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赤い時計と黒い時計。





 最初、『おめでとう』と言われているのだと、ぼんやりした頭でアガリは思った。その眠たく重たい頭の近くで何か……誰かの声がしている。
「……め……とう!」
 陽気な外人らしい声に『何がおめでとうだよ』と苦々しく思う。こちらはまだ眠いというのに。寝ていたというのに。その無神経さに腹が立つ。
(ん? 人……?)
 浮かび上がった意識が、自分がいつものようにうつぶせになり、枕に額を押しつけて寝ていることを気付かせる。アガリは容赦なくわめく頭上の何かから耳をかばおうと、横向きになって、頭から布団を被った。それでも大きな声は追いかけてくる。どうやら夢ではないらしい。
「めぃ……とう!」
 『相手をしてくれるまではやめてやらないぞ』といわんばかりの大声だ。そして、アガリはそれが生の声ではないことに気付いた。
(機械か……)
 側で言っているにしては、電話の向こうの声のように、くぐもっている感じがする。自分の被っている布団だけでなく、何か隔たっているよう。まるでCDを流しているようだ。
 それにしては位置がおかしい。頭の上だ。
 よく聞くと、『おめでとう』ではなく『ごめいとう』と言っているようにも聞こえる。『おめでとう』も『ごめいとう』も言われる覚えがないが……しかし、そんなことより。
(なんだ?……)
 同じことをずっと繰り返し言っているようだ。しかし、まるでわざと作っているかのような、もとは低いだろうに妙に高い声。外国人男性が面白がって日本語をしゃべっているかのような、しかも酔っ払っているかのような、ろれつの回らない口調。要するに聞き取りにくい。が、それでも声はわかる。
 この声は、無論兄のものではない。言われる覚えもなければ、言っている相手に心当たりもない。こんな物に覚えはない。外国人男性が延々『おめでとう』というような、そんな変なCDは持っていない。友人の話でアイドルが似たようなことを言ってくれるCDがあるというのは知っているが……とにかく、自分には無縁のものだ。
(誰だ?)
 この場合、『誰だ』というのも変だが、その音を出す物体にまったく心当たりがない。
 アガリはもそもそと布団から顔を出す。数秒そのまま考えてから、ぱっと顔を上げて、声の聞こえる場所に目を向ける。
「トメィトウ!」
 トマトが言った。
 自分の頭の上、アガリは目をすがめて、赤いかたまりを見る。
「トメィトゥー!」
 トマトがまた言った。
 『レッツリピートアフターミー!』とか続けて言わないのが不思議なくらいだ。職業はたぶん英語教師だ。
 トマトの自己紹介に、名前を繰り返すことを……リピートアフター…… せず、アガリはうなって隣で寝ている兄を見た。
 ユイイチはすやすやと眠っている。背中を向けているから顔はわからないが、それでも寝息が聞こえる。実に気持ちよく夢の中らしい。
「兄貴……」
 怒りをこらえて静かに呼ぶ。この目覚まし時計は、きっとユイイチが目覚めるために置いたのだろう。それがいつのまにかアガリの側に置かれていたのは、きっとユイイチが『うるさかったら嫌だなぁ』とか思って移動させたに違いない。最初は自分の近くに置いていたのだから。アガリが眠りに落ちた後の『ごそごそ』でたぶん目覚まし時計を移動させていたのだ。なんとワガママな。
 そして自分は起きないのだ。目覚ましトマトは結構大きな声を出しているというのに。
(意味がねぇ……)
 しかし、起こされたアガリが兄を起こせばいいわけで、そういう考えで置かれた可能性もあるということに思い至った。最初から、自分では起きられないだろうとふんでのことかもしれない。
 なんにしても迷惑な。
 アガリは嘆息して、兄の肩にそっと手をかけ、耳元に口を近づけた。目覚まし時計を止めるより、兄を起こしたほうが早い。
「兄貴、おい起きろ。時間だぞ」
 そうしていて、アガリはあることに気付いた。
『トメェートォーッ!』
 目覚まし時計の音(声)がだんだんと大きくなっている。どなたか知らないが、男性が叫んでいる、『トマト』と。
(なんとなく嫌だな……)
 これが『起きろ』とか『朝だぞ』とかならまだいい。不自然じゃない。しかし相手は『トマト』と言っているだけなのだ。どうしようもない。男性がずっと『トマト!』とわめいている、そのおかしさ。しかし、笑えない。止めなければという焦りを感じる。恐怖に近い。音が大きくなっていくことに気付いた上に、止めなければと焦るのに自分は止め方を知らないということもあり、余計に焦る。困惑する。
「なあ、兄貴、起きるんだろ?」
 アガリはガシッと兄の肩をつかみ、強く揺さぶった。
「……いや、起きろ!」
 頼む、起きてくれ。
 思いが通じたのか、単に乱暴の結果か、ユイイチが目を開けた。そして振り向く。
 とろんとした目が上がりを見つめ、かすれた声が開いた口から出る。
「……あ、ガリ? なに……?」
 朝だとか時間だとかそういうことを説明して認識させる時間が惜しい。待てない。
「何じゃないっ。兄貴の目覚まし時計が鳴ってるんだ、止めろっ」
「うーん……? 昨日、言わなかったっけ? えーっと、後ろのポッチ……」
「くそっ」
 ユイイチの布団からのびた手がゆらゆらと揺れて、見当違いのところをさまよい、アガリは苛立って自分でトマト時計をつかんだ。
「だんだんと大きくなってうるさいったらないんだっ」
「落ーちー着ーけーよー……」
 気の抜けたユイイチの声にさらに苛々を増しながら、『トメェトオ!』とわめく時計の後ろ、トマトのヘタに当たる部分の中心を押す。カチッと音がして、声がやんだ。
 ふうとため息を吐き、アガリは安堵によって再び困惑を思い出して、手の中のものを思わず放り出しそうになる。朝からこんなものに困らされるとは、腹立たしい限りだ。



(つづく)
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