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メリーと子羊の先生。




(まったく……)
 時々、本当に時々、弱く見える兄が自分よりずっと強く見えてしまう。何をしたって勝てそうにないほどに。頼りない姿は嫌というほど見てるのに。
 悔しい。それより、自分がもどかしい。もっと強くなりたい、大きくなりたいのに。
 そんなアガリの気持ちをまったく知らぬげに、ユイイチはのんびりと言った。
「そりゃ、休む場所がないと辛いけど……愚痴くらいなら聞いてやろう、兄として」
 どうしていいかわからずに、ずずっとコーヒーをすすることでごまかしているアガリの背中を、ユイイチが遠慮なくバンバンと叩く。アガリは『ぶっ』と口に含んだばかりのコーヒーをふいた。
「何するんだ!」
「ああ、悪い。ごめん」
 悪びれず、大きく苦笑しているユイイチに、アガリは乱暴にカップをぐいっと傾けて見せた。
「なくなった」
「おかわりいる?」
「いや、いい」
 さっと目を上げて壁の時計を見る。もう帰らなければいけない時間だ。
「水だけ頼む」
 むせたときの喉の不快感に……口中に濃い苦みが広がって、鼻までなんだかツンとする……それを消してくれるものを望む。
 『はいはい』と笑って、ユイイチは立ち上がりながら、さっと目で時計を確認する。そして言った。
「あー、うん。帰るんだもんな、おまえ」
 あっさりとしたその言葉に、急にくっと胸の痛くなる寂しさを感じ、アガリは泊まると言いたくなったが、口に出したのは違う言葉だった。
「ああ、明日も学校あるんだ」
「大変だね、学生さんは!」
 突き放すようなその言い方は、おそらく兄も明日に何か予定があるのだろう、泊まられては困るのだ……そう思わせた。仕事ではないにしろ、たとえば友人と遊ぶとか。同じ店で働く者とか。
「兄貴だって、本来なら学生じゃないか」
「やめちゃったもんなー」
 残念そうに言って、水の入ったコップを手に戻ってくる。その水でコーヒーのしみた喉を潤しながら、アガリは先ほどのユイイチの言葉を考える。
 同い年で自分くらい大きくて、正義感があって、親分肌で、強い……誰か。その誰かを『ライバル』に戦う。
 それは、そういう志を持て、ということだろう。
 切磋琢磨するというのは、もともとすごくなじみのある考えだ。幼い頃から、父親もそういうようなことを言っていた。高みを目指せというやつだ。非常にわかりやすい。わかりやすい目標があれば……お互いに……しかし。
 強いと言ってくれたことは嬉しい。つまらないことを気にするなということもわかる。だが、とアガリは首をひねる。
 もし、その相手がいたとしても、何を目指せばいいのか。
 自分はまだ学生で、それは父親の跡を継ぎたいとは思っているし、それを目指して努力もしているが、たとえば兄の言うような相手が見つかったとしても、目標まで同じということはなかなかないのではないだろうか。いったい何で争えばいいのか。何を目標にするのか。何が結果になるのか。
 横島なら自分より成績がいいので、そこを競うことはできる。というか、実際に『今度こそは』と思っている。だが、もしいなくても、いい成績を自分が目指すことに変わりはないのだし。それは明確にそういう相手が側にいたほうがやる気は出るが。須田なら、運動ができるので、そういう点で競うことができる。しかし、これもまた同じだ。そういう、『誰それとはこれを競っている』という、小さなことはある。だが、しかし。
 先に決まってしまっているその条件の、その相手とは。
 『ライバル』というからには、何か『こいつに勝ちたい』と思うようなものがあるのだろうと思うが、それが無ければどう探していいのやら。たとえば自分にサッカーなりなんなり熱中しているものがあって、その部活などの枠の中で自分と同じレベルで競っている相手がいて、相手より先に上に行こうと互いに目指す、尊敬できる相手、そういったものが『ライバル』ではないのか。
 逆に、そうでないとライバルとは言えないのではないか。
 ……しかし、アガリの努力は基本的に個人的なことであって、部活動にも入っていなければ、熱中していると言えることもあまりない。
 兄にとっては、同じ店で働く者がライバルなんだろう。
 しかし、自分にとっては……?
 アガリは悩みの末の重いため息を吐き、頬杖をついて、むすっとして言った。
「ライバルって何のライバルだ」
 ユイイチのほうを見ると、その手に携帯電話を持ち、せっせと文字を打っていたが、アガリの問いはしっかり耳に入っていたらしく、振り向くとにっこり微笑んで言った。
「いればわかるよ」
「それでどうやって見つければいいんだ……」
 ますます大きなため息を吐きたくなってしまう。
 『いればわかる』……いればわかる状況がないというのに。たとえば同じ社長の椅子を狙うような相手がいればいいのか。とはいえ、ほとんど重要なポストに身内がいるような、ある意味『小さな』会社で。だとしたら最大の敵は兄になってしまう。
 そうだ兄貴はどうだろうと、アガリは横目でそっと隣に座る兄を窺い見る。
 正面に向き直っていたユイイチは、軽く目を閉じ、唇に指をあて、『んー』とうなった。そして、目を開くと向かいに誰かいるように軽くにらみ上げ、その難しそうな真面目な顔つきのまま、ゆっくりと言った。
「そうだな……『相棒』って言葉があるけど、棒を持つおまえと同じ側でおまえを支えるのが家族や恋人で、反対側を持つのが友人で、まったく持とうとしないのがライバルだ」
 言い終えると、満足げにふふっと小さく笑う。そしてうつむき、携帯電話をまた打ち出した。
 アガリは、兄の言葉を理解しようと、言われたことを何度も頭の中で繰り返す。
 ユイイチがふと顔を上げ、アガリを振り向き、じっと見つめて言った。
「……だけど、ライバルも同じように何かを背負っているんだよ。それを忘れるな」
 メールを送り終えたのか、パチンッと携帯電話をたたみ、それをカシャンと音を立ててテーブルに置く。ジャラッと積み重なったストラップが崩れる。銀色のチェーンの先にガイコツがついたもの。シンプルな革のもの。その他、いろいろ。
「……で、オレは」
 言いかけて、ユイイチはふっと眉根を寄せ、悲しげな顔を作って続けた。
「家族だから、おまえと棒を持つ側が一緒なんだよ。間違っていたら共倒れだ。だからオレは……」
 申し訳なさそうに、こらえるように、そしてそのためにつらそうに、口元には苦い笑みを浮かべて言う。
「そういうものだから、違うんだよ……」
 よいしょっと年寄りくさく……それはわざとらしくおどけてのものだったが……言いながら、手をのばして携帯電話を取ろうとする。その手を止めて、再び動かし、今度は端にあった布巾でテーブルをふき始めた。
 どうやらアガリが咲きほどふき出したコーヒーが少しとんでしまっていたらしい。
「……」
 『すまない』という言葉を出すことも忘れ、ぼんやりとそのしぐさを目で追いながら、考える。
 『そういうものだから』何が『違う』のか。
 考えこむアガリをよそに、さっさとテーブルをふくと、携帯電話もぬぐって、ぱっと立ち上がる。
「ほら、帰るんだろ?」
 ぱっと勢いよく振り向いて訊かれ、反射的にうなずいた。
「ああ……」
 帰らなければならない。何の疑問を抱えていても。それは確かだ。
 どうあれ、なんであれ、明日学校に行く気があるのだから。そう決めているのだから。
 アガリのジャンパーを取りに行く兄に続いてアガリは腰を上げた。



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(つづく)
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