに一言もなく。
そして、自分は、ひとり。
(いったい……なんだったんだか……)
正しいと思っていたことが他人とはすべて違ったとき、どうしたらいいのだろう。
考えているうちにまぶたが下りてくる。やたらとまぶたが重いのは、少し濡れたせいかもしれない。アガリは再び体を動かして天井と向き合った。
深いため息を吐いて、目を閉じれば、今日の出来事がよみがえる。
耳に残っていた声。
『キッツー』
冗談で言ったのかもしれない。そう思わせるふざけた口調だった。そう思わせたいのだとわかった。
友人の須田が苦笑して言った。
『そんなさァ、言わなくたっていいじゃん。ふざけてるだけだってー』
高校の教室内で、からかいと非難の間くらいの強さでドンとひじで背中を打たれて、アガリは口ごもって言った。
「だ……だけど、眼鏡がないと見えないんだぞ」
何を言われているのかわからない。それくらい、言われた言葉が自分から遠かった。
須田の苦笑が大きくなる。
「やー、別にずーっと見えないわけじゃないし?」
チャイムが鳴ったので、それまでいた横島の席の前から、後ろのほうにある自分たちの席に戻ろうと向かっているところだった。
「いっくらなんでも授業までには返すってー。それに予備あるって前にカナメちゃんだって言ってたじゃん。シノハラ、おおげさなんだって」
事の始まりは、須田と話していたクラスメイトの宗が、同じくアガリの友人である横島が大きな目に大きな眼鏡をかけていることから小学生の頃に『出目金』というあだ名があったことを知り、そのくせ泳げないということをからかおうとして、友人の柳川と一緒になって横島の眼鏡を取って…… それは最初は「貸して」と言われた横島が「いいよ」と貸したのだが…… それで遊び出し、横島に「返して」と言われても返さないでいたので、見るに見かねたアガリが口を挟み、最終的に宗と軽い口喧嘩をして。結果はチャイムが鳴ったら宗と柳川は眼鏡を横島の机に置いて去ったのだが。
しかし、目が悪いとか背が低いとか、そういう遺伝の可能性が高い問題は…… 横島の家族は全員目が悪い……からかうようなものではないし、運動が苦手というのも同じで、努力の問題というならば横島は泳げるようになるためにスイミングスクールにも通ったが泳げるようにならなかったし、そういうこともあるのだから、からかうものではない。そして、目がよく見えないから眼鏡をかけているのに、それを取り上げて返さないのは、『ふざけただけです』では決してすまされないことだ。そう、アガリは思う。
だから。
『俺が貸せって言ったら目を貸すのか? 貸せるのか? 返さなくていいのか?』
そうクラスメイトたちに詰め寄ったのだ。
そのことを『キツイ』と言った須田は、席に着くために離れる間際にこう言った。
「あんなんで俺らまで悪く思われんの損だぜー?」
それまでの冗談めいた調子を消したその声は、困惑げで、そして迷惑そうでもあった。
(つづく)