メリーと子羊の先生。
ユイイチは台所のテーブルに近づき、片手で椅子を引き出すと、どさりとそこに腰を下ろした。そして、目の前に立つアガリの顔を、興味深そうに下からじろじろと眺める。
「あれはたんに、おまえが言ってるからそういう意味なのかなって、そう思っただけだよ。別にオレの考えってわけじゃない。だいたい、どっちかっていやおまえのほうがー……」
アガリが顔をしかめると、ユイイチは首を傾け、ゆっくりと話す。
「あのさ、電話かけてきて『もしもし』って言うなり『いいか?』って言う男がこの世にそう何人もいるとは……。まったく、『いいか』ってなんだよ、唐突に」
「兄貴のところに行ってもいいかって訊いたんじゃないか」
ユイイチが目をつりあげた。
「おまえね、いったい何通りの解釈ができるか気付かないわけ? いきなりハァハァしながら『いいか?』って訊くから、オレはまたいったいどんなド変態からのイタ電だろうかと怯えてっ……」
「焦ってたんだ……」
「にしたって、あのなあ、そりゃケータイにかけたんだから、オレが出るけど……。たとえばオレが火山の噴火口にいたって来るつもりだったわけ? オレのいるところに行ってもいいかって、オレがどこにいると思ってんの? まあ、アレだ、オレはオレのいるところにいるけれども! マンションに必ずいるとは限んない……、まあ、いたけど。だけどおまえが来るまでずーっとここで待つつもりはなかったな。電話をしたのは賢明だった。出かけようかと思ってたんだ。やめたけどね」
「……ふむ」
「ふむ、じゃなくて!」
キッとにらみあげてくるユイイチに、理由を言わなくてはならないことを正しく悟り、しかし簡単に説明できることでもなく、アガリは顔を赤くしながら目を逸らしてごにょごにょと、理由をかなり短くして言った。
「悪かった。ちょっと……急に顔が見たくなったもんだから……」
「サブイボ」
とたんにユイイチが低い声できっぱりと言った。
己が両腕で身を抱きしめ、わざとらしく首をすくめて震え、憤慨した様子でわめいた。
「うわサッムイなー! おまえ自分のキャラわかってて言えよ!」
「傷ついたぞ! あんまりだ、人が素直に言ったらそれなんて!」
「そこまで素直になるのは恋人か母親の前だけにしてくれよ。兄に言う言葉じゃないよ」
アガリはむすっとして黙りこむ。恥ずかしさもあって。言われてみればそうかとも思う。省略しすぎた。
「と、とにかく、なんだかそんなふうだったんだ。説明なんてできない」
「そっか……。オレもとにかく、あれは名乗らなくてもおまえだとわかったよ。声とかじゃなくて、おまえはいつだって突然なんだから。……そういえば」
ユイイチがふと遠い目をする。
「不思議に思ってたんだー……。ほら、あの、オオカミとヤギの話でさ。留守番中のコヤギのところにやってきたオオカミが、お母さんの声を真似した、って……どんだけミラクルボイスだよ」
「だからバレたんだろ、確か」
「そう。でもオレは、こどもの頃に聞いてショックだったねー。そこまでしてだまそうとするオオカミがいるってことが。鍵っ子のオレにとってどんなに恐怖だったか、乳母日傘のおまえにはわからないに違いない」
「乳母はいたけど、母親はいなかったんだぞ」
「ああ、そう。……うん。まあ、そのほうがいいとは言わないよ。たとえ泥棒が母親のふりして来たらどうしようとか、今ここにいる母親は母親じゃないかもしれないとか、ときどき不安になったとしても。……信じられる相手が母親しかいなかったのに、本人だと思ってもまだ駄目だなんて……」
眉をひそめて悲しげな目で自分を見上げるユイイチを、アガリは無言で見つめ返す。
ユイイチはうつむき、『はぁ』とため息を吐く。
「馬鹿正直にとらえちゃったんだ」
アガリは小さく首を振り、同情を示す。
幼子を怯えさせるとは、なんと罪深いことだ。一口に幼子といっても、兄の状況やら感性やらが特別だったことは疑いないが。父親の不在、繊細なこども。
こどもの想像力というものは。 自分とてこどもの頃には自分ひとりが宇宙人なんじゃないかくらいのことは思った。周りはみんな敵で、何か大きなたくらみがあって、自分はだまされていて、周りは何もかも知っていて、自分ひとり孤独でいて。
それでも、父親は側にいられなくてもいろいろと面倒をみてくれて、そういう安心感……支えられているんだという……もあったし、そして側には身を守ってくれる人……ベビーシッターやら…… もついていて、長時間ひとりで留守番なんてことはそれほどなかった。だからそういう不安を育てずには済んだ。
きちんと親が守ってくれる、安心できる家庭があるこどもはいい。何もかもひとりで戦えなんて、言われてしまったら。まだ少ししか物を知らないのに、いったい何を信じればいいのやら。確かにひどい話だ。
だからこそ親が安心できる環境を提供し、こどもは不安なく、のびのびと育たなくては。
ユイイチはやれやれと首を振り、うなだれて、ふーっとため息を吐く。
「声も疑えと言われ、このうえ姿を見てさえまだ信じられないような……」
「ごめんな。いいんだ。気にするな」
謝ってから首をひねる。そういう話だっただろうか、うまくはぐらかされてやしないだろうか。
「……じゃ、ない。俺は簡単に扉を開けるなと言いたくっ……」
それに声を疑えと言っただけだ。
「姿は疑わなくてもいいから、ちゃんと相手を確かめて開けろよ。ちゃんとチェーンもつけろよ。それに、あんなふうに開け放したら危ないだろ。鍵をかけておかないと!」
「うん、ごめん」
「なんのためのインターフォンだ。なんのためのチェーンだ。使わずにどうする!」
「うん……悪いな、心配かけて。ありがとう」
そう言われると、それ以上は何も言えない。
なんだかんだと言っているが、結局いつもの兄の『ぐうたら』なのだ。困ったことに。
アガリはため息を吐いて、兄の向かい側の椅子を引いて、そこに腰掛ける。
どうやったら改めさせられるだろうと考えながら。
「とりあえず、ハーブティーでいい? そろそろ入れないと濃い上に冷めるんだ」
「ああ。……中身は?」
傾けるティーポットから、『コポコポコポ……』と音を立てて、白い器に薄い金色の液体が流れ込む。ふわりと草の香りがする。
「わかったらわかるし、わからなかったらわからせる自信がないな、あらゆる意味で」
「……わかる自信がない」
「うん」
それでもユイイチはポットのふたを開けてその中身を見せ、『これがレモングラス、これがペパーミント』などと教えてみせた。思った通り、アガリには形に多少の違いはあれど、全部ただの葉っぱに見える。あとは花。
「……で」
一口すすったアガリは、その味に『うっ』となり、準備よく置いてあった砂糖入れに手をのばす。同じようにティーカップを傾けていたユイイチは、それを下ろして『で』と言って、砂糖を次々とカップに転がしているアガリに人懐こい笑みを向けて続けた。
「悪いな、おまえだと思ったもんだから」
「わかってる。電話したからだな。そういう油断が危ないんだ」
「うん、そう、そろそろ来るころかなぁと思ってたんだ……」
つんとあごを上向け、猫のように目を細めて見下ろすようにして、ニィッと笑う。
「マンションに着いてから、ずいぶん時間がかかったな。もしかして階段のぼってきた?」
「ああ……」
再びチャレンジしようとしていたカップを口に当たる寸前で止めて、アガリはそれを下ろす。そして兄を凝視した。
「今なんて?」
「だから、な」
兄がうつむく。『ニィッ』が『ニヤニヤ』になった。勝利の笑みだ。
「電話をくれた時間からしてそろそろかな……と思って外を見てたら、通りを歩く人の姿が見えたもんで。ほら、そこの、双眼鏡で確かめて」
「ロウガン?」
「誰が老眼だよ」
兄の指差すほうを見れば、確かに窓の側の棚の上に、双眼鏡らしきものが乗っている。赤や緑のガラスのようなもので飾られた、きれいだけれどあまり実用的ではなさそうな、小さなそれ。
「双眼鏡なんか何に使うんだ?」
「今言ったろ」
兄はさっと左右に目を走らせ、身を乗り出すと、声をひそめて、真剣な面持ちで言う。
「実はこのマンションはさる大物政治家の秘書兼愛人がいて、オレはある雑誌社に雇われてその調査をしているとこなんだ。近づく者すべてそれでチェックしてるんだ」
「……」
アガリはそんな兄を無表情にじっと見やった。
「……はは」
すぐにユイイチはおどけた顔になってぺろりと舌を出した。
「冗談だよ、そんなわけないない。あれは友達のおみやげ。普段は使ってないんだけど、今日はたまたま……ね。存在を思い出して。他人の部屋を覗き見ることを趣味にしてるってほうが信憑性あったかな」
「馬鹿。ないほうがいいだろ。誤解されるようなことはあまりしないほうがいい」
「だよな」
なんの意味があるんだと呆れながらも、なんとなく二度目のそれが本当のことのような気がして、アガリは疑いの目でじろじろと兄を見る。ユイイチは澄ましてハーブティーをすすっている。自分も手に持っていたことを思い出して、アガリは再びカップを口に近づける。ツンとするミントの香り、そして甘い匂い。今度は大丈夫かと用心しいしいすすれば、やはりまだ草の味がして、苦く、そして今度は砂糖の入れすぎで妙に甘ったるくなってしまった。
『体にいいんだ』と兄は言うが、本当にいいのだろうか、苦いのに。
アガリは恨めしげにポットをにらむ。
そのポットをユイイチが得意げに掲げて見せる。
「どうやらおまえらしいと思ったから、ポットにお湯を入れてのんびり待ってたんだ。思ったより着くのが遅かったから、のんびりしすぎちゃったけど」
にこにこ、にこにこ。
要するに、アガリがマンションに着いたのを見て、知っていたわけだ。それであとどれくらいで部屋に来るか推測できて、だからピンポンと鳴らしたのもアガリだろうと思ったと。わかっていたんだ、と。
アガリはむらむらとこみ上げる怒りに、拳でドンとテーブルを叩いた。
「謀ったな!」
「謀っちゃいないよ!」
ユイイチが大げさに驚いてみせ、そして顔をくしゃくしゃにして苦笑した。
「とーんでもない! 家から電話をくれたから、駅まで10分、駅からだいたい15分、おまえのことだから信号にひっかかったりして駅からここまでに15分はかかるかな、足して5分で45分くらいだからそろそろ来るかなぁと思って下を見ていたら、ちょうど誰か来るとこだったから、まあ、たぶんおまえだろうなぁと…… さすがにはっきり見えたわけじゃないんだけど。で、あと5分もしないかなと。実際は5分以上かかったわけだけど……。ま、でも、いつもだいたいそれくらい? そんなところ」
アガリは『してやったり』の笑顔を視界に入れまいとカップを持ち上げた。
「兄貴、悪いけどお湯くれ」
「やっぱ濃かった? ってゆーか別に無理に飲まなくても。冷蔵庫にオレンジジュースもあるよ、おまえの好きな。どうする?」
「いや……入れてもらった分は飲む」
何がなんでも飲む。残したら申し訳ないと思うからでもあるが、なんとなく悔しい。
「あ、そう」
ユイイチは立ち上がって、アガリの手からカップを受け取り、コンロのほうに行った。やかんを取り、カップに湯を注いで薄めながら、アガリのほうをちらりと見て、声を投げる。
「でも、じゃあ、オレンジジュースも飲むんだなー?」
両方とも入れて戻りそうな兄に、アガリは慌てて立ち上がった。
「自分でつぐ」
「そうー? コップはそこー」
『どこ?』と見れば、テーブルの上にコップも用意されている。
戻ってきたユイイチがコトンとカップをテーブルに置き、アガリのほうにすっと差し出す。そして目の前のいくつかの皿のふたやらラップやらを外して言った。
「適当に食べてよ。食ったって言ってたけど、もし足りなかったら」
「遠慮なく頂きます」
「どうぞ、どうぞ」
スッとアガリが取ろうとしていたコップを先んじて取って、それを持って冷蔵庫のほうに足を向ける。完全に取り残されたアガリは、仕方なしに椅子に座りこんだ。もてなされる側だ、それより他はない。なんでもやりたい性分なので合わないが、こういうときは任せるべきだと学んでいる。というより、自分がぼけっとしていたのがいけない。ユイイチはさりげなく持っていくのだから。
料理を見れば、アガリが電話をしてからわずか40分くらいの間に作ったのか、ソーセージ……皮のない、丸めて形を作っただけのもの…… ポテトサラダにおひたし、何故か漬け物まで出してある。どれもごく少量だが。
(つづく)