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魔法のえほん。





「え、何?」
 いつも家政婦が料理を作る台所に、エプロンをしたユイイチの背中がある。たまには家族の作るご飯をキワムに食べさせたいと……それは長年勤めている家政婦に失礼だが……ユイイチが主張して、自ら包丁を握ったのだ。泊まりに来たら夕飯と限らず、必ず何か作りたがる。要するに料理好きなのだ。
 にんじんを切るのをやめ、きょとんとした顔を向ける。
「何が『魔法』なのかって?」
 ちゃんと聞き取っていたようだ。アガリはこっくりうなずいた。
「『まほうのえほん』って題名だったろ。あれ、何だ?」
「ああ……」
 くすっと笑ってまな板に向き直り、どうでもよさそうに言う。
「おまえも読めばわかるのに」
 アガリはムッとして、壁につけていた背中を離してユイイチに近づき、後ろから覗きこむ。そして声をわざと低くしてぼそっと言った。
「あんな恥ずかしい本が読めるか」
「ガリ、おまえなー……」
 くるっと振り向いたユイイチが目をつり上げて怒鳴る。
「人がエロ本書いたみたいに言うんじゃないよ!」
「エロ本なら喜んで」
 アガリは真面目な顔で返す。ユイイチの手に握られていて、自然とアガリに向けられることになった包丁から距離を取って。
「だけど二十歳過ぎた男が絵本はねぇだろ」
 ユイイチは忌々しげにアガリをにらみつけてまな板に向かう。
「偏見だよ。最近はおとなも楽しめる絵本ってあって、けっこう売れてんだからな」
 にんじんの残りを切ると、流しで手を洗って、冷蔵庫へ向かう。その後ろをアガリはついて歩いた。
 ユイイチは冷蔵庫の扉を開けようとして、後ろに立っていたアガリにぶつかり、それに気づいた。『はぁ』とため息を吐く。
「ガリ、邪魔」
「悪い」
 冷蔵庫から肉を取り出し、また歩き出す。こりずについてくるアガリに、ユイイチは仕方ないと思ったのか、口を開く。
「絵本が読めなくても、おとなへの説明がついてるから、それを読めばいいんだよ。あの絵本には使い方があるからー……つまり、魔法の使い方が」
 大真面目に言われるとやはりおかしく感じる。
 アガリはおそるおおる尋ねる。
「……魔法?」
「うん」
 当然というようにユイイチがうなずく。
(なんだそれは……)
 魔法の使い方の説明書のついた絵本。
 兄はいったい何を作ったのか。
 アガリは呆然とする。
 こどもが絵本の中に自分の欲しいものをなんでも描いて出せるから『まほうのえほん』だと思っていた。だが、ユイイチのそれは、まるで絵本自体に魔力がこめられているような言い方だ。
 やはり何か秘密があるのだ。
 こどもを夢中にさせる何か、方法が。
 それはいったいなんなのか。
 コンロの前に立ったユイイチが、火にかけた鍋に油を入れて、アガリはカレーライスを作ろうとしていることに気づき、少し驚く。ユイイチが作る料理はご飯にみそ汁に焼き魚など、和が中心だ。それしか作らないわけではもちろんなく、今も料理本を見ずに作っているが。普通、自分の得意な料理を他人に食べさせたいと思うもので、ユイイチが誰かに食べてもらうために作る料理もまた和食が多い。それなのに。
 鍋のほうを向いたまま、ちらりとアガリに視線だけ向けて、ユイイチは言った。
「あれはね、夢を現実にする絵本なんだよ」
「……欲しいものをなんでも絵本に描ける……」
「いや、そうじゃなくて」
 言葉を途中で切り、ユイイチは振り向いて『ワイン取って』と言う。アガリは考えながら無言で赤い液体の入ったコップを取って渡した。ユイイチは鍋にそれを入れ、そのコップに水を入れて鍋に入れることを繰り返し、辛口ルーとお手製のブーケガルニを放りこんで、ふたをした。そして、ようやくアガリのほうを向く。
 真面目な顔をして、目の前に人差し指を立てて、教師のような口調で言った。
「あの絵本に……たとえば『食べたいもの』をイチゴと描いたのなら、それを絵本をプレゼントした人がかなえてあげてください。欲しいと思うものがあり、それをどんな方法でも表に出せたなら、すぐにではなくてもたくさんかなうものがあるこということを、信じさせてあげてください。小さな願いさえかなわないことに失望し、夢を抱くことを恐れ、世界をつまらないものだと思わないように。希望を抱き、現実に立ち向かい、自信を持って夢を追うことができるように、明るく生きられるように、その勇気の種を育ててあげてください。それがいつかひとりで立つ素になるのです。しっかりと本当の自分と向き合えるように、安心させてあげてください。そのために、たまにはわがままを言わせてあげてください……この世界を魅力的に見せる魔法を教えてあげてください、云々」
 『わかった?』と首を傾げる。
「……?」
 なんと返していいかわからず、無言の後、ゆっくりとアガリも首を傾げる。



(つづく)
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