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花と笑顔。






「エリカって可愛いよね」
 兄のユイイチがふとそう漏らしたのは、ふたりで買い物に来ていた街で、デパートの前、『ちょっと待って』と立ち止まってから少しのことだった。
 アガリはその時、とくにすることもなく、ぼんやりと目の前の横断歩道を眺めていた。
 信号が変わり、急ぎ足で渡る人々。やはり目がいくのは、春らしい華やかな色の服を着た若い女性。重たい黒や紺ではなく薄い茶色のひらりと軽く裾の翻るコート、スカートもひらひらとして。厚みがなくなってすっきりとしている。まだいくぶん寒そうだが。
 冬の少し大きく見えるコートや大きなマフラーに埋もれている女の子も可愛らしいが、やはりふわりとして柔らかく見える春の装いのほうが、見るぶんに楽しい。
 アガリは自分でも承知の目つきの悪さなので、じろじろ見ると怯えられることもあり、さっさっと目を動かしながら、街ゆく人々を見ていた。土曜日の午後であり、結構な人ごみだ。デパートの入口横に立っている自分も、時折ぶつかりそうになる。だが、背中に兄を隠すようにして、なるべく動かないでいる。早く終わらないだろうかと思いながら。ユイイチの用事がなんだか知らないが、『ちょっと』だけだということだし。
 ベージュのコートを風にはためかせて、さっそうと歩く若い女性が目に入る。OL風、自分より少し年上、明るい茶色のセミロングの髪をさらりと後ろに送る白い柔らかそうな手、ほんのりと赤い頬、隣の女性に向ける穏やかな微笑。横を通り過ぎるとふわりと甘い花の香りが漂う。
(いいな……)
 そんなことを考えていたときだった。
「エリカって可愛いよね」
「は……?」
 言われたことが耳に届き、それから理解するまで少し。アガリは呆然として兄を振り向いた。ふたりしかいないので、ユイイチが話しかけたのは間違いなく自分だ。しかし、その言葉が。
「え? なんだって」
 その言葉に耳を疑い、尋ねると、ユイイチがきょとんとした顔になり、言う。
「いや、『エリカ』って可愛いよね……って」
 聞き間違いかと思ったが、やはりそういったらしい。『エリカって可愛いよね』と。ユイイチは『聞いてなかったのか』と苦笑している。だが、それどころではない。
(『エリカ』って誰だよ……)
 アガリはムッとする。当たり前のように同意を求められたが、そんな女、兄の口から聞いたことがない。今が初めて。
(芸能人か誰かか……?)
 もし、知っているのが当たり前なら。兄の口から初めて聞くことに変わりはないが。しかし、女嫌いの兄が、女性の名前を。ということは、よほどの相手なのか。
(まさか男じゃないだろうな)
 冗談半分そう思う。しかし、『エリカ』は女性だろう。
 無言で顔をにらみつけるアガリに、ユイイチはそれに気付いたのか、少し眉を寄せて、『しまった』という顔をした。
「あ、おまえにはわからないかもしれないけど」
(当たり前だーっ)
 聞いたことがない。だから、わかるわけがない。そのこと自体、わからない。納得がいかない。
(なんだ、女がいたのか……)
 秘密か。隠し事か。今、当たり前のように言ったのは、当たり前に言える相手がいるということ。それは自分ではない。なら、誰か。二重三重に隠し事をされているだなんて。そこまで信頼がないのか。兄弟なのに。
「……」
 言葉が見つからない。重く黙りこむアガリに、焦った様子でユイイチが話す。
「ほら、小さくて、丸くて、ふわっとしてて……とくに白いのが」
(なるほど……)
 アガリは頭の中でその女性の姿を思い描く。
 小柄で、ぽっちゃりとしていて、髪の毛がふわりとしていて、色白だ、と。
 ユイイチはうっすらと口元に笑みを浮かべて言う。
「可憐で、でも高そうな感じっていうか。そうでもないけど」
 可愛らしく、見た目はツンとしているようで、実はそうでもないと。
(少女っぽいということか……)
 それは兄の好みかもしれない。とにかく色気たっぷりの女性は気持ち悪いと言うし。
 そのユイイチがふっと顔を空に向け、ゆっくりと首を傾げる。
「んー、そうだなぁ……どっか外国の厳しい荒野に凛として立ってるイメージ?」
 最後は首を戻してアガリに向けて言う。
「清らかな」
「なるほど」
 思い浮かべていた絵を妄想で補って完成させて、アガリは深くうなずいた。



(つづく)
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