赤い時計と黒い時計。
夜の11時前に部屋の入口に立ち、アガリは満足して室内を見回す。
宿題を終え、明日の支度も終わり、勉強机の上はきれいに片付いている。歯磨き済みの自分はパジャマに着替えていて、明日の朝ランニングするときのためのジャージなどは枕元に用意してある。制服のシャツにアイロンがかかっていることも確認済みだ。喉が渇いたときのために水の入ったペットボトルもある。目覚まし時計もしっかりセットし、後は電気を消して布団に入るだけ。抜かりはない。何より、この時間にここまでたどりつけたということに、深い満足感を得る。ベッドの上に兄の姿があることを考えれば、実に奇跡的だとしか言いようがない。アガリはいつもたいていこれくらいの時間に寝るが、兄のユイイチは気まぐれだから。
『寂しい』などと言い、与えられた自分の部屋を使わず、家に来ると決まってアガリの部屋で一緒に過ごす。それは構わないが、ある日は早い時間にあっさりと人のベッドでダウンしてしまうかと思えば、またある日はいつになっても眠らずにぐずぐずと本を読んだりメールをしたりして、決まった時間に寝ることがない。それはいいけれど…… あまりよくはないが……ひとりの生活ならば。
アガリは早く寝たいのだ。基本的に夜型のユイイチと違い、朝型で早くに眠くなる。もちろんそうでなくとも高校に行かねばならないし、行く前に少し運動もしたいので、就寝があまり遅くなるようでは困る。幸いというか、狙ってのことだが、高校は近所で助かっているが。それでも6時間は確実にしっかりと寝たい。寝ていないとどうも調子が悪いのだ。ユイイチは夕方からの仕事で、いくら遅く寝ても構わないようだけれども。
アガリはベッドの上で布団を被って丸くなっている兄を眺める。めずらしくアガリが勉強を終える頃にそれまでいじっていた携帯電話をしまい、先に歯磨きをしてちょうどいい頃にベッドに入って……まるで待っているかのような、待っているのだろうが…… 一緒に眠ろうとしている相手。
なんとなく、そのタイミングが恥ずかしい。
アガリは布団のふくらみに向かって宣言した。
「電気消すぞ」
「んー、OK」
もごもごととした声が答え、スイッチをオフにする。パッと電気が消え、ベッド近くのライトのわずかな明かりだけになる。歩くにはじゅうぶんで、危なげなくベッドにたどりつき、布団にもぐりこむ。ひとりで眠るには少し大きいが、ふたりで眠るには少し狭いベッドで、兄がぐぐっと体をずらして場所をあける。アガリは自分の場所に埋まると、ユイイチに背中を向け、自分ももぞもぞと動いて眠る体勢を作った。
やはり恥ずかしいらしい兄と顔を合わせて眠りにつくことはしない。たいていそうだ。寝る時間はばらばらだし、起きる時間も決して必ず一緒ではないし、絶対に別々のほうが便利だ。アガリはそう思う。しかし……兄が自分の部屋を使うようになって、ベッドの位置さえ使いやすいように変えたり、どんどん物が増えて部屋が散らかったり、いろいろと面倒くさいことになったが、それでも、ふとしたときに『ひとりじゃないんだ』と思える。それがありがたい。そういう面も確かにあるのだ。
「明日晴れるかな……」
「晴れるんじゃない? と、思うよ……」
「そうだよな……」
つぶやきは天井の闇に吸い込まれて消えることなく、横から反応がある。眠りの気配に、安堵を抱いたまま、自分のまた眠りに落ちようと目を閉じた。
窓を開けているおかげでそれなりに涼しい空気が入ってくる。
うとうとと眠りかけた頃だった。
「あぁ、そうだ……」
小さな声が上がりの意識を眠りの淵から釣りあげる。ついで隣で布が動き、ばさばさと音を立てる。ずしっとベッドが一瞬重くなったように感じたが、次には軽くなった。兄がベッドを降りたのだ。ぱっと吹いた風とともに、兄の好きなハーブ系のさわやかな香りが微かに漂う。
アガリは気にせず寝ようとしたが、兄が自分の鞄を取り上げるカチャカチャという音 ……鞄につけられたピンだのバッチだのがぶつかり合う音……続いて鞄が開けられる音、ごそごそと鞄の中をあさる音、そしてガサガサと紙がこすれ合うような音、何かがビリッと破られる音……耳障りな音に意識が向けられてしまい、寝るに寝られない。
「ううー……」
うなってみたが効かず、アガリは仕方なくむすっとして口を開く。
「おい、俺は明日学校なんだぞ……」
「うん、知ってる知ってる。だよな」
少し離れた場所から返ってきた、妙に明るいユイイチの声に、アガリは不審に思い、振り返る。しかし、ぺたんと床にしゃがみこんだ丸い背中しか見えない。髪が被さって表情も見えない。しかし、両手を動かして何かをしていることはわかる。
「何やってんだ、兄貴。こんな夜中に」
光に背を向けて、ろくに見えもしないだろうに。言うまでもないことを胸の内でつぶやく。
しばらく何やらいじっていたユイイチは、やがて苛立った様子で、頭をかきつつ『うーん』と大きな声で言って、軽く頭を振ると、バッと立ちあがった。
「こうかなぁ……たぶんこれで……いいんじゃないかな、と」
振り向いた兄の手に、光が当たってつやつやと輝いている、大きな丸い赤い物がある。完全な球体ではなく、半分に切られている。そう見える。近づいてきて、それが真ん中で切られた赤いトマトの形をした『別の何か』だと確信する。
種の入っている黄緑色の部分が6個に分かれている。よく見ると黄色に淡い緑の水玉模様になっていて、それぞれ『12』『2』『4』『6』『8』『10』と数字がひとつずつ入っている。そして、大きな赤いテントウ虫がチッチッとその上を移動している……よく見ると銀色の棒の先に……他にも針がふたつあった。
これは、この物体は……
アガリの頭にひとつの答えが浮かんだ。
枕元にそれを倒れないようにしっかりと据えているユイイチに確認する。
「目覚まし時計か」
「うん、目覚まし」
にっこりとしてユイイチがうなずく。
「そっか……」
可愛い目覚まし時計だ。ちょっとサイズが大きめなのが残念だが。しかし、どう見ても女物。ユイイチの趣味とは少し違うような気がする。一緒に買い物に行ったときにたまたま目にした『時間になると棺桶のふたが開いて中から口元が血だらけの吸血鬼が現れ「ギャーッ」と女性の甲高い叫び声が上がる』という目覚まし時計がえらくお気に召していた兄らしくないチョイスだ。
『何か恐ろしい仕掛けでも……?』とアガリはまじまじと時計を見る。それを興味ととったか、兄が一度置いた時計を持ち上げて説明する。
「トマトの形してるんだよ。ほら、後ろはヘタになってるんだ。この緑の部分。星型。鳴ったらこのヘタの突き出てるところで止めるらしいんだけど……ポチッとな」
くいくいと押して見せる。そこはカチリという音を立てて引っ込んだりした。
「本当だ。凝ってるな」
さして問題はないようだ。
まあ、ひとつの部屋にふたつ目覚まし時計を置く必要性があるかどうか疑問に思うが、ユイイチとアガリの起きる時間は違うのだし、兄は兄で早く起きる必要性を感じたならそれはいいことだ。いくら仕事が夕方からで、朝は寝ていていいからといって、昼まで寝ているのは感心できない。
「なあ……もういいだろ。寝るぞ」
「うん、そうだな。寝よう寝ようっ」
今から眠るだけなのに、ユイイチがなんとなくはずんだ声なのがアガリは気になった。しかし、眠気は頭の中の考えを波のようにさらっていく。疑問は砂浜に書かれた文字のように消え去っていった。
眠りに落ちる直前、隣で動く気配を感じた。
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(つづく)