メリーと子羊の先生。
「不謹慎だね」
食後、暖房のきいた居間の三人がけソファーに、ひとり分を空けてふたりで座って、食事の残りの時間を脳内で話をまとめることに費やしたアガリが、ぽつんぽつんと今日の出来事を話す。それを聞き、出たユイイチの言葉がこれだった。
アガリは当然その続きがあるものと思って待つ。だが、ユイイチは何も言わず、ただ黙って薬をぽりぽりとかじる。つけっ放しのテレビを眺めて。
適当につけたテレビでは音楽番組がやっていた。沈黙を流れる曲が埋める。アガリの知らない曲で…… この手の音楽にはうといので人気のある歌手なのかもしれないが…… 話しの邪魔にならない、ゆっくりとした、気持ちを落ち着けるような歌だった。自分の気持ちにも合っていると思う。やさしくおだやかでいたいという今の気持ちに。それなのに、そうなれない。
正面を向いて、小首を傾げているユイイチが、テレビに集中しているように見える。
「……それだけか」
アガリは我慢できずにとうとう口を開いた。
『もっといろいろと言うことがあるだろう』と思う。不謹慎の一言で済まされるようなことでは決してないはずだ。教師が生徒の自殺について『よかった』と言うなんて。
だが、振り向いたユイイチは意外そうに目を見開いていて、アガリをじろじろと見る。
「それだけ」
無邪気といえるほどきょとんとした顔であっさりと言う。
アガリは目をぎゅっと閉じ、唇を噛み締め、胸に湧いた怒りを押さえ込み…… また兄がちっとも興味なさそうなのが頭に来る…… ひたすら『冷静に』を心がけて、低く問う。
「兄貴……俺の話、ちゃんと聞いてたか……?」
もうテレビのほうに向き直っていたユイイチは、また薬を数粒噛み砕いて言った。
「いたともー。もちろんさー。ばっちりだー」
棒読み。
アガリの話にも熱を入れる様子を見せず、ではテレビに夢中なのかといえばそうでもない。たとえ集中して見ているのだとしても、ちっとも楽しそうではない。死んだような目をして眺めている。スナック菓子でも食べるようにサプリメント…… 『スマートドラッグ』という名を兄は好んで使うが、要するにビタミンだの鉄分だの……を次々と口に放り込んで噛み砕き、そうでもしないとため息でも吐きそうな顔をしている。
対してアガリは、目の前のテーブルに置かれた自分のコーヒーにも手をつけられないでいる。早く、ユイイチの意見を聞きたくて。
「……」
無言でしばらく考えると、突然何も言わずにバッと兄の膝にすべり込んだ。その膝に寝転んで仰向けになり、バシッと下から薬の容器を奪い取る。
「もうよせ!」
「あっ」
一瞬ぽかんとしたユイイチがみるみる眉を寄せ、悲しげな顔になる。ついには顔を手で覆って、しくしくと泣きまねをし出した。
「オレのカルシウムーッ。骨がーっ。歯がーっ」
『いい年して』とアガリは苦く思う。さすがにだまされない。だます気もないようだが。
それにしても、いったいどれだけ骨や歯を丈夫にするつもりなのか。
あきれ顔でユイイチを見上げる。
「そんなにいらないだろ」
「そりゃおまえにはいらないだろうよ、返せっ」
すきを狙ってバッとユイイチの手がのび、いまだ膝に寝転がるアガリの手から容器を取り戻そうとする。膝を確保したまま、アガリはごろりと転がって手を遠くにのばし、兄の手が届かないようにした。そして平然と尋ねる。
「兄貴はいるのか?」
「返せってば。別にそういうんじゃないけど……そうだな、あと2センチあればモデルになれるかなあ。だとしたら……うーん」
「170センチで?」
「いや、わかんないけど。違くて。それうまいんだよ、イチゴミルク味」
その『うまい』スマートドラッグやらをアガリはテーブルの上のなるべく離れたところに押しやって、ごろんと膝に仰向けになり、ユイイチを見上げる。
「兄貴、背ぇ低いもんな」
「低かねーよ、標準だよ! だからそうじゃなくって……」
不機嫌そうに言って言葉をとぎらせ、なんだか低くうなっていたユイイチが、のばしていた手を戻して、それをそっとアガリの額に置いた。そして顔を覗きこんでくる。
「おまえくらい身長あれば書類は出せると思うよ? もしかして通るかも……? でも、親父さんが許さないかな。あと無愛想すぎる」
「そもそもなりたいなんて思ってない」
面白そうに笑っている顔に仏頂面で返す。むしろなりたくない。ポーズをとって写真を撮られるのを待っているなんて、想像するだけでなんだか恥ずかしい。
テレビでは女性歌手が歌い終え、お辞儀をしている。スカートがゆらゆらと動いて、白い光の中で泳ぐ魚のよう。はにかんだ笑顔が可愛い。わりと好みだ、と思う。
ユイイチがつぶやく。
「冬はバラード多いよなぁ……」
こちらは歌に興味があったらしい。曲が終わり、CMに入ると、とたんににぎやかになって、ユイイチの手がさっとリモコンをつかむ。音がどんどん小さくなった。
カタンとテーブルにリモコンを戻すと、ユイイチはアガリを見下ろした。
「……で、ちゃんと聞いてたよ。友達の聞いたっていう先生の言葉が気になるんだろ。いじめが原因で自殺した生徒がいるって、先生がいじめが減ってよかったって言ってたって。……違ってる?」
「あってる……」
戸惑いを覚えながら認める。『ちゃんと聞いていたんだ』とちょっと驚きながら。
少し前、ユイイチに一部始終を話したとき、頭の隅に教室での横島と須田の会話 ……アガリもその場にいたが、ほんとんど話に加わらなかったので…… その一部がよみがえった。
話が終わって席を離れていく須田に、横島が言ったのだ。
『ちょっとー、マサ君、言いふらさないでよねーっ。みんなが知る必要なんてないんだから。騒げば問題になるじゃない、気をつけてよー』
『わーってる、わーってるって』
『ここだけの話だよー? 絶対に言わないでよ、僕、責任なんて取らないからねーっ』
『しねェよ。っつーか、わざわざ言うほどのことでもないじゃん、どうせ』
『でもねーっ』
ギャーギャー言っていた。
……『ここだけの話』。その言葉が、正直、気になったことはなった。自分は約束していないけれど……それを言ったら須田も約束まではしていない ……兄は学校の生徒ではないし、教師の知り合いでもないと思うし、構わないだろう。そう思ってすべてを話した。一応、名前は伏せたし、なんの教科を受け持っているかすら言わずにただ『教師』とだけ言ったのだが。 アガリはユイイチの顔を見上げて小声で尋ねた。
「なあ、ひどい……よな?」
「んー、うーん……」
うなるユイイチはひどく難しい顔をして言った。
「不謹慎」
「またそれか。何が言いたいんだ」
「そうだなあ」
ぴたりとアガリの額を撫でる手が止まる。ユイイチは何もない壁を見てもごもごと口を動かす。億劫そうに。「だからさ、教師が職員室で言うにはちょっとっていうか、まあ、うかつだなって……」
アガリはムッとする。
「職員室でなければ言ってもいいのか」
にらみつけると、ユイイチはばさりとかかった長めの前髪の向こう、ぎゅっと眉を寄せて言った。
「いや、おまえね、そうは言うけど……いや、わからないでもないけど…… 不謹慎だとしか言いようがないね。オレが言いたいのはだ……、つまり、いじめというやつは」
アガリはユイイチの口から出た言葉にぽかんとする。
自分が尋ねたのはそういう発言をする教師をどう思うかということだったのに。いじめについてなんてわざわざ聞くまでもない。いけないことに決まっているのだから。
抗議しようと思ったが、再び動き出した手が心地いいので口を閉じた。
まるでそっとほこりを払うように、冷たい手が額から後ろのほうへ下がっていく。その一点から全身に熱が広がっていくような、くすぐったい感じがする。氷が溶けるようにとがっていた心が丸くなるのがわかる。
「最初はちょっとつっついてみるだけなんだよな。こどもの社会にも上下があってだ、社長なのか平なのか、バイトなのか、ライバル会社の者なのか……。そこから役割が決まる。最初はまあ……」
頭上から降ってくる温かい低い声のささやきはまるで子守歌。内容はおだやかではないけれど。
「何か少しでも違うところのあるものはつつかれて、その反応によってもっとつつかれることになる。どう扱っていいかわからないんだ。太ってる、小さい、えー、男らしくない、女らしくない、片親だとか、いろいろ。そこからだんだんと……でも、いじめられることが役割だっていうんじゃないよ。社会でもバイトならいじめていいっていうわけじゃないだろ。けど、そういうことになる場合もある。まあ……嫌われるタイプとか、誰かにとって目障りだとか、本人の性格に問題のある場合もあるけど、でも要は……」
「……うん?」
眠くなり、もう半分目を閉じていたアガリは、ユイイチが言葉をとぎらせたのを不安に思って…… 膝から退かされてしまう……慌てて聞いていたことを示すために声を出す。
わかりきったことだったか、ふざけて軽くアガリをにらんだユイイチは、やさしい声で続けた。
「つまり、他の人と違うんだ。もめ事の後とかは別にしてね。それは特別ってことだ。良くも悪くも」
「ああ……目立つからだろ」
必要にかられてアガリは重たい口を開く。
『うーん』とうなった兄は、『ちょっと違うんだなぁ』とぶつぶつつぶやいてから続けた。
「どこのグループにも入れないようなものはそういう目に遭う。それは個性があって、常に誰かの地位を脅かすことになるからだ。下手をすると、リーダーに代わって群れの上に立つ可能性さえある。だから『おまえは下だろ』と常に頭を叩かれることになる。そういう場合もあるんだよな。けど」
ぺしんぺしんとアガリの額を叩く。ぎゅっと目をつぶったアガリの耳に、面白そうな声が降ってくる。
「世の中にはね、デコとボコの人がいてね、ボコは社会に入るとぴたりとそこに合わさるんだよ。その欠けた部分が埋まるようになってんの。『社会』ってひとかたまりのところにくっつく。でもデコの人はね、それができないんだよ…… 突き出てる部分があるから。でもボコの人は、デコの人がいないと、たとえば社会の歯車として働くしかできなくてつらいの。デコの人にボコな部分が埋められるんだよ。デコの人がいないと生きていけないの。逆に、デコの人ばかりじゃ社会はなってかない。型にはまらないから。そういうふうに、それぞれの生き方がある。そういうもんだ」
声がやむと、アガリはそっと手を持ち上げて、自分の額のほうを指差した。
「……デコの人?」
ユイイチの手がさっとあごに移り、そこをぐいとつかむ。
「うん、それはオデコ。それで比べるならアゴを持ち出すべきだ。 ……オデコの広い人とアゴの……駄目だな、対になってない。やっぱり凹凸じゃないと。よしわかった、世の中にはな、男の人と女の人がいて……」
「う」
とんでもないことを言い出しそうなのに気付き、アガリは慌ててユイイチの手首をつかむ。まず兄の動きから止めた。そして自分も相手も落ち着かせようとゆっくり話す。
「いや……わかる……わかる。言いたいことはわかるんだ。けど、それがどう……」
アガリを見下ろして、ユイイチはニヤニヤとした。
アガリは『やっぱり』と思う。ときに人がいたたまれなくなるような恥ずかしいことを言って、その反応を見て楽しむことがあるのだ、兄は。
アガリの目はそれを叱りつける。
ユイイチはすまし顔になり、手をのばしてテーブルの上のカップを取ると、わざとらしく上品に傾けてコーヒーを口に含んで、考えこむように首を傾けた。そしてゆっくりとまた口を開く。
「つまり……普通の人とそうじゃない人がいるってことだよ。どうしたってそうなんだ。もちろん、誰だって自分にとって自分は特別だけれど、そうじゃなくてね…… どうしても『違う』人がいるんだ。でも、普通の人もいるんだよ。そりゃ普通もいろいろだけど、大雑把な感じで『社会にはまると安心する』みたいな。そういう人がみんないじめをするとかそういう話じゃないよ。けど、いじめられる人より、いじめる人のほうが多いんだ。もちろん、いいことだってんでもない。あのね……普通の人は、いつでも強くいられない。弱いときが多いんだ。そういうときに自然とそんなふうに……これは社会の枠にはまる人だからこそだけど ……自分より下だと思う人に八つ当たりしやすいんだ。だからってそうしていいってことでもなくて、『誤りをしやすい』んだってこと。つながれているからこその強みであって、個人が強いわけじゃない。本当に強い人はそんなことしないよ。する必要がないんだから」
「それは……そうか……」
アガリはなんとなくもぞもぞとする。聞きたかったことと全然違う。自分は現国教師のことをどう思うか兄に聞きたかったのに。もどかしくてしょうがない。しかし、それを再び尋ねれば、機嫌を損ねるかもしれない。
それを知ってか知らずか、ユイイチは微笑んで、またゆっくりとコーヒーを飲んで、のんびりと続ける。
「10人中7人は普通の人だよ。その先生もね、ごく普通の人間だと思うよ。おまえはまるで極悪人のように言うけど」
テーブルにカップを置いた右手が上がりの鼻をぎゅっとつまんだ。不意打ちにぎょっとして、それをはねのける。
「よせ!」
つままれた鼻を両手で包み込む。鼻水が出なかったかと不安になる。大丈夫のようだけれど、と、目を動かして兄の様子を見る。
『おっと』と目を丸くしていたユイイチが、それをすがめて、あきれ顔で冷たく言った。
「じゃどけよ。いつまで寝てんだ、図々しい。おまえ重たいし。もう駄目。もう無理。足しびれた」
アガリはしぶしぶと起き上がる。鼻水は出なかったようだ、しかし。 ユイイチの隣にくっついて座り、自分の分のコーヒーに手をのばす。そしてぼそっと腹立ち紛れにつぶやいた。
「兄貴の話は長いだけでわかりにくいな」
「わかんない?」
ユイイチの声に苛立ちがまじる。
「だぁから、ちょっとうっかりしちゃっただけなんじゃないのって話。陰でそういうこと言ってるやつはいーっぱいいるよ。こう言っちゃなんだけど、普通でもつまらないほうだと思う。それでなんでどうこう言う必要があんの、くだらない。放っとけよ」
「そういうことじゃないんだよ……」
「あれ? そういうことじゃない? おまえは特別なほうだと思うよって言ってんの。社長になるんだろ、本物の」
「そ……」
意外な言葉にハッとなる。口ごもり、アガリは落ち着くためにコーヒーを飲もうとカップを取って口に運んだ。呆然として思う。
(あれは俺のことだったのか……)
確かに、自分はうまく人の輪に入れていないとは思う。外見のせいか、中身のせいか、……いや、両方か。いじめられるというほどではないが、気付くと除け者にされていた。
おかしいと思うのは、自分がおかしいからなのだろうか。本当には、自分がおかしいのだろうか? ……いや、そんなはずはない。 ……と、思いたい。
思ったより温かったコーヒーのはりつくような甘さ…… スティックシュガー一本分の……に唇をなめ、譲れないものにためらいつつ口を開く。
「でもな、俺は教師がそんなことを言うなんて……」
「ひどいと思わないかって? 思うとも。だけどオレはその教師のことも知らないし、その自殺した生徒のことも知らないし、いじめた生徒のことも知らないし、オレが何か言うのは悪いというか……当人に訴えるならともかく、ここでおまえに言ったところで……ま、オレもいじめられたことあるから、嫌だなーとは思うけど」
それでも聞きたかった。アガリの無言の訴えに、ユイイチの唇の端が嘲笑に持ち上がる。
「ああ、かわりにこきおろしてほしいのか。罪を被ってほしいのか。冗談じゃないね!」
「いや、かわりじゃなく……一緒に」
たぶん、そうしてほしいのだと思う。心のもやもやを解消したい。それは、現実……そういうことがあったという事実がもたらすもので、それをひっくり返したい、そして確認したのだと思う。自分の考えの正しさを、ひいては自分自身を。
別に、ただ悪口が言いたいわけじゃない。認めてもらえさえすればそれでいいのだ。自分が『そう思う』ということを。おまえはそれでいいんだ、と。間違っているわけじゃない、と。
誰かが正しいかもしれない。たとえ多くの人にとって自分のほうが間違っていたとしても、それでも、自分がそう思うということはわかってほしかった。そういう自分だということを。ただ否定されるだけでは、気持ちを聞かれなければ、自分がいらないものみたいでつらい。
苛立たしげに『トントン』とユイイチの指がテーブルを叩く。
「あのね、もったいないんだよ。おまえの時間が。せっかくおまえは体がでかくて正義感が強くて親分肌で…… それなのにそんなつまらない相手と戦うなんて。間違ってるとわかってる相手を言い負かしてどうすんの。どうせなら、負かすことができないくらいの相手を選んだら? まだ若いんだ」
なんとなく後ろめたく、目を合わせられずに、横目でそっと兄を窺う。カップをテーブルに置いていたユイイチは、ほんの少し笑って、支えるように身を傾けてアガリとの距離を詰めた。そしてからかうように言う。
「とにかく。同い年でおまえくらい大きくて、正義感があって、親分肌で、強いやつをライバルにしろよ。そいつを探してきて戦いな。じゃないといい経験にならないよ。傷ついて帰ってきたらバンドエイドくらい貼ってやるからさ」
明るく言われた言葉にムッとして、サッと目を逸らす。口の中にコーヒーのものではない苦さが広がる。胸の内にも。
(なんだ、それは……)
何が言いたいのかまったくわからない。しかし、聞きたい答えとはまったく違うのに、何故かその答えが正しいような気がする。それでいいような気がしてしまう。
(その程度のことだったのか……)
自分がちっぽけな気がする。ユイイチは『大きい』と言ったけれど、正反対に感じてしまう。自分は何を気にしていたのか。余計なものを切り捨てていくと、残るのはあの教師の発言、それだけだ。自分は同じように思っているわけではない、それは確かなのに、何をこだわっていたんだろう。自分は確かにそれを『間違っている』と思うのに。どうしてこんなにも揺れるのか。正しいと思うならばそれを貫けばいいだけなのに。
(つづく)