メリーと子羊の先生。
職員室は一階にある。
たくさんの靴跡のついた汚れた廊下を歩く。これだけあると何かあった場合に犯人のものを特定するのが難しそうだな、などと思う。足跡は朝にちらついた雪のせいだ。
物騒な想像は先ほどの会話のせいかもしれない。
『それがどしたよ?』
横島の話を『ふん、ふん』と小さく相槌を打ちながら聞いていた須田はそう言った。
だから、と横島が顔をしかめて尋ねた。
『ひどいと思わない?』
『んなことねえべ』
苦笑してあっさりと言った須田を、横島が恨みがましい目でじーっと見据えた。
須田の笑顔がだんだんと力をなくし、やがてふいと顔を背けて、気まずそうな様子で言った。
『まァ、それはなー。けど、イッシーはそんな悪いヤツじゃないぜ? だいたいカナメちゃんのことでもねェじゃん。カナメちゃんに言ってたわけでもないっしー』
それはそうだけど、と横島が不満げにぶつぶつと言う。須田は訳知り顔で言った。
『先生たちって結構そういうこと言うよな』
結構そういうことを言う者たちの縄張りに、今、自分は乗り込もうとしているわけだ。
縄張りというか、巣窟というか。
学校という場所は教師と生徒がいるわけで、そのふたつのタイプでは圧倒的に生徒が多く、その分、生徒のものである部屋が多い。教師に自分の担当のクラスの教室でくつろげといっても、なかなかできないはずだ。よほど好かれるような者か嫌われるようなタイプの者ならともかく。教室では、生徒にとってやはり先生は『来訪者』になってしまう。ところが、職員室だけは明らかに教師たちのものだ。
「失礼します」
開け放たれた扉の前に立ち、入るときに中に向けて一礼をする。この寒いのに職員室の扉は開かれてあった。たまたまか、それともわざとか。それがそれほど問題にならないのは、暖房がついている上にストーブまでつけているせいか。おかげで中は暖かかった。ぜいたくなようだが、左右を玄関に挟まれた職員室は風が入ってきてとても寒いので、仕方がないといえる。学生の中には『ずるい』と言う者もいるが、玄関を横切って廊下を歩いただけで手の指がじんじん痛んで熱く感じられるほどの寒さでは、ストーブが無ければとうてい耐えられないだろう。
扉を閉めるかどうか少し悩んで後ろをちらと振り向き、まだ生徒が来ることを認めて前に向き直ったアガリは、ちょうど自分に向けて手を振っている教師に気付き、それが第一の目的の人物であることを確認して、足を踏み出した。
自分と同じような黒いツンツン頭……自分より短いが……をしたジャージ姿の男を目指し、アガリは職員室を横切り、ずんずん進む。
「佐東先生」
冗談で『サド先生』と生徒が陰で呼ぶこともある体育教師は、椅子にふんぞり返り、腕を組んで、やってくるアガリを眺めてニマニマとしていた。
アガリが横に立つと、体育教師は椅子を回して体をそちらに向け、立ちかけるような格好で、興味津々という様子で言った。
「どうだ、シノハラ。やってきたかー?」
「はい」
手に持っていたレポート用紙3枚をホッチキスで止めたものをうやうやしく差し出す。
「どれどれ……」
教師は受け取り、それを膝の上に置いて、レポート用紙に目を落とす。
じろじろと眺める教師の口から『おおっ? ううーん、これは……ほうほう』と絶えずつぶやきが漏れる。それは美術鑑賞のようで、体育のレポートに関するものとは思えない。『体育はいい肉体を作ることが大事』という主張を持つこの教師は、正しい運動のしかたにもこだわっていて、こうして動きを絵で説明させる宿題を出す。よくできた肉体を見るためなのだから、美術鑑賞に近いのかもしれない。彼にとって、体育の授業とは、今どれほど運動ができるかではなく、どれほど正しくやり方を覚えられるかなのだ。これは同時に、たとえば横島のような、あきらかに同年代に比べて肉体的に劣っている者……決して本人のせいではなく、生まれつき体の小さい者や体力のない者や何かの障害を抱えた者など……を『運動ができるかできないか』という枠でくくらずに評価できるという点で優れている。確かに、生まれつきの体の特徴など、本人がどうこうできるものではないし、差があるのは当たり前なのだ。皆に同じことをやらせて『できない者は悪い』というのでは不公平だ。個性を認めるということで、そういうところはいいとアガリは思う。
だから、無論、うまく絵が描けない者に対しても容赦はない。上手下手ではなく、動きが正しく描けているかどうかということであるが。体育の試験だって実技もあれば筆記もあるし、保健もある。決してこれだけが成績を決めるものではないからこそ厳しいのだ。ひとつひとつが容赦ないのだ。減点方式でどんどん落とされる。
アガリは直立不動で評価を待つ。その結果は思いがけないものであった。
「シーノーハーラー」
やがて目を上げた体育教師はわざと低めた声を震わせて意地悪げに言った。
「だーあぁれーえぇにやってもらったんだあ、こら」
「違います」
当てる気のないらしいゆっくりとしたパンチを身をひねって避け、アガリはきっぱりと言う。
「自分でやりました」
教師は疑いの目でじろじろとアガリの顔を見る。
「おんまえなぁ、猿がいきなり人間になるかあ? んん?」
それは自分の絵がそうなったということか、それとも自分がそうなったということか、どちらの意味だろうとアガリは悩む。どちらにしても。
「……隣に人間がいればそれらしくなります」
「ああん?」
「兄が見本の絵を描いてくれたので、それを見て描きました」
「ほう」
サド先生がニヤニヤする。
「なんだ、シノハラは高校生にもなってオニイチャンに宿題やってもらうのか?」
そんなことを言われても平気だ。
「兄にも同じことを言われました」
生真面目にアガリは返す。二回出してもOKがもらえず、あと2日しかなく、『ナニカノ細菌』からようやく『ナントカ星人』になれたのを、2日で『人間』に変化させることができるかどうかわからず、兄に助けを求めたのだ。
そしてさんざからかわれた。
教師が目を丸くしてしげしげとアガリを眺め、首を傾げて、訝しそうに訊く。
「教科書に写真あったろ? 見なかったのか」
「いえ、前回までのはそれを見て描きました」
『ならどうして?』と困惑顔で教師が黙っているので、アガリは必死に説明しようとした。
「写真だと……絵にするときに……どうしていいかわからなくて」
『写真』は『写真』にしか見えない。それが人間で、たとえば右向きなら、隠れた左のほうがどうなっているかなど想像ができない。結果、手が変なところから出たり、足がねじ曲がったりする。そしてやっぱり平べったくなる。アガリのような者が絵に描くには、絵の見本がいるのだ。それで、『こんな感じ、こんな感じ』と兄が教科書の写真を絵にしてくれた。その後、もちろんちゃんと自分でそれをレポートに描いた。
目を閉じ、首を傾け、うん、うん、と小刻みにうなずいて聞いていた教師は、最後にひとつ大きくうなずいた。目を開けると、ぱんと己の膝を叩いて、握りしめていたレポート用紙を机の上に置いた。
「まあいいや。OK! よくやった。あと、出してないやつに出せって言っといてくれ。あと2日しかないから」
「わかりました」
深々と頭を下げる。
やっと受け取ってもらえて、ほっと息を吐く。胸に安堵とともに『俺はやったぞー!』という勝利の喜びがこみ上げてくる。
OKがもらえたのは、ちょっと同情もあったのかもしれない。それでもこの先生がOKというのだから、OKなんだろう。『よくやった』とお褒めの言葉つきだし。
しかも仕事があるのかさっさと解放された。教室で横島たちと話し合っていたせいで、結局時間が遅くなってしまって、休み時間もあと少しなので、そのせいもあるのかもしれない。
自分もぐずぐずしていられない。アガリはその場でささっと辺りを見回す。
向かいの少し離れたところに第二の目的がいた。
もう一度、佐東先生に向かって深く頭を下げ、『失礼します』と言ってから、そちらへ向けて歩き出す。
「石川先生」
ほとんど机にくっつかんばかりに顔を伏せていた現国教師がぱっと起き上がり、振り向く。その机には何かの本が開かれてあった。
須田たち一部の生徒が『イッシー』と呼ぶらしいこの現国教師は、アガリを認めると目をぱちぱちさせ、少し困った顔をした。
「あ、ああ……えーと1組の」
「四ノ原です」
アガリが察して名乗ると、不安そうな顔に安堵が広がった。だが、それは一瞬のことだった。またすぐに教師の顔が曇る。
(つづく)