兄とクッキー。
「おまえ、甘いもの大丈夫だよな?」
ユイイチに突然そう訊かれて、アガリは驚きをあらわに……顔には出ていないが…… 振り向いて数秒経ってからゆっくりとうなずく。
「……ああ」
ユイイチが横掛けにした黒い鞄……あちこちに銀色のピンがついている……から、ラップに包まれた茶色いものを取り出す。
「クッキー作ったんだけど」
丁寧にラップをはがし、手のひらに乗せたそれを差し出す。笑顔で、小首をかしげて。
「食べてみてくんない?」
「か……」
アガリはそれをまじまじと見つめる。
きつね色の丸いかたまり……ところどころに小さい何かがある。甘い香りにまじって、何やら刺激的な香りがする。そして、兄らしくない遠慮勝ちな『食べてみて』の言葉。
アガリはおそるおそる尋ねた。
「家庭科の調理実習でか……?」
「オレ、二十歳過ぎてんだけど」
きょとんとして言ったユイイチの顔が、怒りをこらえた笑みに歪む。
「ってゆーか女の子でもないしな?」
「うーむ……」
もう一度まじまじと眺めて、アガリは両手を前に突き出して遮った。
「甘いものを食べられるからといって、毒も食べられるわけでは」
「チョー失礼だな、おまえ」
兄の不機嫌な声とともに、両手のガードをくぐり抜け、アガリの鼻先に『ほれほれ』とクッキーが突きつけられる。
「オレはあれか、白雪姫の母か。おまえ姫か」
「意地悪なところは……」
「ホホホホホッ」
妙に甲高い笑い声をあげ、クッキーをラップの上に戻すと、あらためてアガリに差し出した。少し乱暴に。
「オレがやるなら無味無臭にするわ。いいから食え、この成長期の腹ペコ学生が!」
「腹ペコって……」
アガリはしぶしぶとつまんだクッキーを片手に途方に暮れる。
「だけど、兄貴、なんだか妙なにおいがするんだが……」
普通のクッキーからはしない……カレーの香辛料に近い……スパイシーな香りがする。
「アニスだよ」
「?」
謎の言葉に、熱心ににおいをかいでいた手の中のクッキーから、兄に視線を移す。目で尋ねると、ユイイチは続けて言った。
「ハーブの本見てたら載っててさ、ちょうど間違って買ってきちゃったところだから、作ってみたんだ。アニスのクッキー」
「兄が作った……」
「それ以上言うな」
しぶい顔で止められる。アガリは真剣だ。
「そう言われても、アニキが何人も並んでいるところを想像してしまう……あ、立派な筋肉のほうのな」
「アニズじゃなくて、アニスだよ」
あきれたように言ったユイイチの目がふと宙を泳いだ。
「怖いクッキーだな……。どっか外国の人肉売ってた肉屋の話とか思い出しちゃうな」
「いや、俺はアニキがたくさん並んでいっせいにクッキーを作っている場面をだな…… でも、その話、詳しく聞きたい」
「いいから食えよ」
アガリは、ピンクのエプロンをつけた筋肉隆々とした男たちがキッチンに並んでまな板の上に置かれたクッキーの生地を一心に綿棒でのばしているところを想像しながら、クッキーを口に運んだ。二回で口に押し込んで、ぼりぼりと音を立てて少しかためのそれをかみ砕く。
クッキーをテーブルに置いたユイイチが、いまかいまかと待っていて、アガリが飲み込むとすぐに尋ねる。
「どう?」
口に残ったさわやかな香りを味わいながら、アガリは首をかしげて、真剣に考えて答える。
「うん……うん、やはりそういう味だ。ハードボイルドな風味だな。しかし、少し年をとっているようだ」
「それがクッキーを食べた感想か!」
「……青紫蘇を思い出す」
アガリにとっては心外なことにがっかりした顔をしたユイイチが、小さなペットボトルを鞄から取り出してふたを開け、アガリに差し出す。
「あー……まあ、紫蘇に似てるかな。はい、お茶」
受け取ってごくりと飲むとキツイ香りが流れてのどがスッとする。
「うん、少し味が濃いと思う……が、うまい、かな」
味が濃いというか、においがきついというか。好みの違いが大きいだろうと思うので、『こういうものなのか』という気持ちが強い。好んで食べはしないけど、という範囲。しかし、おかわりをしないのでユイイチは察したらしい。
「うーん、やっぱ慣れてないと、ハーブはなー……」
テーブルに置いていた包みからクッキーをつまんで、自分も口に運ぶ。ばりばりと、躊躇なくかみ砕く。
「オレはもうわりと平気なんだけどねー……」
アガリはムッとして、自分もテーブルに近づき、クッキーを取る。食べようとして寸前で止め、クッキーを目の高さにあげ、じっと見る。ひっくり返して見る。またひっくり返して見る。探したが、わからない。最終的に訝しげな顔を兄に向ける。
「で、どこらへんが『アニス』なんだ?」
「えっ」
ぎょっと目を見開いてアガリを見たままかたまったユイイチが、何故か慌てて、手に持っていたクッキー……に入っている何か……を指差して早口で言う。
「これ、ほら、この茶色い、細長いの。種なんだよ。『アニスシード』って言って……」
説明の途中で言葉をとぎらせ、口をぽかんと開けたまま動きを止めると、徐々に頬が赤くなっていき、ついに真っ赤になったと思ったら、その顔をがばっと伏せ、わめいた。
「うああああっ」
ぶんぶんと首を振るユイイチに、驚きでアガリは声も出なかったが、我に返ってそっと尋ねる。
「ど……どうした、兄貴……」
「ごめんなさい!」
「はっ?」
何か言ってはいけないようなことが含まれていたのだろうか……自分が聞いてはいけないようなことが?
アガリはドキドキする胸を押さえて、それならば自分は何も訊かなかったことにする、と言おうと口を開く。
「あの、俺……」
「言うな! 何も言うな! しゃべるなーっ!」
額を押さえてユイイチがわめく。クッキーを持っているもう片方の手をせいいっぱいのばして、恐ろしいもののように遠ざけて。
律儀に口をつぐんで、アガリは手の中のクッキーを見つめる。
(そうか、種なのか……)
これを食べるときっと立派な筋肉になれるのだ、そう思って、また口に入れる。
バリボリとクッキーをかみ砕く音と、『わあああ』とわめく声が、ひとつの部屋の中に同居していた。
(おわり)