母の日。
「なんか酸っぱい」
「ああ……そうだよな……」
酸っぱいみそ汁もアリかもしれない。たとえばお吸い物に入っている柚はおいしい。酸っぱいみそ汁というのも聞いたことがあるように思う。
しかし、ユイイチはやや青ざめた顔で、鍋を見下ろしている。
「味付けが……微妙で……具とかの問題もあって、酸っぱいのってなんか腐ってるみたいに感じる。『もずく』も『もずく酢』も僕は大好きなんだけれど、……ね……」
それは……かなりまずいということではないだろうか。
「何故そんなことに」
「僕がちょっとトイレに行ったすきに母さんが入れやがりました」
ユイイチは遠くを見る目をして言った。その、ほぼ棒読みの言葉からは、やり場のない怒りが感じられる。
それ以上何も聞くなという感じだが、アガリは、訊きにくいが訊きたい、訊かねばなるまい……という、決死の覚悟で口を開く。
「お母さんはまた、どうしてそんな……」
「なんかさぁ、僕も訊いたんだけどね、みそ汁にわかめとか入れるから残り物のコレを入れても構わないだろうって、そう思ったらしいんだよね……。入れる前に訊いてくれれば、それはもうぜんっりょくで反対したわけですが」
「残念だな」
「残念だ……知らなきゃよかった。あのままだと人死にが出たかもしれないのになーあ」
『でも母さんを殺人犯にするわけには』と、細めた目でアガリをなめるように見る。
それほど最初の味はまずかったのかというのはともかくとして。
兄が鍋を前にして、そうしている姿は、どこか絵本に出てくる悪い魔女を彷彿とさせる。つまり、それほどの悪意を感じるということで。
「……なんかしたか、俺」
おそるおそる尋ねる。背中の隠した花の一本がやけに重い。
出せと己の主張をしているようで。だが、このままだと出番なく枯れさせてしまいそうだ。
ユイイチの目がさっと移る。内心びくっとしたアガリだが、ユイイチの視線はアガリを通り越し、後ろのテーブルに注がれている。
「なーんかしたか、ねぇ……」
低めた声がわずかな苛立ちを含んでいる。その、いかにも『何かある』という言葉に、アガリは『何か』が『何』なのか考える。だが、やはり、原因はアレしか思い浮かばない。
アガリはつーっと兄と同じ方向に目を向ける。テーブルがあり、その上には、アガリが母に贈ったカーネーションの包みがある。
(あれか……)
アガリが自分の母親に贈り物をしたことが気に入らないのだ。なにしろユイイチはやたらと嫉妬深いもので。こういうことを懸念してアガリは前もって『今年は別々に贈る』と宣言して、『いいよ』というユイイチの了解を得て、それなのにいざそのときが来たら…… それが気に入らないのだ。
(このマザコンめっ)
ふと、にらまれていることに気付き、にらみ返す。すると、ユイイチがにっこりと微笑んだ。
「ふふっ。女性に花束100本だなんて、意外に気障だね、おまえ」
(うっ……)
一番言われたくないことを。一番言われたくない言い方で。
凍りつくアガリに、ユイイチの『にこり』が『にやり』に変わる。
「やーらしいー」
目を細め、アガリを見下ろすようにして言う。精神攻撃は素晴らしい技をお持ちだ。
アガリはわざとぶっきらぼうに返す。
「褒めてないよな」
「そう見える?」
ユイイチがにこにこ笑顔になって小首を傾げる。
(……駄目だ)
キツネとタヌキの馬鹿試合……いやいや、化かしあい……ではあるまいし、アガリは早々にリタイアを決めた。このままでは目的を達せられない。素直にならねば。
「何を贈っていいかわからなかったんだ。女の人の喜ぶものなんてわからなかったし、とにかく花を贈るしかないと思ったから……数だけ増やした」
「おやおや、そのわりにはいいとこついて高得点ですよ?」
ふふふと近くで含み笑いをされ、アガリは目を閉じ、ぐっと顔をうつむける。その耳に、息がかかる。それは地獄の犬にも似て。
「おまえはいつもそうやって何も知らないふりをする。それでおいしいところを取っていくんだな」
「すみません……」
「認めたことになる」
「ごめんなさい……」
従順な相手に気をそがれたのか、ユイイチがつと離れる。ふんと鼻を鳴らして、どうでもよさそうに言う。
(つづく)