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神様のガラス。





 耳にはにぎやかな酒場の騒ぎが響いている。
『……じゃあな。待っててやるから来いよ』
 その声を最後に、それはぶつんととぎれた。
 アガリは苦いため息を吐きながら携帯電話を切る。
 この友人は、いくつになっても変わらない。高校のときからの付き合いだが、いまだに学生のようで、平日に飲み屋から電話をしてきて、『ちょっと来い』などと言う。
 アガリは携帯電話をひっくり返し、時間を見る。9時20分。今から家を出て、向こうに着くのがだいたい10時。11時には閉店の店だから、今から行っても1時間しか飲めない。翌日仕事だから、飲むといってもほんの少しのつもりなので、ちょうどいいといえばちょうどいいのだが。
 電話から判断すると、誰かがタクシーくらいはつかまえて乗せてやらねばなるまい。誰と一緒なのかはわからないが、わざわざアガリに電話してくるくらいだ。
(平日はよせと言ったのに……)
 アガリは少し腹を立てる。酒はそれほど強くないが、にぎやかな雰囲気は好きなので、飛び込めるならわりと喜んで行くのだ。ただし、翌日が休みであれば。
 しかし、行かないわけにもいくまい。
(くそっ……)
 身を起こし、服をかき集めて着替え、ポケットに財布を入れて、急いで部屋を出る。
 玄関に向かう途中で、弟のキワムにぶつかりかけた。
「おっ……と、悪い」
 肩をつかんで押さえる。6歳の弟は、首を傾げて、不思議そうに尋ねた。
「お兄ちゃん、どっか行くの?」
「ん、ああ……」
 こんな小さい弟には夜に出かける人間が何をするのか不思議なのだろう。もちろん、弟は夜に出歩いたことなど数えるほど……除夜の鐘をつくとかそういう特別なこと ……しかない。
 アガリはキワムの頭にやさしく手を置いて言った。
「友達が手伝ってほしいことがあるっていうから、ちょっとな」
 言いながら、弟がこれを言い訳に夜に外出するようになったら困るな、と思う。
まあ、まだそんな年じゃないし。
「お母さんに鍵はしめていいって言っとけ。俺、鍵持ってるから」
 ぐりっと頭に置いた手を回して撫でて、離す。確認するために覗きこむと、キワムは不思議そうな顔から、心配そうな顔に変わっていた。
「だめだよ、お兄ちゃん。今日はお月さまがないもん」
 まるでお母さんがこどもに言い聞かせるように、たどたどしく、けれども真剣に言う。
「は? ああ、大丈夫だよ。街灯があるから」
 アガリは適当にそうあしらって玄関に向かおうと背を向けた。それを、服の裾をつかんでキワムが止めた。
「だめだよ! お月さまがない日は、神さま見てないもん。危ないからお外出ちゃだめ!」
「……は?」
 呆気に取られ、ぽかんと弟を見つめたアガリは、ハッとして眉を上げ、次にムッとして眉根を寄せる。
 どこかで聞いた話だ。だが、思い出せない。誰の口から聞いたんだっけか。いや、何かで読んだのか……?
 悩んだアガリは、キワムと向かい合い、かがんで目を合わせた。
 キワムの肩に手を置いて、同じくらい真剣に繰り返す。
「……月のない日は、神様が見てないのか」
 キワムはこっくりとうなずいた。
「そうだよ。ゆっちが言ってたもん」
 誇らしげにそう言う。その言葉を覚えていた自分と、それを教えてくれた『ゆっち』……大好きな一番上の兄『ユイイチ』……の自慢。
 アガリはがくっとうなだれる。
「兄貴……」
 そういえば、自分も兄から聞いたのだ、と思い出す。ふたりで空を見ていたときだ。アガリはもう14になっていて、その場でも『ロマンチストだ』とちょっとからかって、忘れてしまったが。
 それにしても、こんなこどもに何を教えているのか。
(でたらめ言いやがって……ガキが本気にしてんじゃねぇか)
 嘘だとわかったらどうなることやら。
 アガリはキワムの肩をつかんでいた手を腕に移動させて、軽く揺さぶってやさしく言った。





(つづく)
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