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赤い時計と黒い時計。





 ユイイチが『へっ』と片方の唇だけを吊り上げて皮肉げに笑った。だが、すぐにその笑みは顔から消え去る。そして顔ごと枕に埋まる。
「いいんだ、いいんだ、僕なんて」
 布団にくるまったまま、枕を抱きしめて、ごろりごろりとベッドを左に右に転がる。かと思うと、がばっと顔を上げてわめいた。
「どうせ僕はやさしくないんだーっ。でも、やさしくなれないじゃないか、あんな態度じゃ! どうしろっての、あんなケンカ売ってきやがって。買わずにやさしくしたって『男らしくない』って言うくせにっ。男が家事得意でなんか悪いかーっ?」
 アガリは黙ってそれを眺める。
 兄は『どうせ僕なんて』というところにはまってしまったらしい。マイナスではなく、プラスの『どうせ』のようなので…… 思うことは同じだが、向ける方向が自分ではなく、相手への憤りになっている分、口調も軽い……心配しなくてよさそうだが、家政婦の身が危ない可能性がある。しかし、とにかく心配しなくても、目覚まし時計の音のことで兄が何か言われることはないのだ。
 アガリはしばし呆然とそれを眺めていたが、ふと思い出して机に足を向けた。先ほどからしょっちゅう……本当にしょっちゅう目に入っている時計、その意味がないほど、時間がないことを忘れている。
(まずい……)
 改めて壁にかけてある時計を見上げて時間を確認し、冷や汗をかく。家を出なければいけない時間だ。ひとりならば余裕を持って時間を決めているので問題はないが、友人の横島と駅で待ち合わせをしている。横島を待たせるわけにいかない。ちなみに電車に乗るのではなく、駅から徒歩約20分の距離を一緒に歩く。
 せっかく起きたのに、遅刻寸前とは。
(いったいどういうことだ……?)
 わけがわからない。呆然とする。自分はいったいどこで何を間違えたんだろうか、と。
「俺……学校だ」
「あ、そ」
 ぼそりとつぶやくと、それが耳に届いたらしいユイイチが騒ぐのをやめ、もそもそと布団から出てくる。騒ぎ疲れたか、もう眠いのか、半分閉じられていた目が、ふっと横を見てぱっと開かれる。
「……あ、おまえコレいる? あげよっか?」
 のばした手にそれをつかみ、明るい笑顔でアガリに尋ねる。兄の言う『コレ』とは、赤いトマトの形をした目覚まし時計だった。ユイイチは嬉しそうににこにこして言う。
「オレ、もういらない」
 『俺、最初からいらない』、アガリはぱっと口から出かけた言葉をごくんと飲み込む。しかし、どう考えても必要ない。アガリには自分の目覚まし時計がある。それは先ほど兄によってぶん投げられたが、それでも壊れてはいないようだし。兄の目覚まし時計はなかなかに可愛いと思うが、少し大きいし、 ……なにより、起こすときの音声が。
 アガリは仕方なく、申し訳ないが、ゆっくりと首を横に振る。ベッドから降りてアガリの側まで来ていたユイイチが、笑顔を苦笑に変えて、『うんうん』とうなずいて言う。
「ああ、やっぱり? オレもなんか、一回でいいってカンジ。っていうか、これで起こされたくはないよなぁ。うーん……あ、ほら、おまえの友達。横島くんとかにあげてよ、もし良ければ……あ……」
 『良ければ』の後、妙なためらいがある。あまり良くないだろうな、とアガリも思う。しかしはっきりと指摘できず、遠回りにせめてみる。
「友達と買ったんだろ? 勝手に人にやるのは悪くないか。いわば記念の品じゃないか」
 期待した同意はなく、ユイイチは『うーん』とうなって言った。
「ってゆーか押しつけられた。ああいや、ふたりで盛り上がったのはそうなんだけどね、でも『キミ、コレ買えや!』……って言われて、オレだけ。だから別にいいと思う」
 あっさりしたものだ。お揃いで買ったわけでもないらしい。しかし、目覚まし時計をつけてもなかなか目が覚めないことの多い兄も、住んでいるマンションの部屋には一応目覚まし時計らしきものがあった。小さくて丸くて、『黒と白のチェック』なんて柄でなければ、可愛らしすぎるところだ。アガリは鳴ったところを聞いたことがないのでわからないが、上に飛び出た部分があったから、たぶん鳴るだろう。それに、携帯電話の目覚まし機能を使うという手もある。そこに、この大きめで邪魔な、ジョークが基本の目覚まし時計。
(そりゃいらないだろう……)
 それにしても、『コレ買えや!』と押しつける、兄の友人。頭の中で、そういう言動をしそうな兄の友人を探す。すると、すぐに見つかる。
 量の多い髪は黄色で……ぱさぱさの、白っぽい黄色の髪で…… それも正面から見るとおかっぱ……あごの下までの長さできり揃えられた……で、後ろには微量の髪がまるでしっぽのように残されている形……に、女の子のようなピンやらリボンやらカラフルなものをつけて、服装は兄と同じ好みで怪しげな黒いものが多く、ときには女物に見えるスカートを……もちろんズボンの上にだが…… 履いていて、それであやしげな言葉をしゃべり、やたらと陽気でうさん臭く、どこからどう見てもまともじゃない、そんな人物。
 ユイイチはよくメールをしていて、電話もよくかけていて、出かけていて、それなりに友人が多そうだが、アガリがきちんと紹介された友人なんて、それともうひとりくらいだ。
「あの変なやつか」
「そう、その変なヤツ。……でも、ガリ。人の友達を『変なヤツ』呼ばわりしちゃいけないよ? まあ、確かにちょっと変わってるけど」
 困惑顔で言う兄を眺め、『へえ』と感心に近い気持ちを抱く。友人である兄にもフォローできないほど変なんだなぁ……と。それもそのはず。
「兄貴に女物の頭の飾りをくれるやつだろ?」
「うん、そう……まあ、ありがたいけどね。変なものじゃなければ。男物なかなかないじゃん? 髪留めは。女物は自分じゃ買い難いしねー…… 買ってる人がいてなんだけど。まあプレゼントとかならまだしも……ああ」
 兄が手の中の時計に目を落とす。そして、ゆっくりと、いかにも大事そうに、それをうやうやしくアガリに差し出した。
「……というわけで、はいこれ、プレゼント」
「いらん」
「そう言うなよ。横島くんとかにあげてごらん? 一日のネタにはなるから」
「一日って……その後どうするんだ、これ?」
 もし受け取ってくれたとしても、絶対怒って返されるのに、翌日には。
「ええーと、次……須田くん?」
「ふうん、そうやって流れていくんだな、この時計」
「そう、そういう運命なんだよ。これは決まっていたことなんだ。必然なんだ」
「もはや呪いだな」
「あれ? なんか良くないイメージ。うーんと、じゃあ、いい念でもこめておこっか? えーと、『これを受け取った人が幸せになりますように』、むにょむにょ……」
「逆に『不幸になりますように』とかこめてその変なやつにおくり返せ」
「なんて恐ろしいことを!」
 ユイイチは慄いているが、しかし、面白いからといって物を押しつけるのでは、不幸の手紙とあまり変わりがない。『そういうことを言っちゃダメだ』とかなんとか、騒ぐ兄をよそに、アガリはネクタイを締めなおしながら……制服は運動してシャワーの後に着た…… そわそわとする。何か忘れているような気がして。
 ユイイチが急にきょとんとして、ついで眉をひそめてアガリをじろじろ眺め、首を傾げた。
「なぁ、ガリくんや。いまさらだけど、お兄ちゃんに付き合ってると遅刻するぞー?」
 そののんびりした声が伝えた内容が頭に染み渡り、ハッとする。
(そうだ、それだっ……)
 制服を着ただけではいけない、学校に行かなければならないのだ。机には鞄を取りに来たのだ。すっかり忘れていた。
 兄がご丁寧に差し出している目覚まし時計でさっと時間を確認する。家を出る予定の時間をもう5分も過ぎている。
(戻れ!……)
 思わず念じる。だが、戻るわけがない。無情にトマト時計は7時45分をさしている。
 アガリは兄の手からその目覚まし時計を奪いとった。
「お」
「謝罪に持っていく」
 ぽかんとするユイイチにそう断り、それを手近な袋に突っ込み、鞄を取った。
「行ってきます!」
「いってらっしゃーい」
 兄の声を背に部屋を出かけて、ふと扉で足を止め、振り返る。
「たぶん、明日持って帰る」
「いいよ、いらないよ」
「いや、よくない」
 すっきりしたという顔で言う兄に、きっぱりと言う。礼儀がどうのこうのというより、確実にこの時計はネタ以上では迷惑になる。流浪の時計となることだろう。だけど兄の祝福を受けている。大事にはされなかった時計だが。それが効くかどうか……しかし、その物自体、陽気ではある。それも腹の立つくらいに。まあネタにはなるだろう。それ以上の価値といったら……。
 アガリは目覚まし時計の入った袋をかかげて見せた。
「兄貴次第だ。……かもしれない」
 ユイイチがにこりと笑って手を振る。
「幸運を祈る」


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(つづく)
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