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赤い時計と黒い時計。





「アァーガァーリィイーッ?」
 部屋の扉を開けると、ベッドの上で身を起こし、兄が最低まで低めた声をしぼり出す。
 その手の中には、アガリの黒い目覚まし時計がある。ユイイチはそれを両手で万力のようにぐわっと挟んで持っている。いまだ窓を開けていないので、オレンジの光が足元から照らすだけの室内で、ユイイチは首を傾け、まるで怨念のかたまりの幽霊のように、ぼさぼさの髪の間からじとっとアガリをにらみつけている。
 怖い。けれども、してやったりの笑みが漏れる。
 目覚まし時計の音量を最大にした上、鳴ったことを認識しながら、じゅうぶん時間をかけ……野笛をなだめながら……止められたことを確認して、ようやく部屋に戻った。
 意趣返しは成功らしい。内心グッと拳を握り、アガリは余裕たっぷりに口を開く。
「起きたか、兄貴。おはよう」
「おはよじゃないっ! うるさいんだよ、おまえの目覚まし時計、がっ!」
 言うなり、ぶんと振り上げたユイイチの手から時計が放たれる。きれいな円を描き、それはアガリの顔面めがけて飛んできた。
 バチッ。
 危ういところで片手で防ぎ、落ちるそれを慌てて両手でつかむ。なんとかキャッチしたものの、心臓ははね上がったままだ。じんじんとしびれる手の熱さを感じながら、アガリは目をむいて穴が開くほど兄の顔を見る。
(は……はあー?)
 まさか自分めがけて時計が飛んでくるとは思わなかった。あまりのことにおろおろとしてしまう。
「あっ……危ないだろ、なに考えてんだ」
 動揺を悟られたくなくて……兄を動揺させないため……、うわずる声をおさえて言う。だが、すぐに自然とかばおうとしていた相手が悪いことを認めて、声を荒げる。
「この時計、高いんだぞ!」
「知ったことか!!」
 思わず口に出した言葉をあっさりと切られて、そういえばそうだな、と思う。まず時計より自分だ。二時間サスペンスなら死んでいる。たとえ死ななくとも、あの後、壁にゴツッとか頭をぶつけて確実に気絶している。その場合、とどめをさすのは他の誰かだ。金持ちの再婚の家庭に家政婦まで存在していて、まさに舞台の幕は上がり、役者は揃っている、ような気がする。ただし、ふさわしい犯人役が見当たらないが。
(兄貴は真犯人によって偽の犯人に仕立てあげられる役だろう……)
 野笛がきっと兄に不利な証言をするのだ。それで兄も気が弱いものだから怯えて逃げたりして、きっと全国に指名手配されるのだ。考えるだけで悔しく、悲しい。
(くっ、かわいそうに……)
 無念だ。自分が犯人に疑われたものだから真犯人を探そうとするくらいの気概が兄にあってくれればいいが。
 そんなことを考えてぼんやりしていたアガリに、ふと兄が怒りにつり上げていた目を戻し、眉根を寄せて、心配そうにおそるおそる尋ねてくる。
「……大丈夫か? 見えなかったけど、もしかして当たった?」
「ああ、いや……」
 怒鳴られてぽかんとしているように見えたのだろう、気遣う声がやさしい。アガリはほっと胸を撫で下ろす。
 ああよかった、やはり心配してくれるのだ。しかし、人の物を投げつけておいて、『知ったことか』とは感心しない。というか、自分でやっておいて『大丈夫か』も何もあったもんじゃない。
「兄貴が犯人にされてしまう」
「何が?」
 今度は兄がぽかんとする。だが、すぐにハッとして、アガリの手の中の時計をにらみつける。
「ああ、時計? そうだよ! もうっ、なんなんだよ、起きてるなら止めていけよ!」
「ちょっと待て、最初に兄貴が……」
 言いかけた言葉を飲み込む。兄のすがめた眼が時計からアガリに移っている。普段のやさしさを捨て去ったような、むしろ別人のような、冷たい目。他人を見る目だ。
(最初に兄貴が……俺を『自分の』目覚まし時計で起こしたんだけどな……)
 そんなことはもう言えない。何よりユイイチが忘れ去っているかもしれない。そうでなくとも『それはそれ』かもしれない。そうじゃなければ、こんな目はしないだろう。
 アガリは口を無理やり笑みの形に歪ませ、あえて感じ悪くゆっくりと言った。
「面白かったか?」
 そう、ちょうど二時間前くらいに聞いた言葉だ。それは『つまらない?』だったが。
 とたん、ユイイチが呆れ顔になり、あごを持ち上げてアガリをじっと見て、その後『ハアァ』と大きなため息をついてそっぽを向き、嫌そうに吐き捨てる。
「これだからA型は……」
 ぼそっと続けて『ねちっこい』と言うのが聞こえる。アガリはちょっとムッとした。血液型で決められてはたまらない。
「偏見だぞ、兄貴」
「へえ、そうかね」
 そっぽを向いたままユイイチがどうでもよさそうに言い、アガリはさらに非難しようとしたが、つい先ほど口に出さないまでも自分も似たようなことを思ったことを思い出し、その口を閉じた。
 兄が苛々と布団を蹴りあげながら言う。
「あーっ、もうっ! 最悪。眠いのに目が覚めた。まだ7時じゃんかー……。3時間も寝てない。もう最低っ」
 だが、アガリは放っておけば兄が30分もせずにまた眠りに入ることを知っている。
全然眠れない日もあるらしいが、あの目覚ましのやかましさで起きないのは、
兄が薬を飲んで寝たということだ……眠くなる薬を。
 駄々っ子のようにバタバタと暴れて、ユイイチは布をまとって再びベッドに沈んだ。
 アガリは手に持った目覚まし時計を戻そうとそこに近づく。
 顔だけ出したみのむし状態のユイイチが、目だけ上げてにらむようにアガリを見て、気分がおさまらないのか、むすっとして吐く。
「どうせ今起きたらあのババアに嫌味言われるんだよ。オレは嫌われてるからね。近所迷惑だとかなんとか」
 『だから寝るっ』とばふっともう一度半身を起こして、それからしっかりとベッドに沈みこむ。ちょうど間近に来ていたアガリは、それに対して……ちなみにこれは正しい予想で、といっていいものか、すでに野笛は本当にそう言っていた、近所迷惑だと……、『安心安全問題なし』の太鼓判を押す。
「それは大丈夫だ。俺が兄貴が起きるようにと思ってセットしておいたと、言ったから」
「はあ? 何その点数稼ぎ?」
 とたんに眉をしかめた顔がぼすっと布団から出てくる。それは枕元に時計を置いたアガリを下からにらみ上げた。
「ってゆーか……オレをだしにして、そこまでいい子ちゃんだと思われたいの?」
「違う」
 はっきりきっぱり否定する。軽い意趣返しのつもりで、兄が悪く言われることまでは狙っていない。だから、『俺が了解を得ずにしたことで、兄は悪くない』と野笛に伝えたのであって、それで『いい子』だと思われたというのは予想外のことだ。だいたい野笛にそう思われたところで、何かいいことがあるだろうか。せいぜい好きな食べ物を食事のときに出してもらえるくらいだろう。
 アガリはムッと口を閉じて、『否』を主張する。だが、それを見つめるユイイチは、ピクピクと眉を動かし、疑わしげではなく、断定の口調で言う。
「どーせ『お坊っちゃんはやさしいのね』とか言われただろ?」
「ううっ……」
 ご明察。それはその通りなので、なにも言い返せない。褒められたくての行動では決してなかったが、確かにそう言われたことは事実だ。否定できない。それにしても、ユイイチは野笛をよくわかっていらっしゃる。嫌いあっているわりに。



(つづく)
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