メリーと子羊の先生。
「ああ、そうだ。何か……?」
アガリはそれを横目で見た。『何かったら嫌だなぁ……』という顔に見える。普段の授業で面倒くさいことを避けているように見えるせいかもしれない。たとえば、宿題を出しても、たまたま当てた者がやっていなかったら、そのまま『それじゃあ』と言って次の者を当てるようなところ。宿題自体が必ずやらなければならないものではなく、次はこの辺をやるよ予習してきてねしなくてもいいけれど、という消極的な予告のようなものであったりする。これは、生徒に評判が悪い。そうならそうとはっきり言えばいのに、どうせ期待してないんだろ、と思わせる。それでやってくるほど生徒は可愛くはない。そもそも期待を見せられてすらいないものを、期待を持たせてやるぜ、という気分にさせるほど魅力的な人柄ではなく、まったくの逆効果だ。『やらなくていいならやらないもんね~』というのが大方の学生の考えだ。とはいえ、一応中の上くらいの学校なので、アガリや横島のように真面目にやってくる生徒もいることはいる。
先ほどの会話がさっと頭をよぎる。『いいヤツじゃん、話わかるしィ』という須田の発言に、横島は『自分に都合いいだけでしょー』と言っていた。お互いにということらしい。須田ら不真面目な生徒にはうけがいい教師だ。
「これを」
アガリは観察をやめて、持っていたノートを差し出した。
「同じクラスの横島のものです。休んだ日の宿題です」
「ああ、あれか。いいって言ったのに、わざわざ……」
アガリのほうに体を向けることなく、そのままでノートを確かめもせずに受け取り、読んでいた本の隣にさっと伏せて置く。さっさと片付けようとしている口調だったが、急に口を閉じると、問いかけるようにアガリを見上げた。その視線の意味を考えて、アガリはこれだと思う答えを口にした。
「職員室に用があったので、頼まれて」
「ああ、なるほど。そうか、すまない」
皆まで聞かず、まるで悪いことを訊いてしまったというように、
慌てて遮って、さっと目を逸らす。
アガリはその顔を見下ろす。
怯えているように見える。顔をうつむけると同時に少しずれた縁の細い眼鏡、だからレンズを通さずに見えた瞳。無防備な目だ。顔をうつむけていることで安心しているのか、はっきりと不安の色も読み取れる。揺れている。
この目……何かを思い出させる。何か気になる。引っかかる。
アガリは記憶をたどる。
メリー……メリー……メリーの羊……羊?……山羊? 黒山羊? 『黒い山羊』、それは横島の言っていたことだ。この目が? ……いや、羊……羊……羊だ。
メロディが頭を流れ出す。思い出した。兄のユイイチが面白がって歌っていた歌だ。
マザー・グース。
羊がメリーを好きなのは、メリーが羊を好きだから。
言いたいことがあって、それを考えてぼんやりしていて、うっかり兄の後ろをトイレまでついてきたアガリに、兄がふざけて歌ったのだ。もちろん、重要なのは最後の部分ではなく、その前の部分、『メリーを待つ羊』の部分だったのだが。
現国教師の体がぴくりと震えて、ゆっくりと顔を上げる。そして振り向いた。
「ん? まだ何か……」
よほど凝視してしまっていたのか、横に立つアガリを見上げて、不審そうに尋ねる。
用が終わったはずなのに、立ち去らずに横で棒立ちになっていれば、何か待っていると思うだろう。何もなければ思い切り不審だ。
アガリは何か言わなければと思った。
目に映ったのは、机の上に置かれた横島のノート。気付けばまだなんの言葉ももらっていない。病気で休んだのに、その日の宿題をわざわざやってきたのだ、横島は。成績のために。
先ほどの考えがふっと頭に浮かぶ。黒山羊。読まずに食べられてはかなわない。
アガリはノートを指差し、口を開いた。
「そこには、横島の熱い気持ちがこめられています。先生……」
成績に執着する横島のことを思うと、自然と力が入る。
「どうか、ちゃんと受け取ってやってください」
「は、ああ……」
教師は目を丸くしてノートとアガリを交互に見やって、ノートを手に取るとパラパラとめくり、そして再びアガリを見ると、ぎこちなくうなずく。
「わかった。ええと……横島君には次の授業の前に必ず返すからって伝えてくれるかな」
「はい」
しっかりはっきりうなずく。
ふうと息を吐き、現国教師は強張っていた顔をゆるめて、小さな笑みを見せた。
アガリにはそれが何故だかわからない。自分の言い方かもしれない。もしかしたら他の何かかもしれない。ほっとして思わず漏れたのかもしれない。それはわからないが。
「……横島君はきちんとした子だね……」
教師はそう嬉しそうにつぶやいた。
その言葉の中に『いい子』というニュアンスを読み取り、それはどうだろうかと思う。
確かにきちんとしているかもしれない。でも、それはあくまで自分のためであって、決してこの先生が好きだからというわけではない。もちろん、生徒としては『いい生徒』であるが、それは道徳的に『いい』とかそういうことではない。勉強をするというだけだ。それを何故この教師は嬉しそうに言うのか。もちろん人生の先輩として後輩が優れているほうがいいというのであれば、なんらおかしなことではないのだが。
横島のきちんとしていることの何がそんなに嬉しいのだろう。そんなことをアガリが思ってしまうのは、いつものこの教師の態度によるものだ。
宿題を出して、それをせずにいても何も言わないのに、誰かがしているとどうして喜ぶのだろう。生徒に何をしてほしいのだろう。
していてほしいのなら、なぜ期待をしないのか?
買いもしない宝くじの当選番号を確かめ、ときにたまたま拾ったくじが当たっていると喜んでいるみたいだ。わけがわからない。
ただ、その小さな笑みが誰かを思い出させて、放っておけない気持ちになる。
「……何か、悩みでも?」
気付くと口に出していた。
ぽかんとした教師の口から『あ……』と微かな声が漏れ、すぐにその口は閉じられ、みるみるうちに顔は苦い笑みに変わった。
「いや……そんな」
しまった、と思う。我ながら馬鹿だ。生徒が教師の悩み事を訊くなんて。何かあっても立場上話せるはずがないのに。失礼なことを尋ねてしまった。
「何もないよ」
思った通りきっぱりと……少し強すぎるほど……言った教師に合わせてうなずく。
「そうですね」
余計なことだった。これ以上いると何を言ってしまうかわからない。アガリは『失礼します』と言って去ろうと思ったが、そんなアガリの顔を現国教師がそわそわと見る。
自然と足を止め、その表情をじっと見て、はっとする。思い出していた誰かとは、兄。アガリの兄に似ていたのだ。
普段やさしいが、そのせいか、親しい人にはときにとても冷たいことを言う、兄に。
何を言われるのだろうかと、アガリが身構えたとき、教師がぽつんと口を開いた。
「あー……君たちは、テストは難しいほうがいいのかな、易しいほうがいいのかな……」
ふっと気が抜けた。あまりにも教師らしい『テスト』の一言に。
「テスト、ですか」
「うん……」
しかし、その恥ずかしそうにうつむくその様子に、本当に困っているのだと知れる。
テスト。現代国語の。石川先生の。
それが思い出させるものは何もない。どんな問題が出たか。どんなことを考えたか。何故なら。
普段の授業を聞いていれば一問も引っかからずに解ける問題。……いや、聞いていなくとも困らないようなもの。漢字や、国語ならではの読解力を試す問題を除けば。それも教科書に答えが載ってあったりする。なので、真面目に授業も聞いて、そのうえ予習復習までして、テスト前日も勉強するアガリとしては、とくに困った覚えがない。他の教科に比べて、感想も何もない。
というわけで、アガリは記憶の中の自分以外の者の言葉に頼った。
「そうですね。この間のテスト、友人のひとりは簡単で……その、少し物足りない、と言ってました。もうひとりは、勉強しなくても点が取れるからいい、と言ってました。俺は……」
少し考えて、やはりそれしかないので、思い切って言う。
「俺は、どうでもいいです」
「そう……」
目に見えて教師ががっかりとした。顔を背けて、深いため息を吐く。すぐに振り向いた彼は、気を取り直した様子で、けれどもわかりやすい作られた明るさで言った。
「ああ、……ごめん。変なことを聞いてしまって」
その笑顔が、『もう用はない』『そっとしといてくれ』と言いたげだ。
これはいけないと、アガリは慌てて口を開いた。
「あの、つまり、どっちでも……いいってことです。俺は、難しいなら勉強していい点が取れるように頑張ります。簡単でもいい点を取ろうと思います。俺にとっては、どっちでも同じです」
言ってしまってから、だから自分に訊いたのだろうかと、ふと思う。
「ああ……」
だが、それも期待した答えではなかったか、浮かべていた笑みさえ消して、眉をひそめていた教師は、ゆっくりと首を横に振った。そしてうつむく。
「そうか。すまない」
「いえ……」
おとなしく返事をし、無言で突っ立つ。教師がさりげなく背けた顔。背中が、自分を拒否している。いや、存在を認めてくれているかどうかもあやしい。
だんだんと腹が立ってくる。
つまり、なんなのか。
上に乗り、方向さえ示せば、尻も叩かず馬が正しい方向に走り出すと思っている。しかし、そうはいくものか。鼻先に人参が必要だとまでは言わないが。
生徒のことを実によく考えてくれている……ように見える。だが、実際は。
教師が生徒の機嫌を窺っている。生徒が気に入るようなテストは、決して生徒のためじゃなく、教師が文句を言われないためだ。
自分は生徒で、相手は教師なのだから、はっきりとした態度をとってくれればいい。そうしたらどう考えるかくらいは自由にできたのに。これでははねつけられもしない。どうして生徒が教師に容赦しなくてはならないのか。
(ウガアァァァアーッ……)
とか思い切り叫びたくなる。もちろん、そのときには熊のように両手をあげて。うっぷんもあるが、大声で驚かしたい、などと思う。ようするに自分はかまってほしいのだろうと思う。
教師相手に甘えるものではない。それはわかっている。教師も人間だが、だからこそロボットのようでいてほしい。おかしいくらいそう思っていた。……いた、のに。
甘えの中身。
胸に重く溜まっていたものが這い上がってくるような感じがする。義憤と、それから。
見知らぬ者……おまけにアガリは自殺があったことすらよく知らなかった……のことで『自分が』憤っているなどとは言えない。自分よりよほどつらく悲しい思いをした者がいる。それを奪うようなことはしたくない。だが、自然と思うこと……教師のくせになんてひどいことを言うんだ……という気持ちはあり、それはごまかしようがない。もちろん、横島の聞いたことが勘違いや聞き間違いではなく、本当のことだとしてだが。そして、それが他人事ではない理由もある。自分もだからだ。
自分もいじめられたことがあるからなのだ。いじめというほどのものではないと思う……それほどのものではない……からかわれただけ。だが、結局そういうふうに思っていて、だからこそ横島に同情し、かばうような行動に出ている。過剰に反応している。そして許してくれるだろうことを前提に、教師と生徒だからということを理由に、相手に感情をぶつけようとしている。だから、つい『俺は……』なんて余計なことを言ってしまった。
わかってもらいたかった。
甘えだ。自分は今、確実に憎しみをぶつけたがっている。受け止めてくれるはずだと思って。教師なのだからと。
だから、義憤だけではないこの憤りは、そうでないことへの怒りだろう。
頼りになるはずの相手が、自分を頼りにしている。自分も頼りにしたいのに。だから、こんなに腹立たしい。『そんなはずじゃない』と思う、当たり前の、甘え。
しかし、それが許される相手ではないことは、もはやはっきりとしている。
アガリはそれを考えてゆっくりとため息を吐いた。
そして、『ガア!』と脅かすかわりに、人間らしく言葉を出した。
「先生」
振り向いた教師は、『まだいたのか』といわんばかりの、驚いた顔をしていた。
それに構わずに言う。
「簡単なほうがみんな助かると思います。でも……後々のことを考えたなら、それほど簡単な問題にはならないかと」
「……ああ、まあ、それは……」
ぎこちなくうなずく。興味なさげに。それなら何故訊いたのかと思うが、きっとそこに理想があったのだろう。生徒の答えの理想が。そんなものは知ったことじゃない。
「先生……」
アガリは口から出ようとした言葉の続きを慌てて飲みこむ。
『先生はいじめをどう思いますか?』
教師に生徒が尋ねていいことではない。
答えを訊くまでもないということもある。『いいことだ』とは決して言わないだろう。目の前のこの教師は『悪いこともいい結果を生むこともある』といったそうだが、まさか生徒の前で同じことを言いはしないはずだ。『いけないことだ』 ……それ以外の答えなど存在しない。とくに教師の立場では。
(本当に『悪いこともいい結果を生む』なんて言ったんですか。生徒が死んでよかったと思っているんですか。犠牲にしたってことですか。知っていて見逃したってことですか。悪い生徒がおとなしくなれば先生としてはそれでいいんですか。犠牲になった人のことを笑って話せるような人間なんですか。死んだ生徒がかわいそうだとは思わないんですか。残念だとは思いませんか。周りの人間に悪いとは思いませんか。そんなふうな人間なんですか。それでいいと思っているんですか。本当によかったんですか。……いったい、何がよかったんですか?)
そっと首を振る。どれも駄目だ。
こういう困らせるようなことを言ってはいけないのだ。わかりやすく自分を劣悪に見せるならまだしも。
いい生徒でなければならない。そうでなければ見捨てられるだけだ。たとえ学校の窓ガラスを割って回ったところで、本気で怒られはしない。どうしようもないやつだと思われるか、頭がおかしいと怯えられるか、家庭が悪かったなどと変に同情されるかだ。普通の少年が普通に悩みを抱えて普通に憤っているのだとは思われない。そういうことをする者が学校にとって『いい生徒』ではないからだ。『いい生徒』が『普通』なのだ。前提だ。それから外れれば、すべてから外されることになる。後はない。
受け止める者がいない場所で、そんな甘え方は頭が悪いだけだ。
期待した型に合わなければ外される。なんでも一緒だ。そして外れると……嫌われる。
それが問題なんだろうかと考えながら、教師の頭の向こうの壁を眺める。
今日までは『いい人』だと……というよりは『平凡な人』だと思っていた。横島が聞いたという言葉を本当に言ったのなら、場所が場所だ、やはり本音だろう。いじめをよくないことだと言わなかったこの人は、いい人なんだろうか、悪い人なんだろうか。
おとなしい顔をしているのに、そう、羊のような……。だけど本当は汚い狼なのか。
(そういえば、嫌われてるんだっけか、俺は……)
ふっと浮かび上がった言葉……あれは本当だろうか?……に考えを集中させた、そのとき。
「君、君、えーと……」
目の前で声がして、焦点を合わせる。いつのまにか振り向いた教師がアガリの顔を覗きこむようにしている。いささか心配そうにぱちぱちと瞬きをしていた。
「はい?」
「いや……」
「ああ」
そういえば、『先生』まで口に出したんだっけかと思い出す。今さら取り消せないことを思い、改めて『先生』と言った。何か言わなければならない。
何かがするりと口から出た。
「先生はいじめられたことはありますか?」
言って『しまった』と思う。慌てて口を閉じるがもう遅い。これでは先ほど『いけない』と自ら封じた質問となんら変わりがない。これはいけない。
何やらめずらしいものを見るような顔をしていた教師は、とたん、途方に暮れた迷子のこどものような顔になった。
悲しげな羊の目。ぽつりと落ちた言葉。
「さあ……どうだろう。わからない」
「そうですか。それなら、いいです」
普段のアガリからすれば愛想がいいと言ってもいいほどの明るさで返して、こくんこくんとうなずく。いかにももっともだというように。そして『失礼します』もなしに背を向けた。
なんだか急にどうでもいいような気がした。そういう気になった。
「あの、君っ」
だが、教師が呼び止めた。未だ自分の名前を覚えてもいないらしい教師を振り返る。教師は何か気がかりな様子でもじもじとして言った。
「なあ……横島君とは友達なの?」
「はい」
「そうか……それはよかった」
アガリは教師の口から漏れた安堵のため息を聞き逃さなかった。
それが意味するものはわからないが。
ふと、思いついて言った。
「先生は『マザー・グース』はお好きですか?」
「ああ、いや、外国のほうは全然……」
「そうですか」
ぺこりと頭を下げた。
「失礼します」
そして逃げるように職員室を出た。
本当に走って逃げた。
+++++
(つづく)