メリーと子羊の先生。
自分の席に戻って、横にかけてある鞄をよいせと机の上に引き上げ、そこからレポートを取り出す。鞄を元に戻すと、いざと扉に向かおうとした。その背中を呼び止められた。
「ねー、ウエ君っ。職員室行くならついでに出してきてほしいものがあるんだけどー」
後ろからタタタッと追いかけてきた横島の手にノートがある。アガリが受け取ることを確信しているようで、追いつくとアガリの手に押し付けるようにする。
「あのねぇ、これ、このまえ休んだときのー、現国の宿題なんだけどー……」
戸惑い、手を出さないまま、アガリは差し出されたノートを見つめる。
横島が不安に思ったのか、声が強い調子になる。
「これを石川先生に。……出さなくてもいいって言われたんだけど、でも出したほうが成績がいいと思うから。……ねーえー、お願いできるよね?」
「別に構わないけどな……」
ぼんやりとノートを受け取る。
むしろ体育教師のからかいから早く逃れる言い訳ができていいかもしれない、と頭の隅で思う。『他に用があるから』とかなんとか。しかし。
困惑に目を細めて横島を窺い見る。
「こういうの……自分で出したほうがよくないか?」
少しためらいつつ口に出した。
宿題は自分で出すべきだとか、そういう理由ではない。迷惑だとか、そんなことでももちろんない。ただ、同じ場所に行くと決まっているのなら、一緒に行けばいい。とくに行けないような理由もないなら。
アガリはひとりで行動することが多いが、だからといって他人と一緒に行動するのが嫌というわけではない。ただ、ひとりなら、共に行く相手が『行く』だの『行かない』だの決めるのを待たないで済むというだけのことだ。そして、横島は『行く』、その理由があるのだから。
横島の行けない理由として、花札はないだろう。他に用があるなら花札をやろうとはしないだろうし。須田だって共に過ごす相手がアガリたちだけだというわけではないのだから、そのへんの気遣いは無用だし。
むしろ自分で行く理由ならあるように思う。出さなくてもいい宿題を、自分の成績のためにあえて出そうというのだから、自分で持っていって印象付けたほうがなおさらいいだろう。学生ならではの計算だ。
知っている限りでは自分よりよほど計算高い相手の不自然な行動に戸惑いを覚えざるを得ない。
内心で首をひねりながらアガリは言葉を続けた。
「つまり、俺がついでに渡すよりは……」
「んー、それはそうなんだけどー……」
ノートを渡した手を空中に止めたまま、横島は上目遣いにじっとアガリを見て、ふっとその視線を床に落とし、手を後ろに回して、もじもじとして言った。
「僕ねぇ、あの先生ちょっと……」
「石川?」
言いかけてやめて、またアガリを上目遣いに見る。暗に意味がわかるだろうと訴えられて、アガリは現代国語を教えている教師の石川孝を思い浮かべる。
真ん中で分けただけの黒髪、特徴のない眼鏡をかけ、背は普通、しかしやせているので少し高く見えるが、地味なスーツを着て、なんら目立つところのない男。性格もまた、よく言えば穏やかでやさしいが、それだけだ。なにひとつ面白いところがない。まだ三十前と若いが、そういう若さを感じさせない。とにかく興味を抱かせない人物。
彼の声にかかればどんな文学も子守歌となり、みんな寝てしまう……というのは少しおおげさだが、メールをしたりしゃべったり本を読んだりと、生徒はみんな好き放題だ。
そんな、好きにもならないが、嫌いになるほどのこともない相手……それなのに。
アガリは訝しく思うより、もはやぽかんとしてしまって、横島を黙って凝視する。
横島はためらった後、つっとアガリのほうに体を傾けて、小声で言った。
「去年……ううん、もう二年前かぁ。この学校で二年が自殺したの、知ってる?」
二年前というと、自分たちが高校に入る、その前の年になる。中学三年、この高校を受験することは早いうちに決めていたが、調べたことは学校の設備や授業のことばかりで、そんなことまでは知らなかった。
アガリは小さく首を振った。
「いや……」
だが、続きを待たず、いっそう声を小さくして横島がささやく。
「あれね、いじめが原因らしいよ」
そう言われれば、そういう話を聞いたような気もする。けれど、詳しくは知らない。アガリとしては、きちんと学ぶべきことを学んで、希望の大学に受かればそれでいいのだ。冷たいかもしれないが、自分に関わりのない出来事にまで興味を持って探ろうとは思わない。
「ほう」
どう返していいかわからず、困惑して相槌を打つだけにする。
自分の言葉が引き起こす反応を見ようと待っていたらしい横島が、少し目を見張って、それから『はぁー』となにやら大きなため息を吐いた。そして、声を普通の大きさに戻して、今度は軽く言った。
「そういうことがあったのっ。それでねー、このあいだ職員室の前を通ったとき、たまたま聞いちゃったんだ。他の先生と話してた石川先生がねー……」
そこまで言って、ちょっと口を引き結び、横島は眉をひそめ、考えるようにしてから、ゆっくりと言った。妙に感情を殺した低い声だった。
「『あの事件があってから、いじめが減りましたねぇ。悪いことも、いい結果を生むんですねぇ。よかったですよ』って」
澄まして言ったその顔が、一瞬、苦いものを飲んだかのようにしかめられた。それだけでじゅうぶんだった。
その言葉を気にしているんだろうということはわかったが、そんなことをあの先生が言うなんて、『信じられない』という気持ちが強い。そもそも教師ともあろう者が吐く言葉とは思えない。
そんなことを、よりにもよって、学校の中で話しているなんて。
アガリは横島をじろじろと横目で見て尋ねる。どこかに誤解がないだろうかと。
「……本当に自殺の話だったのか?」
「本当だよー! それもちゃんと聞いたんだってばー!」
横島は憤然として言った。
(つづく)