赤い時計と黒い時計。
「なんなんだ、これは!」
ふわぁっと大きなあくびをして、ユイイチが枕に突っ伏す。首を左右に動かして顔を押し付けた。そこからあきれたようなつぶやきが漏れる。
「朝から元気なやつだなぁ……」
「……兄貴の目覚まし時計もな」
唇を引きつらせて返す。
火種が消火しようとしても火は止められない。かえって燃え盛るものだ。 続けて文句を言おうとしたアガリを、ころんと首を動かしてユイイチが見上げる。
「つまんなかった?」
『はい?』とアガリは憮然として、時計を両手で挟んだまま、ユイイチを見つめ返す。
「つまらない……?」
何を言っているんだか。こんな目覚まし時計に対して、何か感想があるわけがない。アガリはそう思う。
まあ、ある意味で悪趣味だとは思う。アメリカ人だと思われる男性が繰り返し『トマト』と言うだけのものだったが、単純ゆえに怖かった。もしもこれがトマトが切られるときの包丁の音でも繰り返し聞こえる目覚まし時計だったなら、それもたぶん怖いだろう。素直にトマトが『起きろ』と言っていても違和感から恐怖したかもしれないが……それでもやっぱり、これは目覚まし時計としての意味がわからなくて不気味だったのだ。トマトが『トマト』と言うだけなんて。それでもずいぶんと自己主張の激しいトマトだったし。何故かあやしい外人だったし。
もそもそと兄が起き上がり、アガリの手から目覚まし時計を奪う。時間が目に入り、改めて冷静に見たらば、起きる予定の時間より50分は早い。そのことに気付いたアガリはさらに不機嫌になった。そんなことはお構いなし、気付きもしないといった様子で、ユイイチは一度引っ込めたトマトの枝に当たる部分を再び引き出す。トマトは再びうるさく『トメイトウ!』と名乗りだした。
「トメィトゥ! トメェトゥ! トメェロゥ!」
「……ん?」
不審に思ったアガリは、『ほら』と手渡す兄から目覚まし時計をしぶしぶ受け取る。耳を寄せたアガリに、時計は朗らかに言った。
「トメーロー!」
アガリはその瞬間にガシャンと時計を床に叩きつけたくなった。
(お望み通り止めてくれよう……!)
そして二度と再び鳴らせるものか、と、時計をつかむ手がぶるぶると震える。
(『トマト』を『止めろ』だ?……)
それも、本当に起きる必要のある1時間近くも前に起こされて、これ。
(朝っぱらからくだらないオヤジギャグを……っ)
衝動を抑えて、あえて静かに枕元に時計を置く。兄の近くに。
兄の時計でなかったら、包丁でみじん切りにしてサラダの具にして差し出すところだ。でも、本当に出すならば、兄の朝食として出したい。兄の時計だから。
そもそもこんな目に遭わなければ……アガリは『くそっ』と胸の内で吐く。
(トマトは食べるもんだっ)
間違っても親父ギャグで寝ている人間を起こすためのものではない。
そんな心を知らないユイイチは、眠そうなのんびりとした口調で、アガリの神経を逆撫ですることを言う。
「昨日、友達と買い物行ったとき見つけてねー、すんごいバカウケしたんだけど、オレたちは。そんで買うしかないでしょーって、正直オレはいらないと思ったんだ。だって起きないもんなぁ」
「……ああ」
『そうだな』としか言いようがない。確かに兄は起きなかった。こんなバカらしいことだと知っていたなら、自分だって起きたくなかった。
赤いトマトを見つめながら、アガリは片手を頭にやり、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱す。
その様子にか、ユイイチが申し訳なさそうな顔になり、神妙に言った。
「オレも大ウケしたんだけど、久々の買い物に浮かれてて、あのときちょっとテンションがおかしかったかも……って」
言葉半ばにぷっとふき出す。そして指をさして笑い出した。
「おまえ、すっごい頭ー! あはははははっ」
アガリは言われて頭に手を置いた。隠すように額を触る。髪の毛の感触は、あったりなかったり。ろくに髪を乾かさずに寝るせいで、少しはねているところがあるのだ。
「寝癖がついたんだよ」
むすっとして言った、それでもユイイチの笑いは止まらない。
「いや、いつもだけどね!? 今日はまたひっどいなぁーっ」
「それほどじゃない」
素っ気なく返すと、さすがにユイイチが静かになる。しげしげとアガリを見て、首をひねり、不思議そうに言う。
「ねぇ、なんでおまえ、いっつもうつぶせになって寝てんの? ってゆーか……寝るときはフツーに寝てたよな。いつのまに、その……くっ」
また『あはははは……っ』と兄の笑い声が響く。本当にまだ眠い頭によく響く。
「初めて見たときは死んでるのかと思ったよ。隣でうつぶせになって動かないんだもんなぁ。それも『気をつけ!』をしたままでベッドに倒れこんだみたいに。何があったのかと思ったよ。あのときは怖かったなぁーっ」
「癖なんだ」
むっとして言う。すると、ユイイチはちょっと真面目な顔になり、心配そうに言った。
「お願いだから、窒息なんかしないでくれよ? 嫌だよ、ある日フツーに寝てたら知らないうちに横で弟が……なんて」
「馬鹿言うな」
もう10年はこれで寝ている。
アガリはそう返して、『40分は早いけれど仕方がない。今から寝るわけにもいかないし、今さら眠れるはずもない』と計算してあきらめ、ベッドから降りようとした。その背中に声がかかる。
「あ、起きるんだ」
「兄貴もだろ?」
「なんで?」
振り向いて問うと、きょとんとした兄の瞳がアガリを見つめ返す。その無邪気そうな瞳に押されて……自分が間違っていると思わされる ……アガリはたじろぎながら答えた。
「だって……そのための目覚ましだろうが」
兄が兄の目覚まし時計をセットした理由など他にはあるまい、そうアガリは思う。
ユイイチは2、3度まばたきをした後、ゆるく首を振り、そうしてまったく悪びれた様子もなく答えた。
「違うよ。これはおまえのための目覚まし。オレは起きなくていいから」
『は?』と兄の顔を穴が開くほど見つめる。『信じられない』という思いで。
ユイイチは布団にくるまり、寝る体勢を作りながら続けた。
「本当は自分で試したかったんだけど、あいにくと今日は起きる用事がなかったもんだから。時間あるから自然に目覚めるだろうし。ほら、おまえのほうは学校があるから」
『起きるんでしょ?』とにこにこ笑顔で問いかける。アガリは笑顔を返そうとして、顔が引きつるのを抑えられなかった。出る声も低い。
「……俺は、目覚まし時計かけてるんだけどな、自分で。……兄貴のかけたそれ、予定よりも1時間近く早いんだ。それは……」
「うん。だって、一緒に鳴っちゃつまんないだろ? だからさ」
「ほほう」
眉間にしわが寄る。あちこちピクピク痙攣する。アガリは努めて静かに言った。
「……俺、そういうことしてくれって頼んだか? ないよな…… 一言も」
知らず『ひとことも』に力が入る。訊いてくれれば、自分は決してそんな時間を指定しなかった。5時に起きてランニングするくらいなら、どこぞの部活に入っている。
アガリの怒りは伝わったのか、ユイイチは困惑顔になる。
「ごめん、迷惑だった? でもおまえ、どうせ起きるんだろ? ゆっくりできていいじゃん」
一応謝ってはいるものの、軽い。あっさりとしている。
『まったくこれだからO型はっ……』などと八つ当たり的なことを思いつつ、アガリは馬鹿らしくなってベッドから降りた。枕元に用意していたジャージをつかんで。
着替えを見ないようにということもあるのだろうが、ユイイチがごろりと寝返りを打ち、布団を被って、その向こうからもごもごと言う。これからまた眠るのだ。
「おやすみー」
「……ああ」
機嫌よさげな兄の声に、不機嫌に返す。内心『知るかっ』である。
それでもなるべく音を立てないようにともそもそ着替え、顔を洗ってざっと髪を整えてから家を出ようと、扉に向けて足を踏み出した。まずは洗面所に行こうと。その足がすぐに止まる。
くるりと振り返り、もう兄が眠りについてしまったベッドの上、自分が寝ていた場所の枕元に、自分の目覚まし時計がある。
アガリはそれをじっと見つめる。
実用性を最優先された四角い黒の目覚まし時計で、特徴なんて何もない。ごく普通の……とはいえ決して安物ではなく、いろいろと便利な機能がついてはいるが……時計だ。数字は四角くはっきりとしていて、きちんと分もわかるようになっている。針もなんら特徴のないただの針。暗闇でも見えるように蛍光ではあるが、よくある目覚まし時計。長年使っていて、改めて見るようなところは何もない。音もただ『ピピピピピ……』と鳴るだけのもの。人を驚かすような変わったところはまったくない。
……ただ、音量を調節できるのだ、この目覚まし時計。
それまで考えていた本日のランニングコース……時間が早いので、いつもと違う道にしようかと選んでいた……がふっと頭から消え、意地悪な考えが浮かぶ。
今、目覚まし時計の音は一番小さく設定されていた。それでもアガリは起きられるし、兄も一緒に寝ているときは兄を起こすといけないので、小さいほうがいい。そう思って、そうしていた。もちろん、今日もあと少ししたら鳴るようにセットしてある。持ち主が起きた以上、もうその必要はない、の、だが……。
アガリは寝ているユイイチを起こさないよう、そーっとベッドに近づき、体重をかけてベッドを揺らさないよう気をつけながら、時計をスーッと持ち上げた。ゲーセンで見かける、あのぬいぐるみをつかみ上げる機械のように。そして、耳をすまして兄の寝息に乱れがないこと……気付いていないこと……を確かめると、ニヤリとして手の中の時計を見た。
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(つづく)