母の日。
「ただいま!」
玄関の扉を開けて中に入る。『大きな声でただいまを言いなさい』と教えたのはどの女だったか。母親がいなくなってから、ベビーシッターやらホームヘルパーやら家政婦やらがやってきてわけがわからない。今は決まった人間だけだが。とにかくアガリは家に入るなり大声で『ただいま』を言う習慣だ。
靴と花を足元に置き、靴を脱ごうと横にある下駄箱に手をつく。ふっと見慣れぬものが目に入った。明るく茶色のつややかな木製の棚に、白いレースのクロス、その上に様々な物が乗っかっている。
父とふたりの頃は、社員からの土産やら何やらが雑然と積み上げられていただけだが、父の再婚した今ではそれもだいぶん少なくなっていて、選ばれたものだけが統一感をもってきれいに並べられている。そこにスポットライトを浴びるように、他のものを除けて突然現れた木製のかご。
むくむくの毛皮に埋もれそうなつぶらな瞳が愛らしい。チェックのリボンが愛らしい。ハート型のメッセージカードも愛らしい。
感動的に可愛らしい、花でできた子犬。
(おおおおおっ……!)
全身に震えが走る。
反射的にアガリは足元を見る。男物の茶色の革靴。アガリと比べると少し小さめ。
……兄のユイイチだ。
やっぱり……と思う。家に居つかなくても、それなりに記念日には祝いにやって来る。とくに『母』関連の日には。
(さすがだな……)
改めて花の子犬を眺めて『うんうん』とうなずく。
選択が実に兄貴らしい。繊細で女性の好みがよくわかっている……のだろうと思う。自分は男だが。
(くっ……)
あまりの可愛さに涙さえ出そうなほど。母親がうらやましくさえなってしまう。
アガリは可愛いものにどうしようもなく弱い。
(……む)
ふと、自分のプレゼントを思い出す。
目の前の子犬に……とても勝てそうにない。別にそれはそれでいい……勝ち負けではないのだし、勝ち負けだとしてもそこは気持ちの表れで、それならむしろ兄よりいいものを贈るわけにはいかないのだし……だが、自分にとっても一応『初めての記念日』で、大切なものなのに。これでは自分のプレゼントなど喜んでもらえたかどうか。
アガリは軽く落ち込んだ。
パタパタパタッ……!
あわただしいスリッパの音が聞こえ、反射的に足元に置いていた花を拾い上げてさっと背中に隠し、うつむいていた顔を上げる。すると、廊下を母親が玄関に向かって真っ直ぐに走ってくる。アガリにとって、『母親』というより『父親のお嫁さん』という認識のほうが強いのだが。
(廊下を走っては……)
今まで言われてきたことが頭をよぎる。そういうことに無頓着らしく、新しい母やら突然できた兄やらは実によく廊下を走るのだ。危ない。だが、元気な母や兄を見るのは嬉しい。
「……」
そんなことを考えていて無言だったアガリの前に、母親が立った。喜びの笑顔で、小首を傾げ、両手を広げて言う。
「アガリ君、おかえりなさーい!」
「……どうも」
二十歳を過ぎた息子がいるとは思えないほど若々しい。女性にしては背が高く細身、落ち着いた茶色に染めた髪の毛の艶、卵型の輪郭だが頬はふっくらとして、ほんのり赤く、顔のしわも少ない。何より、結婚してからもする前からも社会に出て働いているせいか、いきいきとしている。そのかわり家事はまったくできない人だが。
いろんな面で違いながらも、兄とよく似ている……いや、正確には兄が似ているのだろうが……とくに感情の豊かなところとか。
今日はとくにテンションが高い。
「ただいま帰りました」
アガリは機械的にぺこりと頭を下げ、つい癖で鞄を手に渡そうと……家政婦の野笛さんは部屋に持っていってくれるので……持ち上げて差し出す。それは、すかっと外れた。
「そうそう! ちょっと待っててねー!」
何を思いついたのか、くるりと紺のフレアスカートの裾を翻し、またタタタッと駆け出す。
今度は台所に向かって。
(なんなんだ……)
憮然となる。鞄のことはどうでもいいのだが。
気を取り直して、と、『ふうっ』と息を吐き、ふと横にあるカーネーション犬が目に入り、改めてよく見て、内心にこにこ笑顔になり、靴を脱ぐためにまた鞄を足元に置く。
すると、また母親が駆けてきた。今度はその両腕いっぱいにピンクのカーネーションを抱えている。おそらく百本の。
数えてもいないのに何故わかるかというと、贈った主がアガリだからだ。
(つづく)