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母の日。





 母親の後について台所に入ると、片手におたま、もう片手に小皿を持ち、コンロの前を陣取っている、青いエプロンをつけた後ろ姿がある。派手な赤から茶色に染めかえた少し長めの髪を後ろでひとつに結び、白いシャツにジーパンというあっさりとした格好をしている。以前なら信じられないが、間違いなく兄のユイイチだ。小皿に鍋の中身を注ぎ、がぶっと飲んでいる。味見にしては少々大胆だ。
 母親は花束を抱えたまま、真っ直ぐユイイチのところへ行く。そして鍋を覗き込んだ。
「ユイちゃん、お味噌汁どーお?」
「だいたいいいと思うよ、母さん」
 ちらりと振り向き答えた兄の目がふっと後方にいたアガリに移る。だが、何も見なかったかのように無言で逸らされた。
(おや?……)
 アガリは台所の入口で足を止める。
 母が先ほど戻ったときにアガリの帰宅は知らされていたのだろう。父親が帰るにしては早い時間だし。だから驚くことはないにしても、無視することはないのではないか。確かに自分もまだ直接兄に『ただいま』を言っていないが、先に『おかえり』を言ったっていいはずだ。それなのに、ユイイチはつまらなさそうな顔して鍋に向き直る。また背中しか見えなくなる。
(なんだ?……)
 アガリは戸口に立ちどまったまま、目を動かす。
 台所のテーブルの上には上がりの贈ったカーネーションのものらしい箱がある。もう母親の……してくれていればだが……アガリの贈った花の話は済んだだろう。もしかしたら兄のいるときに届いたのかもしれない。
 不意に母親が困惑げな声をあげ、アガリの注意はそちらに向く。
「あらっ……ねぇ、ユイちゃん。お味噌汁増えてない?」
 まるで怪奇現象を目にしたかのように…… それは味噌汁の中身がいつのまにかどっさり増えていたら怪奇だろうが…… 恐ろしそうにおどおどと母親が言う。あまり料理をしないので慣れていないのだろう。本当にいつのまにか増えることもあると思っているのかもしれない。母にとっては怪奇現象のひとつなのかもしれない。だが、アガリには原因がわかる。
 ユイイチが母のほうを向き、それでいながら目を泳がせ、苦い口調で言う。
「あー、うん、味をととのえているうちにちょっとね…… 濃くなっちゃったもんだから」
「ああそうなの」
 きょとんとした母親が、ほっと息を吐く。だが、真相はたぶん逆だ。
「ならいいけど……でも……」
「母さん、エプロンが濡れてるよ。それに、それ、早く水につけないとしおれちゃうかもよ」
 何かを言おうとした母親の言葉を遮ってユイイチが指摘する。それは脅すような響きを持っているようにアガリには感じられたが、母親はとくに何も思わなかったようで、素直にうなずいて鍋から目を逸らす。そして花束を側の大きなバケツ……水の入った……にどさりと入れる。
「そうだ、花瓶を探してたんだっけ。どこにあるかな、ええと……」
 花瓶……あるいはそれがある部屋……を探してきょろきょろとした母が、戸口で突っ立つアガリに気付き、目で場所を尋ねる。
 アガリは引き結んでいた口をすぐに開いた。
「二階の物置に大きなツボが!」
 ずばっと言った瞬間、振り向いた兄が鑑定するかのように鋭く目を細めてアガリを眺めた。
 本物か偽者か疑うような視線。



(つづく)
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