あなたのミカタ。
突然、抱えられてそこに下ろされたように、自分が廊下に立っていることに気付き、アガリは辺りを見回した。
つやつやとした木の床、汚れのない透き通ったガラス、まぶしいほど白い壁、あちらこちらに貼られた紙。自分が立っているすぐ横の壁に貼られた紙の一枚に目を留める。
『ろうかを走ってはいけません』
大きな太字で書かれた言葉。目を上げれば、紙でできた花に囲まれた『1年3組』と書かれたプレート。
木や、ワックスや、いろんなものと……微かに牛乳のにおい。
自分の横を駆け抜ける小さな男の子たち。髪をさらりと揺らして通り過ぎる小さな女の子たち。その背中には黒や赤のランドセルがある。
小学校の廊下だ。
アガリは黒いランドセルを背負っていることに気付く。
そうだ、自分は小学生だ。小学校1年生だ。
教室の中から、こどもの泣き声が聞こえる。女の子だ。
アガリは自然と一番近い扉から教室に入った。
学校が終わり、ほとんどの生徒の帰った教室のほぼ真ん中で、ひとりの女の子が泣いている。両手で顔を覆っているが、泣き声が漏れている。髪に覆われた肩が震えている。三人の男子がそれを取り囲んでいるが、すきまからそれが見えた。
クラスメイトは『汚い』などと言いながらその女の子を小突いている。女の子の手提げ袋は濡れていて、それはただ昼食のときに牛乳をこぼしてしまっただけなのだ。
とても内気で、ゆっくりとしていて、失敗も多かったその子は、よく泣かされていた。
その女の子がいじめられていたのは、確か……最初は名前のことだったと思う。入学してすぐ、クラスで自己紹介をしたとき、『志津子』という名のその女の子は、顔を赤くしてうつむき、もじもじとして、はっきりと自分の名前を言うことができず。ようやく『し』と『こ』だけを言えたその子は、男子のからかいの的になったのだ。
だから。
自分も名前が変だとからかわれた覚えのあるアガリは、先生のところに取りに行ってもらってきた休んだ分のプリントを自分の机に置いて、ずかずかとそこに入って行ったのだ。
「やめろよ」
クラスメイトの後ろに立ち、きっぱりと言った。
「帰らなくちゃいけないんだぞ」
それは正しいという自信が小学生のアガリにはあった。
学校が終わったら早く帰りなさいと先生も言っていて、それは当然のことで、女の子が帰る邪魔をしていることはよくないことだ。もちろんその類のからかいも最低だ。
だが、振り向いたクラスメイトたちは、唇をとがらせて返したのだ。
「なんだよ、えらそうに」
そして標的はアガリに移り、女の子は、そのすきに逃げ出したのだ。
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(つづく)