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魔法のえほん。





「別に俺は呼んでない……いや、兄貴が嫌なら無理に頼むつもりはないってことで ……」
 最初の一言でユイイチの目がつり上がり、アガリは慌てて言葉を足す。ケンカの最中の猫のように見開かれた目は怖い。その反応に、次第に声が小さくなっていく。
「インスタントでも店の出前でも文句は言わない。いや、もちろん作ってくれたほうが……その、なんというか……ありがたい、とは思って、いる」
 最後はほとんど聞き取れないほど。
「……」
 腕を組んで仁王立ちしていたユイイチがふんと鼻を鳴らした。
「僕の家は母子家庭で母さんが仕事に出てたから毎日の家事のほとんどは僕がやってたんだ。誰かさんの家と違って家政婦なんて雇える金もなかったしねー。暇がありませんでしたよ」
 ふふんと唇をつり上げて笑う。
 アガリが『すいませんでした』の意をこめてきっちりと頭を下げると、その笑いを柔らかなものに変えた。
「忙しくてね、母さんも僕のために時間とれなくて。でもねー、ほんの少しの時間だけでも僕だけを見てくれたり、欲しいって言ったものを覚えていて買ってきてくれたりしただけで、すごく嬉しかったよ」
 恥ずかしそうに首をすくめて小さく笑う。頬を赤くして、照れたように。幸せそうに。
 大変だっただろうに……厳しい冬を越えて花のつぼみが開くように……喜びに満ちて、本当に温かく包まれてきたように。
 無邪気なこどものように。
「……そうか」
 思わず見とれていたことに気づき、アガリはまごつき、さっと目を逸らした。
「うん」
 またへらっと笑ってユイイチがうなずく。
 それを目の端にとらえて、アガリは焦燥感に似たものを抱く。
(俺にはそんなものなかったのに……)
 アガリの母親は、まだアガリが幼い頃に家を出ていった。アガリは父親に育てられた……形ばかりは。仕事で忙しい父親の代わりにアガリの面倒を見たのは、ベビーシッターから始まり、家政婦や、家庭教師。それも常に面倒をみてもらえるわけではない。必要なとき以外、ほとんどをひとりきりで過ごしたのだ。
 うつむき、黙って体を震わせるアガリに、ユイイチの視線がまとわりつく。心配そうなそれは、アガリの苛立ちを増したが、次の瞬間、すべてが消えた。
 ふわりと温かいものが触れる。アガリを引き寄せたのは、ユイイチの手だった。とんと頭がユイイチの肩につく。
「よしよし」
 背中に回された手がやさしくアガリを抱きしめ、片方の手がやさしく頭を撫でた。
「おまえも大きなこどもだね。……僕もだけど」
 苦笑のまじった低い声が耳をくすぐる。
 驚いて硬直していたアガリは、ユイイチのその声と温もりに、全身の力が抜けていくのを感じる。ほんのりと香辛料の香り。
 アガリは下から腕をのばして自分を包みこんでいるユイイチの肩に顔を埋める。
 そして、ぼそりとつぶやいた。
「……兄貴、にんにくくせぇ」
 とたん、サッと体を離し、ユイイチがしかめ面を見せた。
「こーんなにひねくれちゃって」
「誰が。自分のことだろ」
 照れ笑いを浮かべながらも、わざと憎まれ口を叩く。
 めずらしそうにまじまじとユイイチが顔を眺めるので、すぐにそっぽを向いた。
 あの頃、もらえなかったものを、今の家族が与えてくれる。自分は今、不幸なんかじゃない。だが、それを知らずに生きてきたことも確かで。今も足りないものはあって。ぽっかりと空いた溝が自分と他人を隔て、距離を作る。それを感じる。知ってはいるのに、どうしようもない。
 考えを見抜いたように、ユイイチが微笑んで言う。
「いいか? してもらいたくてもしてもらえなかったことを、人にしてあげることが、それを手に入れることにもなるんだよ」
「……ああ……」
 返事を持たずに、ユイイチは結論は出たとばかりにさっさと背を向け、いそいそと鍋に向かう。鼻歌なんて歌って。
 まったく切り替えが早い。
「……」
 置いてきぼりにされたような形で、アガリは呆然と突っ立ち、何かすっきりとしない気持ちになって、恨めしげに兄の背中をにらむ。
 自分には魔法の絵本はない。今さら誰からも……この兄からも……もらえやしないのだ。やさしくしてほしいならやさしくすればいい……それは、その通りかもしれないけれど。
 本当は、今の自分だって、そんな魔法が欲しい……。
 アガリは味見をしているユイイチの背後にそっと近づき、耳に口を寄せて、脅すような低い声でささやいた。
「兄貴、後で膝枕」
 そしてじっと横顔をにらむ。
 振り向いたユイイチは、眉をあげ、からかうようにアガリを見て、含みのある様子で言う。
「……別に、いいけどォ?」
 『けど』で止まった。


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(つづく)
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