メリーと子羊の先生。
吐き出す息が白い。
動いているときには置いてけぼりにできた寒さも、止まると急に追いついて、襲いかかってくるようだ。
大きな道路を横切ろうとして止められたアガリは、舌打ちして色が変わったばかりの信号をにらんだ。
まったくついていない。
冷たい風が濡れた手のようにするりと首筋を撫でる。うつむき、襟を引っ張りあげて顔を埋める。マフラーぐらいしてくればよかった。足がタンタンとリズムを刻む。
メリーと羊……。
信号が変わり、歩き出す。急ぎ足で渡る人々。負けじと自然に速足になる。
冷気を振り切るように、大股で歩く。
歌は、流れている都会の曲に紛れて消えた。
マンションの一室。
扉の前に立ち、階段を駆け足でのぼったせいで上がった息を整えながら、チャイムを押す。
ピンポーン……
すぐにパタパタと音がして、ガチャリと扉が開いた。
ひょこんと顔を出したのは、アガリの兄のユイイチだ。
「おう、ガリ。入れよ」
さっと中を指差して、扉を開け放ったまま、自分はさっさと引っ込んでしまう。
まるで家の中の自分の部屋に家族を迎え入れるような態度だが、一応ここはマンションで、ひとり暮らしで、家の中ほど安全な場所ではない……はず。とにかく、この扉が最後の門である。それなのに。
アガリは振り向いてさっさっと後ろを確かめてから中に入った。
「……お邪魔します」
後ろ手に扉をしめ、鍵をかけ、急いで靴を脱ぎ……それでもきちんと揃え…… 兄の背中を追う。
「兄貴、無用心だ」
「そっか」
ユイイチはそれが当たり前のように返事した。
冗談じゃない、とアガリは思う。
「俺じゃなかったらどうするつもりだ」
「だっておまえ、さっき『今から行く』って電話くれたじゃん」
「それは……けど……」
確かに、あらかじめ電話で了承をもらって、訪ねたのだが。
ユイイチは今日、仕事が休みで、早朝や深夜ならともかく、夕方6時くらいならマンションにいる確率のほうが高く、そうと知っていてアガリがわざわざ電話したのは、突然訪ねていくのも悪いし、もし電車に乗って来たっていうのに不在だったりしたら自分がみじめでつらいしで。
しかし、ああも簡単に扉を開け放つ者があるだろうか。
「俺のふりをした誰かだったらどうするんだ!」
「どうやって!」
同じくらいの勢いで返して、ユイイチが足を止め、バッと振り向いた。思いもよらぬ言葉だったらしい。がく然としている。
アガリは注意しようと思っていた言葉が驚きでふっ飛び、ほとんど呆然として言った。
「……声音くらい、簡単に真似できるだろ?」
電話でアガリのふりをして『今から行く』と約束を取りつけることだってできるのだ。無用心に扉を開けてはいけない。
大きく見開かれていたユイイチの目がふっと細められる。そして、さっと逸らされた。
「ああ……なるほど、電話のことか。いや、オレはてっきり…… マスクか何かで変装してとかそういう……ま、それもできなくはないけど」
「そんなわけあるか」
「だよな、うん。サスペンスドラマの見すぎかな。というよりは、ほら、アレだ、怪人なんとか……。でも、なんかおまえがそういうこと言うような気がしたんだよ。まあいいや。ジャンパー脱げば? かけとくよ」
「よくない……」
『そういうことを言う気がした』で『まあいい』で済まされてはたまらない。不機嫌に断る。けれど、ジャンパーはかけてもらおう。ごそごそと脱ぎ、差し出された手に落とす。
「……サンキュ」
ユイイチは小さくうなずいて、ジャンパーを手にして背を向け、とっとと歩き出した。歩きながら、首をひねっている。
「いやぁ、『俺のふりした誰か』なんていうから、なんとなく……ね」
廊下を真っ直ぐ、突き当たりの一番広い部屋(リビング)に入っていき、部屋の隅の洋服かけに向かい、スタスタと歩く。
途中、アガリに向けて、指で台所のほうを示した。
「あっちいって座ってて」
その言葉を無視し、アガリは部屋の入口に突っ立って、皮のジャンパーにハンガーを突っ込むことに苦心している兄を眺め、むすっとして吐いた。
「兄貴は妙なこと考えてばかりだな」
「おまえにっ……比べりゃ……全然!」
「どういう意味だ」
つぶやきを聞き取り、からかいで返した兄は、ようやく固いジャンパーをかけ終え、部屋を横切って台所のほうに移動する。
途中でアガリに向けて眉をあげておどけた顔をしてみせて、そっと唇をとがらせて、ぼそっと一言『そのまんま』と言った。
アガリはその後ろを不満を抱えたままついて歩いた。
(つづく)