魔法のえほん。
「……そうか」
「そうだ」
なんのためらいもなくユイイチはうなずく。
(そう呼ばれたいわけではなく……)
アガリは内心でぶるぶると首を振る。
「そのものになれないならいい」
すると、ユイイチはあきれ顔でつんとあごを上向ける。
「自分以外のものになれるわけないじゃないか」
「ガキがもしそういう夢を見たら?」
少しムッとして問うと、ユイイチは妙に真面目な顔をして、不安そうに問うた。
「……おまえ、今なれなくて、悔しいか?」
アガリは真剣に考え、答えた。
「……いや」
「だろう?」
真ん丸い目がアガリの瞳を覗きこむ。
アガリは見つめ返すことができずにスッと目を逸らす。
(けど、「野球選手になりたい」とか願って、努力して、もしかなわなかったら? ……)
アガリは『夢は夢、現実は現実』で、生活にならないものは切り捨てるか、趣味として割り切るタイプだが、だからこそ疑問に思う。たとえばアガリの友人の横島なんかは、漫画家になるために就職せず、フリーターで投稿生活とすでに決めこんでいるのだが、費やす時間や、まともに就職していれば手に入ったはずの金や、他の楽しいことすべて、犠牲にすることになる。それでもなれなかった場合、悔しくないはずがあろうか。必死にやればやるほど、あきらめられないのではないか。たとえ、どんなに自分は向いていないとわかっても。
まあ、アガリは『あきらめろ』と思うのだが。だいたい現実的じゃないし。安定した収入も保証もないような仕事は、堅実派のアガリにすれば、ばかばかしいものでしかない。目の前に、それに近いものになった誰かさんが、いるにはいるが。
その『誰かさん』が遠くを見るような目でぼんやりと言った。
「夢って見ている間が楽しいよね……」
と、急に頭を両手で抱えてしゃがみこんだ。
「作家になって締め切りに追われるとは思ってなかったぁっ」
わめく兄の頭をアガリは冷ややかに見下ろす。それくらいは覚悟の上だろう。興味なし。
「ご愁傷様」
「すげムカつく」
『はぁー』とため息を吐いてユイイチがゆっくり立ち上がる。
「そりゃ好きなことだし、楽しいけど、自由じゃないから苦しいし。まあ、それが責任ってもんで、おとなってことなんだろうけどさ。だからって、何かに夢中になることもできずに、人生はつらいことばかりってただあきらめて生きていくんじゃかわいうそうだし……せめて、こどもの小さな願いくらいはかなえてあげたいって思うじゃん?」
「……」
それが魔法の正体か。
(……なるほど)
こどもの願いをかなえたいものがプレゼントする絵本、だからこどもが魔法を使えるようになる。欲しいものが手に入り、行きたいところに行けて、夢を見ることを恐れないですむようになる。
(……だが)
アガリは香りをつけるために入れた野菜を鍋から取り出している兄の背中に言った。
「そんなの、自分でがんばればいいんだ。へこたれずにやるだけやりゃあいい。自分の夢を他人を理由にあきらめる時点でそいつは負けてる。こどもの頃がどうだなんて、できない言い訳じゃねぇか」
とたん、振り返ったユイイチの大きな目が細くなり、アガリをギッとにらみつける。
(しまった、逆鱗に触れたか……!)
そう思うが、しかし、アガリには逆鱗がどこかわからない。
ユイイチは嫌そうにじろじろとアガリを眺め、ついに口をとがらせて言う。
「……ガリはさー、お母さんいなくても家政婦さんが飯作ったり掃除したり洗濯したりしてさ、家事は何もやらなくて済んでたんだよな? おれと違ってー」
一言にピンと来る。
(出たっ、『おれ』……)
というのは、ユイイチは気分次第で一人称が変わる。というより、今ではたいてい『僕』で、何か気に入らないことや文句を言うときに限って、前まで使っていた『おれ』が戻るのだ。一応仕事や外見に合わせ、それと幼いキワムが真似するといけないから、普段は『僕』と言うように心がけているらしい。だから『おれ』を聞くことができるのは、ユイイチを怒らせることのできる者。ちなみに『おれ』より前は『ぼく』だった。
要するに、ユイイチの機嫌が悪くなったということなのだ、つまりは。
「今も母さんがいなくて家政婦さんもいないとおれが呼ばれるよなー。キワムのことだって」
「兄貴、それは……」
だが、カップ麺くらい湯を入れればすぐだし、たまにインスタント食品を食べることにアガリは抵抗がないし、嫌なら店に食べに行けばいいのだし、出前だって取れる。洗濯などはまとめて洗えばいいのだし、掃除だって。キワムだってひとりで本を読んでいればいいのだし。
(つづく)