メリーと子羊の先生。
柔らかな光が差し込む午後。
暖房がかかっていたために暖かく、また乾燥して少し息苦しいくらいだった教室も、授業が終われば生徒によって……空気の入れかえに窓を開け放つ者もいれば、トイレや学食に行こうと扉を開け閉めする者も大勢いて……ほどよく調節されて、昼食を終える頃にはたいていの生徒にとって気持ちのいい温度になっている。降ってくるような暖かい空気と、それをとどめることなく流すきれいな空気と、両方あってちょうどいい。
食後の教室は、満足しきった生徒たちの、この時期特有の気だるい空気に満ちていた。授業が始まるまでにはまだ間がある。とはいえ、教室を出れば寒く、氷のドームのような廊下をどうにか抜けて目的の場所に着いてしまえばたいていそこは暖かいのだが、また寒い思いをして帰って来なければならないのだし、もちろん雪の校庭に出ようなんて物好きはなかなかいない。トイレに行くのもしぶしぶといった様子だ。かといって、教室の中で何かしようといっても、寒い季節に暖かい室内、まるでこたつで丸くなる猫のようにのんびりとしている。一年の教室は受験の緊張感もなく、聞くだけでもうんざりとする話題の、自分たちは主役ではないという気の緩みもある。『暇だ』などと口に出すことすら面倒くさいという雰囲気だ。
教室の片隅で仲間と共に昼食を取っていた四ノ原上(アガリ)も例外ではない。
カツサンドの入っていた袋を丁寧に折りたたみ、これまた小さくしたコンビニの袋に挟んで、ズボンのポケットに押し込む。『持ってきたゴミは持ち帰れ』、この学校にはそんな美しい決まりがある。それでも捨ててしまう者が多いし、そうでなくともコンビニや駅などで捨ててしまうという、かえって問題となる点も多い。だが、とりあえずそうである以上、アガリはそれを守っている。
落ちないよう、ギュッギュッと押し込んで……後で鞄にしまうが……アガリは覚悟というよりは諦めのため息を吐き、つぶやく。
「さて……と」
寒いからといって、いつまでもぐずぐずしているわけにはいかない。どうせ行かなければならないのだから、早いほうがいい。
椅子から腰を浮かしかけ、ハッとして、今まで一緒に昼食を食べていた仲間を眺める。何か言わなければ、と。
なんと説明しようかと考えていたために間が空いたアガリに、それに気付いた横島要が意外そうに目を見張り、好奇心をあらわに尋ねた。
「なぁに? どっか行くのー?」
「ああ、職員室」
ホッとして答え、中途半端に構えていた腰を上げる。
「ハァーッ?」
あからさまな不満の声を上げたのは隣にいた須田正常だった。見れば、その手に花札がある。須田がハマり、ここのところ三人で時間を潰しているものだ。
「マジかよ、なんだよ、せっかくやろーと思ってたのに……」
ちなみに、休み時間内で遊ぶため、単純なルールを作って、もちろん金はかけていない。
「ふたりでもできるだろ」
「そりゃそーだけどさァ」
つまらなそうに言って机に札を広げ出す須田から目を逸らして……見ればやりたくなる……アガリは横島のほうに目を向ける。
横島はきょとんとしていて、アガリと目が合うと、首を傾げて言った。
「どーして職員室に行くのー?」
須田が興味なさげに決めつけるようなことを言う。
「なんか怒られるようなことでもしたんじゃね?」
アガリはフンと鼻を鳴らした。
「するか、おまえじゃあるまいし」
「ひっでェ!」
須田は札を握りしめて、蹴られた犬のような目で見上げる。
こういう絵をどこかで見たことあるような……と思い、じろじろと見て、アガリはそれが『マッチ売りの少女』だと気付く。
あわれみを誘う情けない顔で、悲しみに高くした声で、須田がみじめっぽく訴える。
「怒られるようなことなんてなんもしてねーっつの」
「してるだろ」
自分でもわかっていて言っているのだ。それを知っているアガリは冷たく返す。『茶髪にピアス』でじゅうぶん怒られる。事実、須田はよく教師につかまっている。
「けどさ、ウエ君が職員室ってめずらしいよねー?」
まるでふたりのやりとりが聞こえていないかのように横島が割り込んで言う。
須田が一気に仏頂面になり、『はいはい、悪かったな、めずらしくなくてよ』とそれでも少しおどけて言った。
アガリは説明しようとして、わずかにためらい、小さな声で答える。
「この間の体育のレポート……俺、再提出で」
「ああ、あの動きを絵で説明するの?」
「あー、アレか……」
忘れていたらしい須田の笑顔がかたまり、急に机に突っ伏すと、だだっこのように騒ぐ。
「やっべ、俺、やってねェーッ!」
たいして横島は得意満面、胸を張って言った。
「僕、とっくに出した。先生に『すごい』って褒められたよー。絵、だけだけど」
「カナメちゃん、そーゆうの得意だもんなァ。いいなァ、俺のもやってくれよォ」
「無理」
はっきり一言で切り捨てる横島に、アガリは(駄目じゃなくて無理なんだな……)と感心する。『えー、そんなこと言わないでさァ』と、どこまで本気なのやら必死にすがってみせる須田の声を聞きながら、自分のことを考えて恥ずかしいやら悔しいやら、複雑な気持ちで言った。
「俺なんて二度目の再提出だ」
「ウエ君、絵、苦手だもんねー」
「ああ。最初は『何が描いてあるのかわからない』って突っ返された」
「へえー」
「二度目は『宇宙人のリンボーダンスを描けと言ったわけじゃない』と……」
走り高跳びの跳び方を説明した絵だったのに。もちろん人間の。
「マジでっ? すっげ、才能じゃん!」
大喜びで皮肉を言った須田が、アガリの顔を見て、急に妙に同情的になり、しみじみと言った。
「っつか、体育で絵を描けってありえねーよな。評価に入れたらマジでキレるぜ、俺」
『な?』とふたりに同意を求める。
横島はしかめ面をして言った。
「やらないのは確実に評価に入ると思う」
こちらは絵の成績がいいからだ。
一方、よくなるまで再提出のアガリも、絶句している須田に冷たい目をくれてやる。
「俺もそう思う」
叱られたように身を小さくしていた須田は、やがてひょいっと肩をすくめた。
「あー……まァ、いいや。そのうち出すわ。シメキリっていつだっけ?」
「今週の金曜日」
「げっ、マジで?」
『あと2日しかねェのかよっ』と口では焦りながら、須田の腰はしっかりと椅子に落ち着き、手のほうは相変わらず札をいじっている。そんな様子から、これは諦めているのかもしれない、と思う。
アガリは思い切り説教したくなったが。
「ちゃんと出せよ。早いほうがいいぞ。提出日が最終だし。俺もこれで受からなきゃまずい」
そう、とりあえずは自分のこと。出した分だけましだとはいえ、まだ受け取ってもらえていない。
はぁとため息を吐き……また生徒にやけに親しげな体育教師にからかわれるのかと思うと気が重い……アガリはその場を離れて自分の席に向かった。
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(つづく)