メリーと子羊の先生。
教室に戻ると、自然と目が動き、友人の姿を探す。それはそのひとりの席にあった。横島の背中と、その正面に立っている須田が見える。
アガリは職員室に提出物を置いてきて空になった手をなんとなくぶらぶらさせて、ふたりのいるところへ近づいた。
横島が困惑げな声をあげているのが聞こえる。
「もーっ、無理だよ、チャイム鳴っちゃうよーっ」
同じく困惑げではあるが、顔は苦笑している須田の答え。
「ここでやめんだったらカナメちゃんレポート見せろよな」
寄ってみればふたりの机には花札がある。須田がぱっと顔を上げてアガリを見て、一瞬『マズイ』という顔をした。須田の視線を追った横島がくるりと振り向き、アガリに笑顔を見せる。
「あ、ウエ君、おかえりー。出してきてくれた?」
「ああ。次の授業までには返すって」
「うん、わかった。ありがとー」
にこにことして軽く頭を下げる。さらりと髪がこぼれる。こどものような艶やかな髪。その様子を見ると、何やら胸のもやもやも、少しおさまるような気がする。遊ぶこどもを見て心がなごむことと同じで。こんなに感謝してくれているのだし、いいかと思う。友人に提出物を任せて、自分は遊んでいたというところが、多少気にはなるが。
今しがたの職員室での出来事を話したい気持ちはあるけれど、それを説明するのも億劫なほど心が疲れていて、あきらめてアガリは横に立って首をのばして机を覗き込む。
「本当にふたりでやってるのか」
なんとなくつまらなく思ってそう言うと、横島がばたばたと手を振り回してわめく。
「違うんだよーっ。マサ君ってば、体育のレポート僕に見せろって言うの」
非難げなそれに、須田が怒られたように首をすくめて、口をとがらせる。
「いーじゃんよ、別に参考にするだけなんだから。なっ? 何も写させろなんて言ってないじゃーんっ」
それはアガリに対しても言い訳するようだった。
じゃあなんで見るんだ、ということはおいて。どうもよくわからない。途方に暮れる。
「それでなぜ花札……」
不愉快そうな横島と、なにやら気まずそうな須田が、交互に話す。
「あのねぇ、僕いやだから断ったのに、マサ君たらしつこいんだよ。『自分が勝ったら見せろ』って。勝手に『決まり』だって。それで花札やってるの」
「キョーカショねんだよ、俺。しょーがねぇじゃん、なァ。今日中にやっとかないとヤバイんだって!」
「それが僕にいったいなんの関係があるのー」
「冷てぇなァ、友達じゃん!」
「だからぁ、体育の教科書なら僕が持ってるから貸すってばー。それを見てやればいいじゃない」
「描きにくいんだよ、写真だと!」
アガリは横でこくんこくんと無言でうなずく。それはよくわかる。確かに写真を絵にするのは難しい。ぽんと横島の肩に手を置いた。
「いいだろ、別に。見せてやれば」
須田が目を輝かせ、アガリに感謝の目を向ける。横島はふいとそっぽを向いた。
「僕のレポートは僕の作品だもん。僕が描いたんだから。写されるのはイーヤーッ!」
「そんなの見て描くだけだって! 上から写したりしないって!」
「あーっ、そういうこと言うってことは、そういうつもりだったんでしょーっ?」
「ちーがうって!」
須田がぽんと両手を合わせて頭を下げて拝む。
「も、ほんっとお願い、カナメちゃんっ」
「……ええー……。僕だって、負けちゃったら仕方ないから貸すけどぉ。でも、本当にもう時間ないよー、マサ君。チャイムが鳴っちゃう……」
「じゃ俺の勝ちってことで」
「意味がわかんない」
「貸しってどう?」
「僕に何か得があるー?」
「そのうちに、なんつーか……なんかあんじゃねェの? ちっともないってことはないだろ。ほら、『友情は保険のようなものだ』って、なんかで聞いたし」
「それを言うなら貯金じゃない? ねー、ウエ君っ」
話を振られても、わからない。保険か、貯金かなんて。しかし、その通りかとも思う。ようするに『困ったときは助け合おう』ということならば。助けになってやりたいが、あいにく自分はたった今提出してきてしまった。そこまで考えて、ふっとアガリはあることを思い出す。
「そういえば、兄貴が描いてくれたやつがあったな……」
「マジでっ?」
ばっと立ち上がった須田の手からバラバラと札がこぼれる。慌ててかき集める横島をよそに、散らした当の本人は、目を輝かせてアガリに詰め寄る。
「見して見してっ」
それを手で押さえて、アガリは重々しく言った。
「確か持ってきている」
「やりぃっ、見せろ!」
『もーっ』と怒ってぶつぶつ言いながら花札を片付けている横島には悪いと思ったが、アガリはその場を離れて、レポートを探しに自分の席に戻る。その後ろを、まるで逃すまいとするように、ぴったりと須田がついてくる。
席に戻り、鞄の中から目的の物を探し当て、その場で渡せばよかったが、横島に申し訳なくて、鞄ごと持ってもとの場所に戻る。
箱に札を入れていた横島が、戻った須田にそれを差し出した。
「はい、マサ君! 足りなくなったらできなくなっちゃうでしょ? 自分のなんだから、ちゃんとしなよー」
「悪い、サンキュー」
「もーっ」
へへと笑っている須田と、ため息を吐いている横島と。
その間に、例のレポートを置いた。
「あったぞ、兄貴の」
「ラッキーッ」
「見たーい!」
机の上に置かれた紙を見ようと、ふたつの頭がくっつかんばかりに寄せられる。アガリはその頭を見下ろす。
自分はもう何度も見ている。だが、なんとなくそわそわする。自分のものではないのに、さきほど先生の前に立っていたときと同じ、評価を待っているよう。それも、いい評価を欲している。どうしてだか。 そんなアガリの前で、ゆっくりとふたつの頭が離れた。
「……思ったより……なんかそんなに上手くもないっつーか」
『いや上手いけど』と須田がぼそぼそと言う。
「なんかわざと下手に描いてるみたーい?」
首をひねって横島が言う。
思っていたようないい評価でないことに、確かにそれを期待していたはずなのに、残念なはずが、何故だかホッとする。けなされたわけではないからかもしれない。むしろ褒められたといってもいいくらいだ。そのせいだろうか?
確かに、兄が驚くほど絵が上手いわけではないけれど、それでも兄のものにしては下手な絵だ。マジックで描いたように線が太く、かくかくとしていて、人物の動きがぎこちなく見える。以前、兄はふたりの前で絵を描いたことがあるので、そのときに比べて、これでは急に下手になったように見える。もちろん、わざとそうしているのだ。
「俺の見本にするためだから」
絵の下手なアガリがわかりやすいようにと気をつけて描いてくれたものなのだ。
須田が『ほー』と息を漏らす。
「それが疑問もなく言えちゃうところがすごいんだよな。おまえ、どんくらい下手なの?」
言われてアガリはごそごそと鞄の中を漁る。
「これが、過去2回の俺の芸術作品だ」
冗談としてそう言い、バサッと取り出した紙束をふたつ、机の上に放り出す。
もう本日提出したものが先生にOKをもらえたので、アガリにとっていらないものなのだ。
目を落とした須田が片方をバッとつかんで持ち上げ、笑い出す。
「ひひゃーっはっは! ありえねーっ」
「うわぁ、これはすごいよー。ねぇ?」
残ったほうを横島が手に取り、眼鏡の位置を直して、顔に近づけてまじまじと見る。
涙をぬぐった須田が、今さらぽかんとして、尋ねてくる。
「いちお訊くけど、おまえこれ何?」
「……人間」
「とりあえず人間は不定形じゃないから!」
「……」
ためらいつつ答えると、すぱっと言われてしまった。けれど、須田が持っているのは前の前のものだ。次にはもう少し成長が見られているので、それを見てほしい。
「おまえが持っているのは最初に書いたやつだ。それより上手くできたのは、横島が持ってる……」
『あれ』と示す前に、横島がさっと振り向き、まん丸な目を向ける。
「ええっ? 僕、すっごく感想言いにくいじゃない」
ほらほら、と須田が呆れ顔で言う。
「前より、だからさ」
「ああー、そっかぁ」
横島はさらにしげしげと眺める。その横から須田も覗きこんでいる。
もう受かったのだし、いらないものだし、努力したものだから、見られても恥ずかしいものではない。アガリはそう考えていたのだが、そんなに笑えるものだとは。今さらながら体がむずむずとしてくる。『ああーっ!』とわめいてすべりこんで紙の上に突っ伏したいくらい。それを押さえてじっとしているのだが、変な気持ちがしてくる。そこまでじろじろと見なくても、と、そう思う。
しばらくして、溜め息の後に横島が、心底不思議そうにつぶやいた。
「……僕、なんでウエ君に原稿手伝ってもらってるんだっけ?」
「おい」
つい不機嫌な声を出す。いつも無理やり手伝わせておいてあんまりだ。
首を傾げて須田が言う。
「っつーか、うまくなんないのも不思議だよな。あんだけ他人の絵を手伝いながら」
それは横島の絵がそれほど上手でもないからではないだろうか、と胸の内で思うが、口には出さない。下手というわけではないが、兄のユイイチや、横島の姉らが描いたという絵と比べると、不安定だと思う。
横島は同意だかなんだかわからない『ああ、んー……』という低いつぶやきを漏らすと、はっきりと声に出して続けて言った。
「うん。でも、基本的にウエ君はー、戦力外っていうかー……。ああ、そっか。下手だから、いると自信が持てるんだっけ、僕が」
にこっと無邪気そうな笑顔を向けられたが、呆然と突っ立ってそれを聞いたアガリは、我に返るとふたりの手からレポートを回収して去ろうとした。服の裾をつかまれ、ぐっと止められる。
振り向けば、つかんでいるのは横島だ。
「冗談だよーっ。そんなことないよーっ。本当に落ち込まないでよ。熱心にやってくれるからだってばっ。それにねぇ、ウエ君はとーっても字がきれいじゃない。そうだよ、字は上手なのに、ねえ」
「習字ならってたからな」
「それじゃ、イラスト教室に通うといいよー」
「……いや、別に」
うまくなろうと思っていない。そう答える前に『あっはっは』と大きな笑い声が入って邪魔をする。
「習ってどうにかなるかよ、これがーっ」
「もーおーっ、マサ君!」
アガリは反論しようとして言葉を出しかけたが、そこでチャイムが鳴り、開いたままだった口が自然と閉じる。なんとなく、無駄なような気がした。
(好き勝手言いやがってっ)
胸の内で憤然と吐き、アガリは鞄を持って今度こそ席に戻ろうとした。そこを呼び止められる。
「おおい、シノハラ。お兄さんの、ありがたく借りてくからなー!」
しまった、下に置いたままだったせいで回収し忘れた。そう気付いたが、すでに遅い。
須田の言葉に、冗談まじりに返した。
「俺の貸してやるー!」
「いっらねーっ!」
まあ、そうだろうなと思う。
心の中、ほんの少し、兄と張り合う気持ちもあったと気付いた……が、そこまでけなされては、そんな気持ちはあっさりと消えてしまう。
笑い声を背中に、席に戻った。
*****
(つづく)