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メリーと子羊の先生。




「『生徒がおとなしくなって』って。……それはねー、僕だってそうだと思うよ? 自殺が『悪いこと』だっていうのは、学校側にとかじゃなくて、もちろん『哀しいこと』だって意味だよね。そういう感じだった。それに、確かにいじめが少なくなったらいいよね。わかってるけど……なんか犠牲を求めるようなそういう言い方って嫌じゃない? 怖い人だなーって思って……。あの先生、外見からしてなんか変だよねー。山羊みたい。それも黒いの。ね、だから、なるべくかかわりたくないんだ。そういう先生には好かれるのも嫌われるのも怖いもん」
 その問題の教師にノートを渡すよう頼みながら、そう平然と言い放つことに、さすがにアガリも引っかかる。
「俺はいいのか」
「だってー、ウエ君はその先生に怖がられてるじゃなーい」
「そうか?」
 ぱちぱちと瞬きをして、横島は意外そうに言う。
「ほら、石川先生はどうみたって弱そうじゃない? だからウエ君みたいな体育会系は苦手なんだよ。見るとびくびくしてるし。全然当てられないよねー、教科書読むのも」
「嫌われてたのか、俺……」
 絶句。
 そういえば、と、授業中、目が合うとスッと逸れる先生の視線を思い出す。気付いてはいたが、言われるまでなんとも思っていなかった。そういう人なんだろうと思っていた。それに、自分は何も悪いことをした覚えがなかったのだから。
 しかし、そうとわかると、猛烈に腹が立ってくる。
 外見だけでかかわったら何かされると思われていたなら心外だ。何か、相手が一方的に悪いことをしない・されない限り、そんなことはないのに。だいたいが教師なのに、自分より十以上も年下の生徒に怯えているとは。……しかし、確かにたちの悪い生徒もいて、アガリが近づく気にもならないような者もクラスメイトの中にいる。もし、そういうような者に今までに嫌な思いをさせられたことがあったのなら、怖くもなるかもしれない。自分はまるで疑われたようで、気分は悪いけれども。
 軽く目を閉じ、自分自身に言い聞かせるようにして、怒りを内で押し殺し、ゆっくりと目を開く。
 絵を鑑賞するかのように半目閉じた顔でアガリを見ていた横島が、急にうんざりとした様子で顔を背け、苛立たしげに言った。
「でもぉ、ウエ君だけじゃないと思うけどー。あの先生、なーんかおどおどしてるもん。でも、僕なんかはほら、ちっちゃいからさー」
 手振りで『小さい』と自分の体を示す。そして、アガリに同意を求める視線を送った。
「ね?」
 小首を傾げて尋ねられ、アガリはわからないまま機械的にうなずく。
 確かに横島は背が小さいけれど、それがどうだというのだろう。
 アガリは自然と手にしたノートに目を落とす。女めいた細い字で書かれた『現国』という文字と、持ち主の名前。
 そういえば、生徒にとって石川は好きにもならないが、嫌いになるほどのこともない相手だとしても、石川にとってはどうだろう。やはり、ひとりひとり違うのだろうか。
 教師の数は少なく、生徒にとってそのぶん好きな教師・嫌いな教師は分かれるが、それは個性を認めてのことであって、教師のほうは、生徒の数が多い分それほど好き嫌いはないだろうと思っていた。みんな同じように…… それこそ舞台に立って観客みんなをじゃがいもと思おうとするように…… 見えるものではないかと。立場的にも、教えられるほうは相手の性格などが重要だとしても、教えるほうにしてみれば……塾などの個別指導は別として…… 大勢を一度に教えるのだし、結果、同じ教え方をするしかないのだし。生徒個人に問題どころか、人格があるとさえ思われているかどうか怪しいと思う。
 だが、そう思いたいだけなのかもしれない。なぜなら、そうでないと『人間的』なので。
 アガリは、『教師は金をもらって教えている』『生徒は金を払って授業を受けている』という割り切った見方をしている。そうである以上、それを滞らせるような…… やたらと生徒のウケを狙ってつまらないおしゃべりをして授業を遅らせる先生や、むやみやたらと生徒の生活にまで入ってこようとする先生や…… そういうことさえ無ければどうでもいい。よほど何か信頼を失わせるようなことでもない限り。たとえば電車でチカンをしていたとか、そういうことさえ無ければ。それはもちろん軽蔑すべき行いであり、犯罪であり、言語道断だが…… それ以外に、『教師もしょせんひとりの人間だ』などと言われるようでは困る。
 教師にはあまり人間的であってほしくない。余計な感情は勉強の妨げになる。積極的に人生の教師になるとか、そういったことをアガリは教師に期待してはいなかった。もちろん保健室の先生はやさしいほうがいいし、図書館の先生は……アガリの学校は図書『館』だ……いろいろな相談ができるほど物知りなほうがいい。ただ、授業を受け持つ教師には、それほど目立ってほしくない。もちろんいい意味 ……面白い授業をするとか……は大歓迎だが。
 そもそも『金を払っている』ということで、生徒の誰にでも平等でなければいけないという都合を考えれば、機械的であることが一番いいのだ。
 教師は教師。それ以上でもいいが、決してそれ以下ではあってほしくない。それならば、生徒は様々なのだから、教師はいっそ個性がないほうがいい。そう思うのだ。
 ……とすると、石川は自分にとってある意味では『いい教師』なのかもしれない。いや、『だった』というべきか。もう何かの判断をせずに見ることはできないだろうが。
 アガリは考えるのをやめて、顔を上げて横島を見る。
 天井を見上げた横島の口から『あーあ……』とため息まじりの声がこぼれ、すぐに疲れたそれは欲持ちはっきりとした意志ある者の声に変わった。
 アガリに向けてにっこりと笑う。
「でも、やることはやらなくっちゃ!」
 アガリはふっと微笑した。
「そうだな」
 横島は石川が嫌いだということで、それでもそれなりに妥協して、出さなくてもいい宿題もきちんと出すつもりなのだ。そこは尊敬できる。
 それぞれの教師の下で、ときにやりにくさを感じることはあっても、アガリもそれなりに努力している。でもそれは、自分が思うだに鈍く、己の感情に気がつかないか、無意識に気付かないようにしているか。苦手ではなく、『嫌いなんだ』とはっきりわかってしまえば、やはり意識して、その教科が手につかなくなるかもしれない。そこを横島はきちんとやるというのだ。
「わかった。出してきてやる。俺はそんなこと気にならないから」
 親切心を出してそう言うと、何が気に障ったか、横島がムッとした様子で口をとがらせて言った。
「だってねー?」
 そのおっとりした顔に似つかわしくないはっきりとした嫌悪の情が表れた。
「石川先生は『いじめられっ子は死ねばいい』みたいな考え方してるってことだよね」
「それは……」
 じりじりとせまる横島を手でさえぎる兼なだめるようにしなが
ら、アガリは頭の片隅で思う。
 知り合った頃にいじめられていた横島は、そのとき中学一年生だったが、それ以前の小学校でもいじめられていたらしく、その年にしてすでに相当の憎しみを胸に育てていた。一応アガリという『友人』ができてからは、はっきりとしたいじめは少なくなった。からかいは絶えないが、それでもましになった。だが、いじめがなくなったからといって、そう簡単にいじめられていた『とき』を忘れることはできない。トラウマといってしまえばそれまでだが、まさしくあのときにとらわれているようなものだと、つらい気持ちを打ち明けられたこともある。だいたいがいじめが理不尽なもので、説明がつかないから……太っているとか女っぽいという理由はこどもでもおかしいと思う者は思う……片付けられないのだ。またいじめられるかもしれないと思うし、そこから抜け出せたのだと認められる何かがなければ、済んだことだと済ませられない。
 横島が石川先生の言葉に傷ついていたんだな、と初めてアガリは気付いた。
 どうりで攻撃的なはずだ。
「僕、いないほうがいい?」
「まさか」
 思いもよらぬ言葉にぎょっとして、考える一方からうっかり言葉がこぼれる。
「おまえがいてくれないと俺が困る。そういう……いじめをするようなやつより、ずっとおまえのほうがいい。いじめるほうが悪いんだから、死ぬならいじめっ子のほうが」
 おっとっとと慌てて口を閉じる。これは言いすぎだ。
 だが、横島はほっとした顔になり、ぎゅっとアガリの腕にしがみついた。
 アガリが驚いて呆然としている間にさっと離れて、明るい笑顔を見せて言う。
「よかった。ねー? いじめられっ子が死んだから、いじめっ子が静かになって、それで『よかった』って、ちょっと信じられないよ。それはただの結果じゃない。だいたい止めもしない人に言われたくはないんだよねー。自分が何をしたわけでもないのに、まるで手柄みたいにさぁ。思い上がりもいいところだって思わなーい?」
 そうかもしれない。
 アガリはあいまいに『んん』と口の中でうなる。
「彼は一度でも『いい』結果を出そうと努力したことがあるか、僕は疑わしいと思うな」
 それもそうかもしれない。
 アガリはまた『んんん』とうなる。
 だが、そうではないかもしれない……わからない。
 いつもたいてい遅くなるアガリの反応を待たずに、横島がさらに言い募ろうとした。『味方を得た』という喜びを全開に。
「だいたい石川先生はねー……」
「なに?  イッシーがどうかした?」
 そこにひょこっと現れたのは須田だ。
 横島は口を開けたまま、眉根を寄せて、くるりと振り向く。須田が真横に立っていたためだ。それまでの会話の内容が内容で、須田には、たぶん訝しげなだけでなく、敵意のこもった視線に見えたことだろう。まず空気が違う。
 アガリは距離があったので少し首を動かしただけだ。だが、これまた白い目に見えたことだろう。虚をつかれたのだ。
『…………』
 話していた内容の気まずさもあり、ふたり、黙ったまま固まってしまった。
「どした? なに? 俺……?」
 須田の指が自分をさし、首がふたりに向かってのばされる。
「すんませんねェ、邪魔?」
 そのけんか腰の態度に、アガリはぱっと開いていた口を閉じ、ゆっくりと首を横に振って答えた。
「いいや、別に」
「……ねー、別に」
 横島がアガリのほうを向いて上目遣いに同意を求める。アガリはこくんとうなずく。
 須田がぐるりと回って机を挟んでふたりの前に立った。
「なんだよ、ヤな感じ。言えよ」
「いや、だから別に、おまえのことじゃない」
「マサ君なんにも関係ないよー」
 横島がぱたぱたと追い払うように手を横に振る。そしてもう片方
の手で、アガリの脇をぐっと押した。
「ほらぁ、ウエ君、早く行かないと、休み時間もったいないよー?」
 ぐりぐりと押し込まれる拳を身をひねって避け、レポートとノー
トを手に、ためらう。
 『ええええっ』とか言いながら、須田がへなへなとその場にしゃがみこんで、アガリの席に肘を置いてしまっていた。
 頬杖ついて、ふたりを見上げ、少し気がかりそうに言う。
「イッシーのこと話してたよな。なに? アイツなんかした?」
 アガリは無言で横島を見る。横島は試すように軽く言った。
「なーんかときどき気持ち悪くなーい? あの先生」
「べえっつに。んなことねーんじゃん?」
 須田は興味なさげに否定した。それが横島の気に障ったらしい。
「あのねー!」
 『ちょっと椅子借りるよ、ウエ君っ』と椅子を引き出して座ってしまい、須田に説明を始める。はじかれた形のアガリは、熱心に話すふたりの間に立って、少し迷った末、隣の椅子を引っつかみ、主がいないことをいいことに勝手にガタガタと引き出して、自分の机の横に設置する。そしてどさりとそこに腰を下ろした。
 やはり気になるのだ。



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(つづく)
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