メリーと子羊の先生。
「おかわりあるから、気にしないで食ってよ」
「兄貴は?」
「オレは昼飯おそかったから」
まだ、ということだろう。少し残すことを心がけて、布の上にナイフと揃えて置かれたフォークを取り、ソーセージを刺して口に運ぶ。噛むと、中は柔らかく、肉の味がじわっと口に広がる。塩こしょう、レモン……そしてアガリの名前もわからないハーブらしき味。それと……野菜。
あまり行儀がよくないが、緑が鮮やかなグリンピースを異物と見なし、最初ほじくり出そうとした。たいていなんでも食べられるが、何かに入っていると苦手、というものがある。たとえば……自分は平気だけれども……酢豚のパイナップルとか。だが、うまく取れないので、アガリは行儀のいいふりをして、ソーセージをナイフを使って細かく分けることにした。グリンピースが自然に取れたふりをして、こっそり抜いて肉だけ口に運ぶ。
このほうがおいしい、と思う。
目の前にトンとオレンジジュースの入ったコップが置かれた。
見上げると、兄の笑顔がある。
「はい」
「サンキュ」
なんだか妙に照れくさく……食事を、しかもおいしい食事を、作った本人の前で食べているのは恥ずかしい…… 照れかくしに話しをしようと、きっかけを探して質問した。
「なあ、ソーセージってどうやって作るんだ?」
「ええっ。それはこれ? それとも工場の?」
ユイイチの指が皿を示し、ついで空を差す。アガリは同じ皿を指差した。
「これのこと」
この質問は成功したらしい。ユイイチが嬉しそうににっこりした。
「ハンバーグと似たようなもんだよ。包んでこの形にするだけで」
「へえ」
「おいしい?」
「ああ……じゃあ、好きなもの入れられるな」
「まあ、そうだけど……うーん、試したことないからなぁ」
「肉のかたまりを入れてくれ。グリンピースを抜いて」
「却下。それなら肉をそのまんま食ったほうがいい」
「そうか? 食べた感じがすると思うんだけどな、そのほうが」
「まったく……おまえ相手にミンチとかしてるのもったいないな! 焼くのももったいない! ひき肉で作ったものに肉のかたまり入れろとか無茶言うんだから、もう。それ血がしたたってなくてごめんな」
「なんだよ、人を肉食獣みたいに」
「そういや、こないだ横島くんたちとやった動物占いの結果、おまえ確かライオンだったよな。まんまじゃん。ライオンだライオン。ってゆーか……もったいないなぁ、ソーセージをバラバラにして…… オレの苦労は……」
「兄貴、ヤマネコはあまり変わらないと思う。……大丈夫、これもうまい」
「解体しながら言うなよ。『これ』ってどれだよ、肉ばっか食いやがって! グリンピースもちゃんと食えー」
「んん……グリンピースは……後で」
「食べずに済めばいいなぁとか思ってるだろ!」
本当に怒っているのではなく、仕方ないなぁというように苦笑している。 そんな兄を眺めながら、アガリは寂しくなる。こんなに楽しいのに、一時だなんて。
こうして毎日一緒に食事ができたらいいのに。一緒に住めたらいいのに。 こどものころひとりで留守番することが不安だったのならなおさら、寂しい思いをしていたのならなおさら、ひとり暮らしではないほうがいいだろう……もちろんそのほうが安全だし…… 苦労も少ないだろう、そう思うのに。
「けどなぁ、やっぱり……」
そんな思いが口から出た。
「俺が来るより前に誰か来たかもしれないよな。俺じゃなかったかもしれないんだぞ」
自然となじるような言い方になってしまう。アガリにしてみれば、兄が強情を張っているという見方が一番よくて、悪いのは兄だと言いたくなってしまう。
『一緒に住もう』と言っても『うん、そうしよう』と言われないことはわかっている。兄には兄の思いや考えがあって、家では落ち着けないのだから…… 再婚が原因で母親に対してわだかまりがあるとか、アガリの父親が苦手だとか、どうしても弟に気をつかうところがあるとか、そういう理由があるのだから、『うん、そーしよう』なんて簡単なものではないことはわかっている。それなのに自分が何度も言えば兄がうんざりとする。だから別の方向から攻めた。
電話で『今から行く』と言い、その通りマンションに着いたアガリの姿を見たからと、鍵もかけずにいて、ピンポンひとつで簡単に扉を開け放つ兄に、危険だ、と。
きょとんとしていたユイイチは、やがてなんの話かわかったらしく、目を閉じ、首を傾けて、口元に余裕たっぷりの微笑を浮かべて言う。
「うちのピンポンねぇ、ゆっくり押すと『ピンッ……ポーン』になるんだよ。それでね、押し続けると『ピンポーン……ピンポーン……』になるんだ。そういうふうにどう押すかでだいぶ違ってね。オレの知る限り、『ピンポン』とくっきりはっきり一回だけ鳴らすのはおまえなの」
言い終えると『どうだ』とばかりに、いたずらっこのように目を輝かせ、アガリを窺う。
アガリはなんとも返すことができず、新たに箸を取り、それでおひたしを食べる。
確かに、指摘された通り、ピンポンが鳴ったのは一回だった。いつもためらいなく押し、すぐに手を放す。押すと決まっているから押す。迷うのはその前の段階だ。反応がなかった場合はまた押せばいいのですぐに放す。
ユイイチがすまし顔でティーポットを取って傾ける。残りの少なくなったポットから『コポポポ……』とカップに中身が流れ込む。金色の虹のように。それはすぐに細くなって消えた。
「こどもの頃からひとりで家にいることが多かったから、自然と注意してるんだな。音とか、そういったちょっとした違いにも敏感で。 ……まあ、普段から、慣れ……って感じで」
「そうか……」
角砂糖をカップに入れて、ミルクを取って注ぎ、それをスプーンでかき混ぜる。首を傾けてそれを眺めながら、ユイイチは少し照れくさそうに言った。
「他人のことはわからないけど、おまえのことならいくつかわかってることがあって、電話で何を言うかとか、どれくらいの時間で来るかとか、どんな音を立てるかとか……」
ちらりと目を上げて、アガリを見る。
「まあ、そういうことからおまえだと決めつけて開けたんだよ。だけど、気をつける。鍵もかけとくしインターフォンも使うしチェーンも忘れないようにする、これからは。物騒な世の中だもんな」
くいっとカップを傾けてハーブティーを飲んで、それを下ろすと、ふっと意地悪げに目を輝かせて微笑した。
「せいぜい感じ悪く出るようにするよ。『ああん? どちら様ぁ? 弟だ? そんなのいたっけかなぁ。ああ……ガリ? 本当かなぁ。疑わしいなぁ。合言葉は言える? そういえば、ガリは三回まわってワンが得意だったなぁ。できたら本物なんだけど……おっと、ダメダメ、おみやげを持ってこなくっちゃあ』……」
「俺ならキレて途中で帰るぞ」
アガリはむすっとして遮る。『三回まわってワン』を特技にした覚えはない。そもそもしたこともない。
ユイイチはこくこくとうなずいた。
「だろうな。帰らなかったらおまえじゃないんだ。どう? 合言葉でも決めとく?」
アガリはふうとため息を吐く。馬鹿なことばかり言って、お調子者め、と。
「どうせ忘れるんだろ、兄貴は」
「うん。『ヤマ』『カワ』が、『……カワ』『……ヤマ?』になったりして。じゃあ、ナゾナゾにしとく?」
「いいって。……なんか悪いことしたみたいな気になってきた」
こんなにのんきな相手に、もっと気をつけろだなんて。もともとの性格を曲げてまで? ひどい話だ。
とはいえ……だからこそ危ないとも言える。
面倒見はいいほうだが、自分のこととなると途端に無頓着で、いい加減なところのある兄だ。生きるということにあまり執着がないようにも見える。開き直りというか、投げやりというか。
しっかりしているように見えて、案外抜けているところがあるから、簡単に人にだまされるんじゃなかろうか。面倒見がいいのも問題で、部屋を見てもわかる通り、他人の物ばかり置いていて、利用されまくっていることがわかる。
不安だ。常にはりついて守っていてやりたいくらい。そうしたら、兄はのんきなままでいられるし、安全だし。自分がついていてやれれば……。
そこまで考えてアガリは思った。と、同時に、漬け物にのばしていた箸を止め、身を乗り出して兄に尋ねる。
「なぁ、……もし、俺が悪いやつだったらどうする?」
「はぁっ?」
ユイイチは目を丸くしてすっとんきょうな声を出した。
アガリはもどかしくなり、重ねて問うことで答えをせかす。
「もし、俺が正真正銘『本物の俺』でも、何か汚いことをたくらんでいたとしたら? どうする?」
「おまえがぁ? 悪いやつだったらぁっ?」
そこには、驚きとともに、馬鹿げたことだとあざける響きがあった。
アガリは真剣な顔でゆっくりとうなずいて見せる。
「そうだ」
「ふうん……おかしなことを言うね。おまえほど善良な子羊もいないというのに」
善良な子羊……。その言葉を噛みしめる。
見た目はそうかもしれない……けれど。
当たり前のように周りにいる者でも、思っていた通りとは限らない。あの現国教師だって、ごく普通の、いい人に見えたのだ。それが陰であんなことを言っていたというのだから。
「わからないだろ、そんなの」
「わかるよ」
ユイイチはそう言い切った。カチャンとカップが音を立ててテーブルにぶつかる。身を乗り出したユイイチの細い指がびしっとアガリを差す。
「おまえは相手が悪いと思えばそりゃ殴ったりとかはするかもしれないけど、代議名文がないと何もできないよな? 殴るための正当な理由がさ。自分のためにはしないだろ。自分の見た目をいつも気にしてる…… ましてや泥棒だとかそんなこと」
ユイイチはそこで一度口を閉じると、フフンと軽く笑って続けた。
「おまえってかっこつけじゃん。たとえ本当に貧乏でも貧乏に見られたくないとかさ。そういうとこあるだろ。見栄っ張りー」
「そんなことない!」
「あるよー、絶対ある。あ、いい意味で。これは褒めてるんだけどね」
カッとなって口をぱくぱくとさせているアガリの前で、ユイイチがくっくと低く笑う。
「正義のために悪人を正面から狙っても、自分のためにこっそり闇討ちとかはできないタイプ?」
「それのどこが善良な子羊だ」
おまけにどこが褒めているんだか。じろりとにらむと、ユイイチは首を傾げる。
「あれ? 言い方キツかった? 正しい心の持ち主だって言いたかったんだけど。正々堂々としてなきゃ嫌だとかさ。他人のことを考えてもいるよな。まあ、ちょっと報われないカンジだけど」
そう言って澄ましてハーブティーをすする。
アガリは奥歯で箸をかみしめて、飛び出そうな怒声をおさえる。
冗談ではない。そんなふうに思われていただなんて。その通りのような気もする……少しは当たっているところもある……けれど。全般的に許せない。
腹立たしいことに、兄はやさしい目をして、こどもをあやすように言った。
「そんな人間を用心する必要がどこにあるのか。それにぜーったいオレのほうが頭いいもんな。ぜーんぜん怖くない」
腹も立つ。だが、妙にくすぐったいのはなぜか。まごついて、アガリは落とした目をさまよわせ、おどおどと返した。
「んん……け、けどな、もしそうだったらどうする? もし、俺が兄貴の金を奪ったり……ええと、まあ、そうだな……」
「……たり、なんだよ?」
「待て、今考える」
急かすのを、びしっと遮る。
ユイイチが声を出さずに笑った。すぐにそれをやめて、スッと息を吸い、そして柔らかな笑顔のままで言った。
「殺すよ」
「え」
驚いて見つめると、やさしげな微笑を浮かべたままだったが、その目に切なげな光を宿し、ユイイチは言った。
「恨むとも。全身全霊かけておまえを憎むよ。オレをだましたこと、裏切ったことを、オレは絶対に許せない。憎んで憎んで、一日中そのことを考えて、復讐できるまで決して諦めやしない。そうだなぁ、ありとあらゆる武器を購入、そして執拗におまえの後をつけ狙うね。たとえ自分がどうなっても、おまえがどうにかなってほしいと思う。そのためならなんだってするし、ためらいもしない、容赦もしないだろう、全力を注ぐ。おまけに、目には目をなんてものじゃない。二度とないように、おまえが社会的地位を築くまで待って、それから一気にぐしゃっと潰す。ね、オレを怒らせると怖いぞォー?」
アガリはそれを身動ぎもせずにじっと黙って聞いていたが、そこまで来るとついにふき出した。兄の声の中に、わざとらしい真剣さに隠した軽さを見つけていたからだ。笑いをこらえながらなんとか返す。
「本当に怖そうだな」
自分よりも大きな笑顔で兄が言う。
「そう。……だから、オレをだますなら死ぬまでだまして。じゃないとどろどろになる。オレもプライド高いんだ」
「馬鹿だな、言うやつがあるか」
「兄に向かって馬鹿とはなんだ!」
わかりやすく怒ってみせるユイイチを、アガリは嬉しく思って、顔を伏せる。熱くなった頬を隠すために。
馬鹿らしいことに、涙が出そうだ。悲しいからじゃない。それほど嬉しい。
自分が裏切ったってどうでもいいとは兄は言わなかった。
わざとらしく真剣で、だからわかりやすく冗談で、それを省いて残る、伝えたいこと。冗談に紛らわせた本音がわかる。『自分がどうなっても』なんて、そこまでどうかするということ。それほど重大なのだ、自分の存在が。そこまで意味を持つのだ。今、好きでいてくれているのだ。
悪いことをした自分を、兄は許さないでいてくれる。それは、悪いことをしてもいいということ。甘えられるということ……お互いに。
普通に育ってきた人間なら、疑問に思うまでもなく、相手に甘えられる…… ぶつかることができるもの。だが、そうでない人間には、それが付き合いの最後になる。
アガリがこどもの頃、母親はこどもの面倒を見ることを嫌がっていた。それをアガリは知っていた。そして、父親は忙しくてなかなかこどもをかまう暇がなかった。それもアガリはよくわかっていた。だから、甘えたくても甘えられなかった。母親は今よりももっと嫌がるだろう。父親のほうは困るに違いない。それに父親は『強くて賢くてたくましい男』を望んでいた。何か困ったことがあるなんて言えば、寂しいのだと訴えれば、見捨てられてしまうかもしれない。その恐怖があった。面倒をみてくれている人はいたが、自分の面倒をみてくれているのは仕事だからだと、こどもながらに気付いていた。それを知っている必要があったのだ。おとなの手間を省くため。
誰に対しても自分の感情をぶつけていいようなことはなかった。こどもでありながら、おとなであることを期待されていた。だから、許される甘え方も知らない。甘えてはいけなかったのだから。
猫は、子猫のうちに親兄弟に噛みついて、自然と噛んでも痛くない強さを覚えるものらしい。痛いと叱られるからだ。だが、自分はそれを全然知らない。ただ『噛みついてはいけない』ということだけ。
しかし、今はここに叱ってくれる相手がいる。噛みついたら本気で噛み返してくれる相手が。
ぶつかっていいのだ。そういう相手が自分にはいる。その満ち足りた感じが、記憶に新たな光を当てた。
今になって理解できる。心の底から、本当に。自分はあのとき寂しかったのだと。
遠い世界を見るように、ぼんやりとしかわかっていなかった。触って実感をともなったそれは、心地よい驚きだった。腹が立つより、ずっと寂しかったのだ……本当は。
教師との会話で、名前さえ覚えられていない自分。気にされていない自分。信頼とは違う、ただの『前提』ということ。信じても信じられても、頼っても頼られてもいない。生徒はいい生徒という決め付けの上での関係でしかないこと。ぶつかることができないこと……。それをあのとき確認してしまったのだ。『ぶつかるな』『ぶつかるな』と怯えている相手に。
突き放されたようで悲しかったのだ。それで反応がほしくて、憤慨して、怒っているんだと思っていた。それも甘えだったのだ。
何もわからないこどもみたいに教師に『なんであんなこと言ったんだ!』と噛みつくことができたなら。闇雲に『信じられない!』とか言えたなら。甘えられたなら。……だが、それをするほどのものが間に何もなかった。たぶん嫌いでもない。お互いに。
『羊がメリーを好きなのは、メリーが羊を好きだから(*)』
……どちらでもない者同士。
とにかく、自分には思い切りぶつかれるところが、ひとつはあるのだ。よかった。
その『ぶつかれる場所』は、ゆっくりと首を横に振って言った。
「本当に、何か悪いたくらみがあるのなら、頼むから死ぬまで隠しててほしいな。何をしても嫌いにはならない……と思う……けど、だからこそ、たぶんオレは本気で憎むだろうから。とくにおまえは」
細めた目でじっとアガリを見つめる。
「兄弟だからな」
ひょいと肩をすくめて、カップを持ち上げ、ハーブティーを勢いよく飲み干す。
アガリは持ったままだった箸を置いて、座り直し、手を膝に置く。少し考えて、『ありがとう』と言うのも変なので、ぎこちなく笑って言った。
「そうか」
そして、自分もまたそうだろうな……と思う。血がつながっていないとはいえ、関係として兄弟だからこそ、もしも自分にひどいことを兄がしたなら、きっと許せないだろう。許すかもしれない。兄も許すだろうと思う、口ではどう言っていても。すぐにか、いずれか、どちらにしても。でも、それは、何事もなくではない。
憎み合い、奪い合い、傷つけ合い、さぞかし醜い争いになるに違いない。だからこそ。
「容赦されないなら安心だ」
アガリがぽつりとこぼすと、ユイイチが眉をあげておどけて、自信たっぷりに言う。
「オレは闇討ち肯定派だからな。覚悟しとけよ」
「そんな派閥があったのか」
ふっと緩めた口元から息が漏れる。アガリは再び箸を取り、たくあんに向けた。
やさしい目でじっと見つめる兄の視線を感じながら。
「……違うけど……」
ぽつりと漏れ聞こえた言葉に疑問を感じ、顔をあげ、兄を見る。だが、ユイイチは席を立ち、湯を注ぎにいくところだった。
アガリはその間に、サラダを野菜好きの兄に残し、他の料理をあらかた片付けた。オレンジジュースをごくごくと飲んでいるときに、今度はふたり分のコーヒーを手に戻ってきたユイイチが、椅子に腰掛けるなり、さらりと言った。
「学校でなんかあった?」
+++++
(つづく)