赤い時計と黒い時計。
気持ちよく日課の運動を終え、ざっとシャワーを浴びて、朝食の席に着く。ちょうど台所で朝食を作っていた家政婦の野笛(のぶえ)が、おおげさに目を見開いて大きな声を出す。失礼な話だが、その『びっくり仰天』といった様子は、殺される豚に似ている。
「あら、坊っちゃん! 驚いた。あたしはまたあの……ユイイチさんのほうかと思った。あの人ときどき寝てないのね。この間もずいぶんと早くに家を出ていったの見ましたよ。こそこそと……だから、てっきりっ。あらあら、ごめんなさい、おはようございます」
「……おはよう」
機関銃のようにまくし立て、さっとコンロに向き直る、中年女性の後ろ姿を、アガリはじろじろと眺めて返す。
アガリは、寝る時間はともかく、朝の行動は毎朝一緒、時間は機械のように正確だ。土日だって同じ時間に起きている。それを、休みの日を除いてほぼ毎日弁当と朝食を作りに来ているこの家政婦は知っているのだ。少し違うだけでずいぶん妙に感じられるのだろう。結局いつも走る道を少し先まで行っただけで帰ってきてしまったのだから、いつもより朝食の席に着くのが20分近く早い。
野笛はせっせと鍋をかき回しながら、戸惑いをあらわに言った。
「まだご飯ができてないんですよう。いえあの、ご飯はあるんですけどね、おかずがね。もうちょっと待っていただかないと。なにしろこんな早くにお目覚めになるなんて思ってなかったもんですから。あら、どうしましょうっ」
「いいえ、じゅうぶんです。いただきます」
白いご飯があって、みそ汁があって、できたての目玉焼きがあるなら、それで足りる。それらはもうアガリの目の前に並んでいた。野笛が作っているのは、おそらくアガリの父親のための味の濃い煮物で、アガリには関係がない。が、野笛は戸惑いの他に不満をまぜてなじるように言った。言外に『自分は悪くない』と言いたげだ。
アガリは手を合わせて軽く頭を下げ、置いてあった箸を取って、目玉焼きに向ける。これはやってきたアガリに驚いて野笛が緊急に焼いてくれたものだ。
野笛はでっぷり太った50代の未亡人で、近所に住んでいて、もう何年も前から四ノ原家に家政婦として働きに来ている。アガリが幼い頃に両親は離婚して、女手がなかったからだが、父が再婚した今も変わらない。母にも仕事があるためだが、情のようなものもある。何年も面倒をみてもらっていると、そう簡単に首は切れない。しかし、決してそれは、それ以上ではない。
鍋から台に置いた皿に煮物を移しながら、野笛はぶつぶつと言う。動くたび、大きなお尻が左右に揺れる。それは野笛の苛立ちを表しているようだった。
「言っていただけてればよかったんですけどね。何か学校にご用事があるんですのね。あたし、ぜんっぜん知らなかったもんですから。まあ、あの人ももう少し早くお起きになってくださればいいのにねぇ。そりゃあたしだってお仕事だから構いませんよ、でも、そういうときはねぇ……。こっちゃまったく知らないもんだから……」
野笛の言う『あの人』とは母のことだ。『お仕事』というのは、母のことか、自分のことか、それとも両方か。
もぐもぐと口を動かしながら考え、アガリはごくんと口の中のものを飲み込み、少し待ってからその口を開いた。
「……早く起きたのは、ただの俺の気まぐれです」
気まぐれではないが、正確には、兄の。でもそれは言わない。野笛はいかにも今時の若者といった外見の兄に対していい感情を抱いていない。赤くした髪は『狂ったみたい』で、ピアスは『親からもらった体に穴を空けるなんて』『女じゃあるまいし』らしく、あやしげな絵が描かれていたり、あちこち敗れていたり、ピンがついていたりの黒い服は『みっともない』らしい。そして、兄の性格も、その外見から判断……かなり偏ってはいるが……して、『不真面目なだらしのない女の腐ったみたいな若者』だと思っている。比べる対象がまた、無趣味で愛想のないぶん行儀だけはいいアガリだから余計である。そして、それを隠すどころか、善意を装ってズケズケと言ってネチネチとつつくので、当然ユイイチのほうも野笛を好きではない。できる限り避けている。
どうやら野笛はもともとの母性本能に加えて、長い間面倒をみてきたということから、アガリたちに対して『自分のもの』という意識が芽生えてしまったらしい。それを奪う存在である新しい奥さんやそのこどもやらが気に入らないのだ。
兄がかけた目覚まし時計がどうこう……などと言えば、野笛がここぞとばかりにユイイチを非難するに決まっている。だから自分の気まぐれだとアガリは言ったのだった。
皿をテーブルに置いた野笛が顔を上げて首を傾げる。
「あら、そうなんですか? でも、めずらしいじゃありませんか。坊っちゃんが時間を違えるなんて」
不可解そうだ。それはそうだろう。自分だって思ってもみなかった。あれほど素晴らしく望ましい時間帯に眠ることができたのに、予想外に早く起きることになろうとは。
(寝覚めが悪くて……じゃ、ないな……)
みそ汁をすすりながら、野笛をうかがい見て、おわんを下ろすと、思い切って言ってみる。
「ちょっと夢見が悪くて」
「お腹冷やしてたんじゃありません? そういうのってよくないって聞きますからね。ほら、あの子に取られて」
「……」
ふたつの言葉が頭の中をめぐる。『お腹を冷やすことを心配される年齢ではない』ということと、『兄は<あの子>というほど幼くはない』ということと。支配的な女性にはよくあることだが、野笛はいつまでも人を無力なこども扱いする。腹を冷やすと悪夢を見るというのも初耳だ。
アガリは面白くなく、ふてくされて言った。
「昨日は暑かったんだ」
「駄目ですよ、しっかり着なくちゃ。汗をかくことが大事なんですからね」
「はい」
ぼそっと答えて、みそ汁の中身を見つめ、アガリはしみじみと思う。料理の腕は『<おふくろの味>選手権』があったら優勝できそうなほど素晴らしいが、父の再婚の相手が野笛でなくてよかった……朝と夕方に聞けばじゅうぶんだ、この文句は。……相手に気に入られているのに非常に申し訳ないが。
野菜を洗っていた野笛がくるりと振り向いてうきうきとはずんだ様子で尋ねる。
「坊っちゃん、デザートお召し上がりになります? あたし、プリン作ってきたんです」
「帰ったら食べます」
「あら、そうですか」
残念そうに、それでも明るく言って、野笛は肩をすくめて流しに向き直る。
そのとき、頭上でピピピピピッと音がした。
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(つづく)