木と星。
「おまえさぁ、家を出るとき見られてないよな?」
「ああ……たぶん」
うっかり、何も言ってこなかった。忘れていた。再婚で母親はできていたが、今までいなかったせいもあり、できたが相手がしょっちゅう留守にするせいもあり。そうでなくとも、たとえ外出を告げることを忘れていなくとも、兄のあのメールじゃ説明しようがない。下手に何か言えば心配させてしまいそうだし。
そこでアガリは『ああ……』と思った。
それであのメールなのだ。あの内容ではアガリには何も言えない。わからないのだから。気付いた母親に何か尋ねられても、何も答えようがなかった。ただ、兄が『迎えにおいで』というだけで。それを素直に答えていても、兄はごまかしようがあっただろう……まあ、酔っているということはバレるにしても、それ以上あまり心配されるようなことはない……はずだ。兄の説明次第で。
『気付かれていないはずだ』と言うと、兄は軽く手をあげて真面目な顔で言った。
「じゃあ、オレは存在しないってことで」
「……存在すら……」
そこまでの必要があるのか。
よく見れば、兄の目がどんより暗い。
乗せて連れて帰ったら実は存在しない……なんて、まるでよくある怪談のようだ。
(そんなことができるかっ)
内心で怒鳴りつけ、だが無言で、仕方なくその方向で、とおとなしく背中を差し出す。
言いたいことはわかる。『ユイちゃんはいい子ね』と事あるごとに言う母親に、この本当に『昔いい子だった』兄は、みっともなく酔っ払った姿を見せたくないのだろう。それだけで過剰に心配しそうな母親だし。しかし、存在すら消してしまいたいほどの罪悪感を抱えているというのは……。
だから云々せずに背中を向けた。これで乗ってもらってなんとか帰りつこうと……先ほどの重さでは難しいが、このままだと素直に肩を借りるというわけでもないだろうと……首をねじ曲げて窺った顔は、心底嫌そうなしかめ面だった。
「ええー……。なんかアレだけど、今日はオバケな気分だから、それなりに扱ってほしーなー……」
ぐちぐちと言う。
「それなりって……」
「オバケっぽく?」
「オバカっぽく?」
わざと間違えて聞き返すと、酒のせいもあるのか白い顔を真っ赤にした兄は、わりと本当っぽく腹を立ててみせた。
「オーバーケーだよっ。無理やり覆い被さるオーバーケーッ。すすめられたら意味ないんだよっ」
「……兄貴。悪いが、その全部が無意味だと思……」
「うるっさいなーっ」
立ち上がりかけた背中にがばりと覆い被さる。耳元に、酒臭い息と、低い声。
「いいか、オレはいないと思え」
「いないにしては確かな重量感」
「れいてんごぐらむ重いだけだ」
0.5グラム……いったいなんの話だ。だいたい……。
アガリはむすっとして言った。
「俺はそんなおばけ聞いたこともないぞ」
だから付き合うこともない、そう言いたかった。
「あ、そう?」
背中の兄は何故かとても嬉しそうな笑顔を見せた。
赤くなった頬と、大きな瞳がやさしげに細められていて、なんだか可愛らしい。ただの酔っ払いとは思えない。ふっくらした唇が小さくとがらされている。
さっと目を逸らしたアガリの背中にずしっと体重がかかってくる。
「『おうてけー』と『おいてけー』ってのは、『負ーうーてーけぇ』って、酔っ払って道に倒れていて『背負ってけ』っていうのか、『置ーいーてーけぇ』って、金品を置いてくよう要求する強盗かもしれない、と」
「さっぱりわからん」
「だからぁ、『おうてけ』ってのが酔っ払いで、『おいてけ』ってのが実は強盗で……」
「そうなのか?」
振り向いて真顔で尋ねると、神妙な顔をして兄は首を振った。
「いや、知らない。実はわからない。本当はコレ、怪談話なんだけど、そっちのほうが聞きたい?」
そうか、怪談話なのか……と思いつつ……本当におばけだったのだ……アガリはしっかりとうなずく。冬だけれども、街はクリスマス間近のロマンティックムードだけれども、そっちのほうが身近ならそれもいいじゃないか。兄が話してくれるというのだし。家に帰るまで、暇だし。
ユイイチは少し顔を歪め、『物好きだなー』とつぶやいた後、ふと何か思いついた顔をして黙りこみ、それからある方向に指を差した。
「いいけど、じゃあ、あっち行ってくれる? ちょっと寄りたいところあるんだ」
「お母さんにバレないよう、早く戻るんじゃないのか」
「んー、それはそうなんだけど、いいじゃん、ちょっとくらい」
アガリがいないことに気付けば、戻ったときに見つかるかもしれない。少し不安に思ったが、本人がそう言うならば文句はない。
「行きながら話すし、案内するから」
「わかった」
じゃあおぶって行こうと、後ろに腕を回し、どれだけできるかわからないが、兄を本格的に背負おうとした。すると、するっと兄が背中から降りる。そして横に立った。
「あー、いいや。冗談だから。ってゆーか、本気でおぶる気だったのか、おまえ!」
「いや、本気は兄貴だと……」
まだ背負おうと手をのばすアガリを手で制して、ユイイチはさっさと歩き出した。
「いや、いい。無理だから。よろけたら支えてくれ。後はいい。自分で歩けるから」
スタスタと歩く兄の背中を見て、なんだよ……とアガリは胸の内で思う。プライドの高い兄が『背負ってくれ』とそこまで言うほど、酔って危ないのかと思ったのに。
憮然としてついてこないアガリに気付いたか、ユイイチが振り返る。
「ごめんな。……ちょっと甘えてみたかったんだよ」
アガリはハッとして、街灯の白い光の中の兄を見る。
ふふと小さく笑った兄の顔は、気のせいか、酒だけではなく赤かった。
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(つづく)