球根と種。
11月初めの午後、ある家の庭の片隅。
白い紙の上に水を引いて、絵の具を垂らしたような、そんなぼんやりとした薄青い空。その下で、地面に一番近い低くしゃがんだ姿勢で、鼻に届く湿った土と肥料と枯れ葉のにおいをかぎながら、アガリは手の中の球根をにらみつけていた。
(これがチューリップの球根か……)
これほど間近で見、触ったのは、幼稚園が最後だった気がする。幼稚園の花壇にみんなで植えた同じ色のチューリップ。それからもスーパーの入口や花屋などで見かけたことくらいはあったが。じっくり見たのは幼いとき以来。そのときにはさして興味など持たなかったので ……気になることはもっと他のことだった…… 言われる通りさっさと埋めて後は忘れてしまったが。
茶色の衣を着て、白い肌を覗かせ、ほんの少し顔を出した淡い緑の頭。
隣では兄のユイイチがスコップ握り、五歳になった弟のキワムと一緒に、土を掘っている。
「きーちゃん、深く掘ってねー。チューリップさん寒いと困るからねー」
そんなのんびりとしたことを言っている。
対するキワムは、たぶんよくわかっておらず、無言でせっせと土を掘っている。掘ることに夢中になってしまっている。いまやただの泥遊びだ。
庭にどんどん穴が開く。さほど広くもない庭に、きちんと決められて置かれた松や岩のある庭に、チューリップを咲かそうという試みだ。お堅い父親がそれを許すほど、遅くにできたこどもは可愛いものらしい。
アガリは再び球根に目を落とす。
ユイイチが友人からもらったという球根。正しくは、ユイイチの友人が知り合いからもらったものらしい。それ自体は気にいらないけれど。
手の中におさめた球根をそっと握り、また手を開く。それくらいで芽が出るわけも、ましてや花が咲くわけもない。長い時間をかけてこれが芽を出し大きく育ってやがて花を咲かせるわけだ。とはいえ、気にしていなければ、人間にとってはあっという間だが。
こんな小さなものが。
どうしても手の中におさまるこれからあの大きな花が咲くことが信じられない。今の大きさの何倍にもなるということだ。それがこの中に詰まっている。
可能性のかたまりだ。
(すごい力を持ってるんだな……)
それは大きな世界の中の、ほんの小さな存在の、小さなことだとしても。
しみじみとしていると、振り向いたユイイチが、怪訝そうに言う。
「何ボーッとしてんの」
「いや……」
すごいんだなあと思って、と球根を掲げて答えようとした。感動を伝えようと。
その手から、さっさと球根が奪われる。
「ほら、貸せ」
「……ああ」
しぶしぶ従い、それを穴に放りこむユイイチの手元を覗きこむ。すると、思いがけずユイイチが振り向き、にっこりと笑顔を見せた。
「芽が出るとこ見たいんなら、おまえには今度ヒヤシンスの球根買ってやるよ。ほら、水栽培で見られるやつ」
「ああ……」
そういうものを見たことがあるような気がする。透明なおわんのような物に入った植物の、上から花が、下から根が出ているもの。土の下のチューリップには劣るが、それも興味深い。なにより、ユイイチが友人からのもらい物ではなく、自分のために買ってくれるということが嬉しい。
「約束だぞ。兄貴はすぐ忘れるから」
「いや、いいけどね。おまえ自分で買えるじゃん。無精すんな」
「俺にヒヤ……なんとかの球根がわかると思うのか」
じろじろと上目遣いにアガリの顔を見て、ふいとうつむくと、球根の位置を手で直しながら、妙に悟った口調で返す。
「わかるんじゃん? わかろうとすれば。聖書にも『求めよ、さらば与えられん』って言うし」
アガリは顔をしかめ、兄の言ったことを頭の中でかみ締める。なるほど、店まで行けば後は名前を見ればいいし、それでもわからなければ店員に聞けばいいのだし。なにも野原で探し求めてこいと言われているわけでなし。
ユイイチが球根を埋めているのに気付いたキワムがその隣で騒ぎ出す。
「あーっ、きーちゃんもーっ、きーちゃんもーっ」
「はいはい、あげようね」
キワムが必死にのばした手に、ユイイチが球根を乗せる。
「兄貴、俺は?」
ふと思いついて要求すると、ユイイチがとんとんとアガリの前を叩いた。
「穴も掘らずに言う? 自然にめりこむのは無理だと思うよ。もぐらじゃあるまいし」
ごもっとも。
深くうなずき、アガリは放り出されていたスコップを手に取った。
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(つづく)