魔法のえほん。
ユイイチはその反応に、引き結んでいた口を緩め、口調をやさしくして続けた。
「こどもはお父さんお母さんが忙しかったり、家が貧しかったり、自分より小さなこどもがいたりするだけで、欲しいものがあっても欲しいって言えなくなったりするんだ。配慮も遠慮もするんだよ、こどもだって。あきらめて、そのうち、欲しいと思うものを見つけることさえやめてしまう。どうせかなわないんだもんね。でも、それって、つまらない人生だろう?」
高い目標を持って努力することをやめ、手に入るものだけで満足してしまっては ……飼いならされた動物のようでは……成長ができない。それは本当の幸せではない。ただ安全なだけだ。それも永久にではない。何故なら自分のものではないからだ。欲しいものを見つけ、それを努力して手に入れてこそ、本当に自分のものになるのだ。
そう説明して、アガリに背を向け、今度は先ほどの鍋より格段に小さい鍋を取り、そこに小さくした肉と野菜を入れて、それを炒めながら話した。
「だけど、こどもの頃にあんまり我慢することに慣れちゃうと、心が死んじゃうんだ。ずっと暗い牢屋に閉じ込められていたら、光を見ることをあきらめるし、光を忘れてしまうだろ? 光を見たいと思えば思うほど、それがかなわないことに苦しむんだから。そんなふうに、生まれつき閉じこめられているような人たちがたくさんいる。他人の都合で言葉も出せない、そういうかわいそうな人たちが……大きなこどもたちが、ね。手に入るもので満足するしかない、死んだように生きる者たちに、僕はこれ以上増えてほしくない」
ユイイチは鍋に水を入れ、甘口のルーを入れて、リンゴジャムを加えてふたをした。そして、さっと振り向く。伏せ目勝ちな目が悲しげに輝いている。
「こどもの無邪気に『欲しい』って思える心は大切なんだ。生きる力だよ。この世界を愛することなんだ。基本は好きだから欲しいんだよ、そうだろう? だから、欲しいと思うことはすべて悪いことじゃないって、無駄なことじゃないって、覚えてもらわなくちゃ。それに合う努力をしたら、手に入るものもあるってね。そういう癖を作っていくんだ。夢を見る癖をね」
ユイイチは口を閉じると、少しためらうように鍋を見てから、勢いよくアガリに向き直る。ひょいと肩をすくめて、それまでよりも軽い口調で言った。
「つまり、あれはこどもを魔法使いにする絵本なんだ。あの絵本に描いたことはたいていかなうんだ。プレゼントした人が……できる範囲でだけど……かなえてあげるように説明書に書いてあるから。たいしたことじゃないだろ? 食べたいものとか、行きたいところとか。それもすぐじゃなくていいんだし。ただ、もしその場で約束をしたら、絶対にかなえてあげてくださいとは書いたけど。じゃないと信用がなくなるからね、その人の。でも、簡単なことだけでいいんだよ。こどもに自信をつけるためなんだから。僕たちは『お手伝い』程度で。ほら、こういうのはすぐできるしね」
ユイイチはこんこんと鍋の取ってを叩く。
アガリはハッとする。
(ああ、それでカレーライスなのか……)
おそらくキワムが『食べたいもの』にカレーライスも描いたのだろう。
熱心に描いていたはずだ。自分の願いを知ってもらえて、それをかなえてもらえるのだから。さぞ嬉しかったことだろう。描いたことが現実になるのだから。自分もそういうふうにされたらやはり嬉しい……。
何かすっきりしない。
(……なんだ?)
アガリはわけのわからない苛立ちに襲われた。
気づいた様子もなくユイイチが話し続ける。
「お父さんお母さんが忙しくて、こどものためになかなか時間を取れなくても、あの本でこどもと遊べば、『食べたいもの』『行きたいところ』『欲しいもの』『かなえたい夢』なんでもあるから、こどものこと丸分かり。まあ、もっとも、こどもが教えてくれればだけど。でも、描けばかなうんだから食いつくはずだよ。少ない時間でしっかりコミュニケーション取れるし、その本を大事にとっておけば記念にもなる。欲しいものもわかるから、誕生日とかクリスマス前とか便利だよー」
最後の言葉をにっこり笑って言う。なかなか商売上手だ。
ふと、アガリは自分のこどもの頃の夢を思い出した。
そのとたん、つい口に出た。
「兄貴、俺、アンコが頭につまったヒーローになりたいんだ」
「がんばれ」
即座に返したユイイチがぐっと拳を握る。
「そのものにはなれないけど、飢えたこどもの腹を満たすことならおまえにもできる。狭い範囲でもヒーローはそう思ってくれる誰かがいる限りヒーローだ。誰かが認めてくれるまでがんばるんだ。そう自然に呼ばれるようになるまで」
きっぱりとそう言い切った。
(つづく)